5月, 2022 - 風光舎 | 愛知・名古屋での骨董古美術買取 三重 岐阜 - Page 2

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FROMKYOTOOSAKA

お食い初め(韓国編)(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取いたします 古美術風光舎名古屋店)

2022.05.18

皆さま、こんにちは。スタッフMです。

 

今朝は、よく通る道の花々がいつもより美しく見えたので写真を撮ってみました。

 

 

同じ道でも、その日の気分だったり、時間によって全く見え方が違うことってありませんか。

私は、今日の運勢が最下位でしたが、この花々のおかげでとても癒されたので気持ちも少しハッピーになりました。

 

以前のブログで「お食い初め」についてお話させていただいたのですが、今回は最近、私の韓国の知人の子供が生後100日のお祝いをしたという話を聞いたので、「お食い初め(韓国編)」としてご紹介させていただきます。

 

お隣の国、韓国では日本と同じように生後100日を迎えると、感謝の意味も込めて家族や親戚、近所の方も呼んで皆でお祝いするそうです。

現在は家族や身内だけで行うことも多いようですが、生後100日を祝う習慣というのは昔から変わりません。

 

具体的にお祝いの日には、元気で長生きするよう願いが込められたチマチョゴリなどの服を着て、皆で食事をします。

そして1段または2段からなる、専用のお祝いの台座を用意し、果物や花、お餅、ケーキ、写真等を綺麗に飾りつけし、記念日を過ごします。

 

韓国ではお祝い事の際に、お餅を食べたり配ったりする習慣がありますが、生後100日のお祝いにもお餅が欠かせません。

100日のお祝いとして用意されるのは、白いお餅と小豆の粉をふったお餅の2種類が代表的です。

 

白いお餅は、神聖さや純潔さを表すものとして、長寿の意味が込められています。小豆の粉をふったお餅は、小豆色が悪い気を払うものとされています。

どちらのお餅もたくさん用意して、台座に飾ったあとは、お祝いに来てくれた人たちやご近所さんに配ったり、食べたりします。

この2種類の他にも、万物の調和を意味する5色のお餅や丈夫に育つようにという意味を込めたきな粉餅を用意する場合もあるそうです。

 

そして最近、韓国では日本も増えてきていますが、家族写真を写真館で撮る文化が浸透しています。もともと韓国には写真館がたくさんあり、節目節目で記念に写真におさめることが一般的になっているようです。

 

そして贈り物編として、韓国では赤ちゃんに「ペギルパンジ」と呼ばれる小さな金の指輪が贈られるそうです。

それこそよく知られているのが、ヨーロッパの100日の贈り物として「銀のスプーン」。中国では100日になると人生初めての剃髪を行い、剃った頭髪で「胎毛筆(たいもうふで)」と呼ばれる筆を作る習慣があります。一生に一度しか作れない貴重な筆は、とっても記念になりますよね。

 

当店にも様々な骨董品がありますが、もしかしたらこれも誰かからの大切な贈り物だったのかもしれません。そしてとっても大切にされて、今このように綺麗な形で残っているのでしょう。

そう考えると、やはり魅力があるこのお仕事です。

 

 

 

Hello everyone. This is Staff M.

This morning, the flowers on the road I often go through looked more beautiful than usual, so I took a picture.

Even on the same road, isn’t it the mood of the day or the way it looks completely different depending on the time? I had the lowest fortune today, but I was a little happy because I was so healed by these flowers.

 

 

I talked about “beginning of eating” in my previous blog, but this time I heard that my Korean acquaintance’s child celebrated 100 days after birth, so “beginning of eating (Korean edition)” ) ”.

 

In the neighboring country, South Korea, as in Japan, when we reach the 100th day of life, we will invite family members, relatives, and neighbors to celebrate with a sense of gratitude. Nowadays, it seems that it is often done only by family and relatives, but the custom of celebrating 100 days after birth has not changed from old times. Specifically, on celebration days, we all eat together, wearing clothes such as chima jeogori, which wishes to live a healthy and long life.

 

Then, prepare a special festive pedestal consisting of one or two tiers, decorate fruits, flowers, rice cakes, cakes, photos, etc. beautifully and spend the anniversary. In Korea, it is customary to eat and distribute rice cakes during celebrations, but rice cakes are indispensable for the celebration of the 100th day after birth. Two types of rice cakes, white rice cakes and rice cakes sprinkled with azuki bean powder, are typically prepared as a celebration of the 100th day. White rice cake has the meaning of longevity as an expression of sacredness and chastity.

 

Mochi sprinkled with red bean powder is said to dispel the bad color of red beans. After preparing a lot of both rice cakes and decorating them on the pedestal, we will distribute and eat them to the people and neighbors who came to the celebration. In addition to these two types, there are also cases where we prepare five-colored rice cakes, which means the harmony of all things, and kinako rice cakes, which means to grow strong.

 

And recently, in Korea, Japan is increasing, but the culture of taking family photos at photo studios is pervading. Originally, there are many photo studios in Korea, and it seems that it is common to take pictures at milestones.

 

And as a gift, in Korea, a small gold ring called “Pegil Panji” will be given to the baby. It is well known that “Silver Spoon” is a gift for 100 days in Europe. In China, it is customary to shave for the first time in life after 100 days, and to make a brush called “Taimofude” with the shaved hair. A precious brush that can only be made once in a lifetime is a very memorable one.

 

There are various antiques in our shop, but maybe this was also an important gift from someone. And it is very important, and it seems that it remains in such a beautiful shape now. With that in mind, this job is still attractive.

 

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風光舎では、古美術品や骨董品の他にも絵画や宝石、趣味のお品など様々なジャンルのものを買受しております。

お片付けをされていて、こういうものでもいいのかしらと迷われているものでも、どうぞお気軽にご相談下さいませ。

また風光舎は、出張買取も強化しております。

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愛知県名古屋市千種区・骨董 買取

『古美術 風光舎 名古屋店』

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平安神宮会館で朝食を(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取いたします 古美術風光舎名古屋店)

2022.05.17

皆さま、こんにちは。

最近、家の近所を散歩し始めたのですが、公園でダッシュしている男性がいたので真似して走ってみたら太もも裏を痛めたスタッフNでございます。

準備運動の大切さを身に沁みて感じました。

さらに、先ほど、ポスティングの帰りに歩きスマホの男性とぶつかりそうになり、大事故になりかけました。

歩きスマホ本当に危ないです。やめましょう。

ひやっと続きだったので、平安神宮の写真でも観て癒されることにいたしましょう。

 

 

 

平安神宮と言えば、藤原紀香が結婚式をしたところというイメージが強いですね。

ここで平安神宮について調べてみました。

平安神宮(へいあんじんぐう)は、京都市左京区にある神社でございます。

1895年(明治28年)4月1日に平安遷都1100年を記念して京都で開催された内国勧業博覧会の目玉として平安京遷都当時の大内裏の一部復元が計画されました。当初は実際に大内裏があった千本丸太町に朱雀門が位置するように計画されましたが、用地買収に失敗し、当時は郊外であった岡崎に場所を移して1893年(明治26年)9月3日に地鎮祭が執り行われました。社殿は平安京の大内裏の正庁である朝堂院を模し、実物の8分の5の規模で復元されて1895年(明治28年)に完成しました。

 

 

博覧会に先立つ3月15日には、平安遷都を行った天皇である第50代桓武天皇を祀る神社として創祀されました。皇紀2600年にあたる1940年(昭和15年)に、平安京で過ごした最後の天皇である第121代孝明天皇が祭神に加えられました。平安神宮では京都を守る四神の御守が授与されております。

1976年(昭和51年)1月6日、火災(平安神宮放火事件)が発生し本殿・内拝殿など9棟が炎上、焼失しました。ただし、東西の両本殿から御神体は運び出されて無事、外拝殿である大極殿も延焼をまぬがれました。創建が比較的新しかったことから当時はこれらの建物は文化財指定を受けていなかった為、再建の為の国からの補助金が見込めませんでした。しかし、全国からの募金により、本殿や内拝殿は1979年(昭和54年)4月に再建されました。この火災は、後に日本の新左翼活動家加藤三郎の犯行と判明したそうです。

 

 

 

社殿は、平安京の大内裏の正庁である朝堂院八省院)を縮小(長さ比で約8分の5)して復元したものでございます。大きく赤く光る朱色が特徴的な正面の門は、朝堂院の応天門を模しております。その内側の左右の殿舎は朝集堂の再現でございます。外拝殿は朝堂院の正殿である大極殿(左右には蒼龍楼と白虎楼が付属する)を模しております。1895年(明治28年)に完成致しました。

基本的にはこれらの建築様式は、平安時代後期(11 – 12世紀)の第3次八省院(延久4年(1072年)再建、治承元年(1177年)焼亡)を再現したものとなっております。この時の大極殿などの姿は、後白河法皇が作らせた「年中行事絵巻」に描かれているそうです。ただ、大極殿と応天門の間には本来は会昌門朝堂12堂が存在し、応天門の左右には翔鸞楼と栖鳳楼という楼閣が付属していましたが、これらは平安神宮では復元されておりません。また、平安神宮の社殿の瓦はすべて緑釉瓦となっていますが、近年の研究によると平安時代の大極殿では軒先と棟部分だけにしか緑釉瓦は使われていなかったと推定されております。

2010年(平成22年)12月、大極殿など6棟が国の重要文化財に指定されました。また、参道の大鳥居は24.4mの高さがあり、国の登録有形文化財に登録されております。

敷地面積は約10,000坪の日本庭園である「平安神宮神苑」を含め、約20,000坪ほどございます。

 

 

 

今回、平安神宮神苑を眺めながらの朝食プランというのがホテルでついておりまして、恐れながら行ってまいりました。

平安神宮神苑(へいあんじんぐうしんえん)は京都府京都市左京区にある池泉回遊式の近代日本庭園でございます。平安神宮の大極殿背後の周囲三方に配された南神苑、西神苑、中神苑、東神苑で構成され、面積は33,000平方メートル、作庭は小川治兵衛、1975年(昭和50年)に国の名勝に指定されております。

明治28年(1895年)、平安遷都千百年祭が開催されるにあたり創建されることになった平安神宮の社殿一帯の風致保存のために庭園を築造することになり、神苑造営が企画されました。 当初に設けられた本殿東西の蒼龍池(東池)と百虎池(西池)の二つが最も古いそうです。

生きてきた中で、こんな優雅な朝食はないくらい幸せなひと時でありました。

たまたま他にお客様がおらず、貸し切りだったので、朝の静かな平安神宮を堪能することができました。

庭園の椅子や石が、作者が風景が美しく見える場所を教えてくれていると、スタッフの方が教えてくださったので、素敵な風景の写真を撮ることができました。

 

 

途中まで自分が貴族のような気分で歩いておりましたが、途中の橋で鯉と亀に麩菓子をあげるのに夢中になっておりました。

亀と小さい魚にあげたいのですが、風で飛ばされて大きな鯉ばかりに横取りされるのが悔しくてついつい・・・。

同じ時間に結婚式もされていたようですが、残念ながら会えませんでした。

今から1200年前、京都が生まれたばかりの風景をさながらに体感し、感動致しました。

日本に生まれて良かったとしみじみ感じた日でございました。

ではでは

Hello everyone.

Recently, I started taking a walk in the neighborhood of my house, but there was a man dashing in the park, so when I tried to imitate it, it was Staff N who hurt the back of his thighs.

I felt the importance of the preparatory movement.

In addition, I was about to hit a man on my smartphone while walking on the way home from posting, and I was about to have a big accident.

Walking smartphone is really dangerous. let’s stop.

It was a continuation, so let’s take a look at the pictures of Heian Jingu and let’s be healed.

Speaking of Heian Jingu, the image of Norika Fujiwara having a wedding is strong.

I checked about Heian Shrine here.

Heian Jingu is a shrine located in Sakyo Ward, Kyoto City.

A part of the back of Ouchi at the time of the relocation of Heiankyo was planned as the centerpiece of the National Industrial Exhibition held in Kyoto on April 1, 1895 (Meiji 28) to commemorate the 1100th anniversary of the relocation of Heian. Initially, it was planned that Suzakumon would be located in Senbon Marutamachi, where the back of Ouchi was actually located, but the land acquisition failed and the location was moved to Okazaki, which was a suburb at that time, in 1893 (Meiji 26). The groundbreaking ceremony was held on September 3rd. The shrine was reconstructed on a scale of 5/8 of the actual shrine and completed in 1895 (Meiji 28), imitating the Chodoin, which is the main office of the Ouchi back of Heiankyo.

It was founded on March 15th, prior to the exposition, as a shrine dedicated to the 50th Emperor Kanmu, the emperor who relocated to Heian. In 1940 (Showa 15), which is the 2600th year of the imperial era, the 121st Emperor Komei, the last emperor to spend in Heiankyo, was added to the deity. At Heian Jingu, the amulets of the four gods that protect Kyoto are awarded.

On January 6, 1976 (Showa 51), a fire (Heian Jingu arson incident) broke out and nine buildings including the main shrine and the inner worship hall were burnt down. However, the Shintai was carried out from both the eastern and western main shrines, and the Daigokuden, which is the outer worship hall, also survived the spread of fire. Since the construction was relatively new, these buildings were not designated as cultural properties at that time, so subsidies from the country for reconstruction could not be expected. However, the main hall and the inner hall of worship were rebuilt in April 1979 (Showa 54) by raising funds from all over the country. The fire was later discovered to be the crime of Saburo Kato, a new left-wing activist in Japan.

The main shrine is a reduced version (about 5/8 of the length) of the Chodoin (Hachishoin), which is the main office behind the Ouchi area of ​​Heiankyo. The front gate, which is characterized by a large red glowing vermilion, imitates the Otenmon gate of Chodoin. The left and right halls inside it are a reproduction of the morning assembly hall. The outer hall of worship imitates the main hall of the Chodoin, the Daigokuden (with the Souryu Tower and the White Tiger Tower attached to the left and right). It was completed in 1895 (Meiji 28).

Basically, these architectural styles are reproductions of the 3rd eight provinces of the late Heian period (11th-12th centuries) (reconstructed in the 4th year of Enkyu (1072) and burned down in the first year of the Jisho period (1177)). It has become. The appearance of Daigokuden at this time is said to be depicted in the “Annual Event Picture Scroll” made by Emperor Go-Shirakawa. However, between Daigokuden and Otenmon, there were originally Kaishomon and 12 Chodo, and on the left and right of Otenmon, there were towers called Shogunro and Suhoro, but these are at Heian Jingu. It has not been restored. In addition, all the tiles of the shrine of Heian Jingu are green glazed roof tiles, but according to recent research, it is estimated that green glazed roof tiles were used only for the eaves and ridges in the Taikyokuden during the Heian period. ..

In December 2010, 6 buildings including Daigokuden were designated as national important cultural properties. In addition, the large torii gate on the approach road has a height of 24.4m and is registered as a national tangible cultural property.

The site area is about 20,000 tsubo including “Heian Jingu Shrine” which is a Japanese garden of about 10,000 tsubo.

This time, the hotel had a breakfast plan with a view of Heian Jingu Shrine, so I was afraid to go there.

Heian Jingu Shrine is a modern Japanese garden with a strolling style of Ikezumi in Sakyo Ward, Kyoto City, Kyoto Prefecture. It is composed of Nanjinen, Nishijinen, Nakajinen, and Higashijinen, which are arranged around the Taikyokuden of Heian Jingu, with an area of ​​33,000 square meters, and the garden is Ogawa Jihei. It is designated as.

In 1895, a garden was to be built to preserve the scenic beauty of the Heian Jingu shrine, which was to be built when the Heian-kyo 1000th Anniversary Festival was held. I did. It is said that Soryu Pond (Higashi Pond) and Hyakutora Pond (Nishi Pond), which were originally established in the east and west of the main shrine, are the oldest.

In my life, I was so happy that I couldn’t have such an elegant breakfast.

It happened that there were no other customers and it was reserved, so I was able to enjoy the quiet Heian Shrine in the morning.

The staff told me that the chairs and stones in the garden tell me where the landscape looks beautiful, so I was able to take pictures of the landscape.

I was walking halfway like an aristocrat, but I was absorbed in giving carp and turtles sweets at the bridge on the way.

I’d like to give it to a turtle and a small fish, but I’m disappointed that it’s blown away by the wind and stolen by only a big carp.

It seems that the wedding was held at the same time, but unfortunately I couldn’t meet.

I was impressed by experiencing the scenery of Kyoto just born 1200 years ago.

It was a day when I was happy to be born in Japan.

See you soon

 

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建仁寺(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取いたします 古美術風光舎名古屋店)

2022.05.15

皆さま、こんにちは。

携帯だけ持ってスーパーにお昼ごはんに行きましたが、paypayが使えず、ICカードで支払うも残高不足、仕方がないのでいつもの店に来てみたらまさかのお休み。薬局に来てみたら、マスクとビニールシートで声が届かず、悲しいスタッフNでございます。

しかし、いいこともございました。

ポスティング中に、ポストの上にいる可愛らしい白黒にゃんこに出会いました。

近くに行っても逃げないので、いつもの定位置なのでしょう。

この家に来た郵便屋さんはさぞ、ほっこりなさることでしょうね。ただし、猫好きに限りますが。

先日行った建仁寺のお話をしたいと思います。

 

実は建仁寺、知り合いにつれていかれるまでは存じ上げませんでした。

いざ行ってみると、今まで知らなかったのが悔やまれるくらい素晴らしいところでございました。

建仁寺(けんにんじ)は、京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の大本山の寺院でございます。創立者は源頼家、開山は栄西でございます。かつて京都五山の第3位でありました。

俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝えております。山内の塔頭としては、桃山時代の池泉回遊式庭園で有名であり、貴重な古籍や漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵していることで知られる両足院などがございます。また、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺だそうです。寺号は「けんにんじ」と読むが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれております。なお、しばしば日本最初の禅寺といわれますが、これは間違いで、博多の聖福寺(妙心寺派)が最初の禅寺だそうです。

 

日本に臨済宗を正式に伝えたのは栄西であるとされております。栄西は永治元年(1141年)、備中国に生まれました。13歳で比叡山に上り翌年出家。仁安3年(1168年)と文治3年(1187年)の2回、南宋に渡航致しました。1度目の渡宋はわずか半年でしたが、2度目の渡宋の際、臨済宗黄龍派(おうりょうは)の虚庵懐敞(きあんえじょう)に参禅致しました。

建久2年(1191年)、虚庵から印可(師匠の法を嗣いだという証明)を得て帰国致します。当時、京都では比叡山延暦寺の勢力が強大で、禅寺を開くことは困難でありました。栄西は初め九州博多に聖福寺を建て、のち鎌倉に移り、北条政子の援助で正治2年(1200年)に建立された寿福寺の開山となります。

その2年後の建仁2年(1202年)、鎌倉幕府2代将軍源頼家の援助を得て、元号を寺号とし、京都における臨済宗の拠点として建立されたのが建仁寺でございます。

 

特に、中庭は四方どこから見ても美しく時間を忘れて皆畳の上に静かに座っておりました。

畳に座って中庭をぼんやり眺めるだけでも、建仁寺に来る価値があると思います。

創建当時の建仁寺は真言院・止観院を構え、天台・真言・禅の3宗並立でありました。これは当時の京都では真言、天台の既存宗派の勢力が強大だったことが背景にあるそうです。

寛元4年(1246年)6月と翌寛元5年(1247年)、そして建長8年(1256年)7月に焼失し衰微しました。しかし、正嘉元年(1258年)5月、東福寺開山の円爾(聖一国師)が当山に入寺し仏殿などを復興致します。翌、正元元年(1259年)には宋僧の蘭渓道隆が11世住職として入寺し、臨済禅道場となりこの頃から純粋禅の寺院となります。文永2年(1265年)には臨済禅寺となり、寺名を建寧寺に改名致します。

そして、康永元年(1342年)寺名を建仁寺に戻します。

 

 

応永4年(1397年)11月、応仁の乱に巻き込まれて焼失致します。文明13年(1481年)にも炎上しており、当寺は火災が多く創建当時の建物は残って。おりません。

天正年間(1573年 – 1592年)に安国寺恵瓊が復興に努め、江戸時代にも修理が継続して行われました。

法堂(京都府指定有形文化財) は仏殿(本尊を安置する堂)と法堂(はっとう、講堂にあたる)を兼ねている当寺の本堂でございます。明和2年(1765年)再建され、2002年(平成14年)創建800年を記念して天井に小泉淳作により「双龍図」が描かれました。方丈と渡り廊下で繋がっております。

写真で見ても伝わるこの迫力、素晴らしいですね。実際には、想像よりも天井が高く広かったので驚きました。

方丈(重要文化財) – 長享元年(1487年)の建立で、もと安芸国の安国寺にあり、安国寺恵瓊が慶長4年(1599年)に建仁寺に移築したものでございます。東側に設けられた大玄関を介して本坊と連結しており、創建当初は杮葺であったが元文元年(1736年)に瓦葺きに改められました。建物の外周すべてに建具が入り壁が少ない構造のためか、1934年(昭和9年)の室戸台風で倒壊し、1940年(昭和15年)に創建当初の杮葺で復旧されました。その後1962年(昭和37年)に銅板葺きに改められていたが、2013年(平成25年)に杮葺に復しました。各室には桃山時代の画壇を代表する画家の一人である海北友松の水墨障壁画がありましたが、現在は襖から掛軸に改装され、京都国立博物館に寄託されております。台風被害の復旧後は、日本画家橋本関雪による障壁画『生生流転』(しょうじょうるてん)『伯楽』『深秋』『蕭條』『松韻(寒山子)』(計60面、1940年完成)が設置されております方丈前庭「大雄苑」 -枯山水庭園。1940年(昭和15年)の作庭。

庭園「〇△□乃庭」 – 2006年(平成18年)北山安夫による作庭でございます。

 

 

風神雷神図 – 俵屋宗達筆。金地の二曲一双屏風のそれぞれに風神と雷神を描いております。たっぷりと取られた余白が広い空間を暗示し、天空を駆ける両神のダイナミックな動きを感じさせます。印も落款もありませんが、俵屋宗達の代表作として名高いです。原本は京都国立博物館に寄託され、常時の公開はされておりませんが、複製の屏風および陶板は建仁寺で見ることができます。元々は京都の豪商・打它公軌(うだきんのり/糸屋十右衛門)が建仁寺派である妙光寺再興の記念に俵屋宗達に製作を依頼したもので、その後、妙光寺から建仁寺に寄贈されました。

 

 

壮大な天井画、絵にかいたような中庭、今にも飛び出しそうな襖絵などが堪能できるアーティスティックな建仁寺、大好きになりました。

次回京都旅行に来た時も、ぜひ行きたい場所です。

このようにいろんな土地に自分のお気に入りが増えるのは素敵なことでございますね。

古美術風光舎も、皆さまのお気に入りにいれていただけると幸いでございます。

ではでは

 

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次回の連休こそ(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取いたします 古美術風光舎名古屋店)

2022.05.14

皆さま、こんにちは。スタッフMです。

 

今日は雨予報でしたが、いつのまにかすっかり晴れて、蒸し暑さが戻ってきました。

ゴールデンウィークも明けて、そろそろ4月の環境の変化なども合わせて一気に疲れがくる頃ではないでしょうか。

私の今年のゴールデンウィークはというと、せっかく行動制限のない連休でしたが、どこにも行かずいつも通りの日々を送っておりました。(笑)

 

 

そこで今回は「次の連休こそ行きたい場所」について書かせていただきます。

 

私のここ最近行きたい場所が、「沖縄・座間味島」です。

今、朝ドラでも話題の沖縄ですが、もともと本島も離島も大好きで訪れたことがあるのですが、「座間味島」には一度も行ったことがないのです。

 

座間味島は、面積6.7㎢、人口600人ほどの小さな島で、砂浜と「ケラマブルー」と称される美しい青い海で有名で、世界中のダイバーが「いつか訪れたい」と願う海だそうです。

 

もちろんダイバーだけでなく、2014年に座間味島のある慶良間諸島が国立公園に指定されたことで一般の方にも広く知られるようになりました。

 

座間味島は港や商店がある座間味村の中心「座間味集落」、ミシュラン・グリーンガイド2つ星の古座間味ビーチ東側の「阿佐集落」、ウミガメと出会える確率が高いと言われる西側の阿真ビーチ近く「阿真集落」の3つに分かれています。

 

中でも私が気になっているスポットが座間味集落にあります「古座間味ビーチ」です。

話が変わってしまいますが、実は昨年からサーフィンを始めまして。なので海のアクティビティがかなり気になっているのです。

そこで今年こそは、サーフィン+ダイビングも始めたいなあと思っております。

これもあり、この古座間味ビーチに興味を持ちました。

 

話が逸れましたが、座間味がなぜダイビングスポットで有名なのか。それは海が穏やかで砂地が多いこと、そして透明度の高い海と世界に誇るサンゴ礁。

 

とくにサンゴ礁の美しさは言葉にならないほどなんだとか。座間味島のある慶良間諸島には現在250種のサンゴが生息します。

これは世界に生息するサンゴの1/5に匹敵し、その群生する密度や種類の豊富さから非常に貴重なエリアとして世界中から知られています。

 

また5~6月の大潮の際にはサンゴの産卵も見られるということで、その様子はまさに星空の下にいるような雰囲気だそうです。

 

一度でいいから見てみたいですよね。

 

こうやって調べているとますます行きたくなります。

‥最後に、去年行った沖縄の写真で失礼いたします。

 

 

 

 

Hello everyone. This is Staff M.

It was a rain forecast today, but before I knew it, it was sunny and the heat was back. After Golden Week, it’s time to get tired at once with the changes in the environment in April. My Golden Week this year was a long holiday with no restrictions on my activities, but I didn’t go anywhere and lived as usual.

 

So, this time, I will write about “the place I want to go to next consecutive holidays”. The place I want to visit recently is “Okinawa Zamami Island”. Okinawa is a hot topic in the morning drama, but I have visited the main island and remote islands because I loved them, but I have never been to Zamami Island.

 

Zamami Island is a small island with an area of ​​6.7 ㎢ and a population of about 600 people. It is famous for its sandy beach and beautiful blue sea called “Kerama Blue”, and it is said that divers all over the world want to visit someday. .. Of course, not only divers, but also the Kerama Islands, where Zamami Island is located, was designated as a national park in 2014, and it has become widely known to the general public.

 

Zamami Island is near the center of Zamami Village, where the port and shops are located, “Zamami Village”, “Ama Village” on the east side of Furuzamami Beach, which is a 2-star Michelin Green Guide, and Ama Beach on the west side, where it is said that there is a high probability of encountering sea turtles. It is divided into three parts, “Ama Village”.

 

One of the spots I’m interested in is “Furuzamami Beach” in Zamami Village. The story changes, but in fact I started surfing last year. That’s why I’m really interested in sea activities. So this year, I want to start surfing + diving. Because of this, I was interested in this Furuzamami beach.

 

The story is off, but why is Zamami famous for diving spots? The sea is calm and sandy, and the clear sea and world-class coral reefs. Especially the beauty of coral reefs is indescribable. Currently, 250 species of coral inhabit the Kerama Islands, where Zamami Island is located. It is comparable to one-fifth of the world’s corals and is known around the world as an invaluable area due to its density and abundance of species.In addition, coral spawning can be seen during the spring tide from May to June, so it seems that the atmosphere is just like being under the starry sky.

 

I want to see it because it’s okay to do it once. I want to go more and more when I research this way. Finally, I’m sorry for the photo of Okinawa I went to last year.

 


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お食い初め(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取いたします 古美術風光舎名古屋店)

2022.05.13

皆さま、こんにちは。スタッフMです。

 

週末にかけて雨ということで、気分もブルーになってしまいそうな今日、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

 

今回のブログでは少しでも晴れた気持ちになれるよう(最近の出来事を話したいだけです)お食い初めについてお話させていただきます。

というのも実は先週、姪っ子の「お食い初め」を行いました。私自身、初の行事ということで、とても楽しみにしていた行事の1つなのです。

 

 

簡単にお食い初めについて説明させていただきますと、お食い初めは「100日祝い」「百日祝い」とも呼ばれる生後100日のお祝い事です。

平安時代から行われている、歴史のある伝統行事で”一生、食べることに困らないように”と赤ちゃんの健やかな成長を願って行われます。

 

お食い初めでは初めて箸を使ってお魚を食べさせる真似をすることから「箸揃え」「箸祝い」「真魚始め(まなはじめ)」とも呼ばれるそうです。

このように地域によっても色々な呼び方で呼ばれていますが、赤ちゃんが数か月間無事に成長してきたことを家族でお祝いし、感謝するという意味合いは変わりません。

 

 

お食い初めの起源や由来は、平安時代に遡り、赤ちゃんにお餅を食べさせる「百日(ももか)」という行事があり、これがお食い初めの始まりと言われています。

最初は、生後50日に行われていたので「五十日(いのか))の祝い」といわれ、食べさせるお餅を「五十日餅(いのかもち)」と呼んでいました。重湯の中にお餅を入れ、そのお餅を赤ちゃんの口に少しだけ含ませるというものでした。やがて五十日のお祝いが百日になり、鎌倉時代には餅から魚肉に変わり、「真魚初め」と呼ばれるようになりました。

 

昔は衛生面や栄養面も良くなく、無事に育つことが難しかったので、様々な節目で赤ちゃんの成長を祈る儀式やお祝いが行われてきました。そして歴史を重ね、生後100日頃にお祝い膳をこしらえ、お祝いするという伝統が現代に伝わっているそうです。

 

お祝い膳は、日本古来の献立「一汁三菜」が基本とされています。鯛など尾頭つきの魚と、赤飯、吸い物、煮物、香の物が献立となります。また、生後100日前後は、早い子ですと乳歯が生え始めることから、「歯固めの石」を用意し、丈夫な歯が生えるようにという願いを込めます。

 

献立の内容は、地域で特色も多く、地方ごとの名産物が加えられたりと様々。

北海道では小豆ではなく甘納豆を入れてお赤飯を炊くことが定着していたり、大阪などでは「多幸」という語呂合わせから、縁起の良い食べ物とされ歯固めの石の代わりにタコを使う場合もあるそうです。

地域によっては、歯固めの石として他に「梅干し」「栗の実」「紅白餅」などを使ったり、九州地方では漆塗りの食器の代わりに松竹梅と鶴亀の絵が描かれた「ポッポ膳」と呼ばれる食器を使用したりもするそうです。

 

地域によっていろいろな形のお食い初めがあり、それだけでも面白く興味深いですね。

今回姪っ子のお祝い膳はスタンダードなもので、鯛、赤飯、吸い物、煮物、香の物という献立と、歯固めの石が用意されていました。

 

 

 

普段はミルクしか飲まない姪っ子ですが、その日は口に赤飯を運ばれるとおっきくあけて食べようとしていたのがとても可愛らしかったです。

 

お食い初めは地域にとっても違いますが、国によっても祝い方が様々あります。

次回は、世界のお食い初めについても調べてみたいと思います。

 

 

 

Hello everyone. This is Staff M.

How are you doing today, when it’s raining over the weekend and you’re feeling blue? In this blog, I will talk about the beginning of eating so that I can feel a little clearer (I just want to talk about recent events).

 

Actually, last week, I had a niece’s “beginning to eat”. It’s one of the events I’ve been looking forward to because it’s my first event.

To briefly explain the beginning of eating, the beginning of eating is a celebration of the 100th day after birth, which is also called “100th day celebration” or “100th day celebration”. It is a traditional event that has been held since the Heian period, and is held in the hope that the baby will grow up healthy, saying, “Don’t worry about eating for the rest of your life.”

At the beginning of eating, they use chopsticks to imitate eating fish for the first time, so they are also called “chopsticks alignment,” “chopsticks celebration,” and “mao beginning.” In this way, it is called in various ways depending on the region, but the meaning of celebrating and thanking the family for the successful growth of the baby for several months does not change.

 

The origin and origin of the beginning of eating goes back to the Heian period, and there is an event called “Momoka” that feeds babies with rice cakes, and this is said to be the beginning of eating. At first, it was held on the 50th day after birth, so it was said to be a “celebration of the fifty days”, and the rice cakes to be eaten were called “fifty days mochi”. The idea was to put rice cakes in heavy water and add a little of the rice cakes to the baby’s mouth. Eventually, the celebration of the fifty days became the hundredth day, and in the Kamakura period, rice cakes changed to fish meat, and it came to be called “Mao Hajime”. In the past, hygiene and nutrition were not good, and it was difficult to grow up safely, so ceremonies and celebrations were held at various milestones to pray for the growth of the baby. It is said that the tradition of celebrating with a festive set around 100 days after birth has been handed down to the present day.

 

The celebration set is based on the traditional Japanese menu “Ichiju Sansai”. Fish with tails such as sea bream, red rice, soup, simmered dishes, and pickles are on the menu. Also, around 100 days after birth, if you are an early child, milk teeth will start to grow, so prepare a “tooth-hardening stone” and hope that strong teeth will grow.

 

The contents of the menu have many characteristics in each region, and there are various things such as the addition of local specialties. In Hokkaido, it is common to cook red rice with sweet natto instead of azuki beans, and in Osaka etc., it is said that octopus is used instead of hardened stones because it is considered to be auspicious food because of the wordplay “Takou”. is. Depending on the area, other stones such as “umeboshi”, “chestnut fruit”, and “red and white rice cake” may be used, and in the Kyushu region, “Poppo” with a picture of Shochikuume and Tsurugame instead of lacquered tableware. They also use tableware called “zen”.

 

There are various forms of eating beginnings depending on the region, and that alone is interesting and interesting. This time, the niece’s festive set was standard, with menus such as sea bream, sekihan, soup, simmered dishes, and pickles, as well as tooth-hardening stones.

 

My niece usually drinks only milk, but on that day, when she brought red rice to her mouth, she opened it up and tried to eat it, which was very cute. The beginning of eating is different for each region, but there are various ways to celebrate depending on the country. Next time, I would like to find out about the beginning of eating in the world.

 

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先日、虎ノ門界隈を散策してきました。(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取いたします 古美術風光舎名古屋店)

2022.05.12

皆様、こんにちはスタッフYでございます。

 

このところ美術館熱が高まり、各所の作品を美術館などを訪れ触れることが多かったのですが、せっかくのこの開放的になるシーズン、アウトドアアートはどうかと、先日訪ねてきましたので、本日はそのお話を少し。

 

意外や意外、虎ノ門ヒルズへ。

 

 

 

何故に虎ノ門ヒルズかと申しますと、そろそろ落ち着きを見せた虎ノ門ヒルズの中にありますオーバル広場のアート作品が以前から気になっておりまして。

いましたよ、「ルーツ」が。高さ10mの大型彫刻でして、スペインを代表する世界的アーティスト、ジャウメ・プレンサによる作品であります。

 

こちらの「ルーツ」、よく見ますとその膝を抱えて座っている姿には8つの言語が。それらの文字を使って型取った巨大なパブリックアートであります。使用されている言語は、日本語、中国語、アラビア語、ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語、ヒンディー語、ロシア語の8種のようですが、かろうじて日本語は読み取れますね。それにしても、巨人。

 

 

 

この「ルーツ」は、それぞれの文化を映し出す文字を通じて「世界の多様性」を表現し、「多様な文化の違いを越えて、人々が平和的に共存すること」を象徴する作品として、そして虎ノ門ヒルズをルーツ(起点)に、世界の人々が共存する国際的な街づくりを進め、東京を世界一の都市にしたいという願いを込め、この広場に座っております。

 

そして、作者のジャウメ・プレンサですが、彼はスペインを代表する世界的なアーティスト。鉄やブロンズ、ガラスなどの素材に哲学的なメッセージを込めた作品を多く制作し、造形性の高さとコンセプトの深さを高く評価されております。

1999年には、舞台美術界のアカデミー賞とも言われるプラハのカドリエンナーレでゴールドメダルを受賞するなど、数々の賞を受賞。日本では2010年瀬戸内トリエンナーレにて瀬戸内海の男木島に船の発着場の設計を行っているようですね。

 

そんな巨人の佇むこちらのオーバル広場。もちろん都会で一息つけるエリアであるのですが、この芝生においてなんとヨガ活なども行われているようです。オフィスだけだと思われた虎ノ門一体において、このような開放的な自分活動もできるんですね。

 

そしてこの虎ノ門ヒルズ、全体もまだまだ進化途中なのですが、これら全てが完成すると区域面積7.5ha、延床面積80万m²、約30万m²の国際水準のオフィス、約720戸のレジデンス、約26,000m²の商業店舗、約350室のホテル、約15,000m²の緑地空間を備え、道路や鉄道などの交通インフラとも一体化した複合都市となるとのこと。先日訪れた名古屋の「ノリタケの森」ではないですが、このところの都市計画が大変面白い。

どの計画も、働くことと暮らすこと活動することの境界線や、ビルや人工的な建物と緑の境界線をとっぱらい、すべてにおいて「共生」の中、そこでいかにそこでいかに時を快適に自分らしく過ごすかを目指しているように私にはみえてまいります。

 

そんな中「ルーツ」は、ぬけるような青空を背にして、進化する風景や忙しく行き交う人々やくつろぐ人々を、ゆったりと座って眺めているような象徴的でありました。

 

そしてその後、ヒルズを後にし折角虎ノ門に訪れましたので、23区内で最も標高の高い山に登頂してまいりました。出世の階段を上って「愛宕神社へ」笑。

 

 

 

 

傾斜40度近くの階段を上っていきましたが、決して後ろを振り返ってはなりません…。曲垣平九郎、どうやって馬で駆け上ったのか、ありえん…と、息を切らしながら一気に階段を駆け上がるのが精いっぱいでありました。

 

 

 

とまあ疲れきって階段の記憶しか残っておりませんが、虎ノ門界隈、意外とゆったり過ごせ、ゆったりと都内を過ごすことができました。皆様も、是非一度訪れてみては。

 

 

それでは、ごきげんよう。

 

 

 

Hello everyone, this is Staff Y.

 

Recently, the heat of the museum has increased, and I often visit museums and touch the works of various places, but I visited the other day about outdoor art in this open season, so today I will talk about it. A little.

 

Surprisingly, to Toranomon Hills.

 

As for why Toranomon Hills, I’ve always been interested in the art works at Oval Plaza in Toranomon Hills, which is about to calm down.

There was “roots”. It is a large sculpture with a height of 10m and is a work by Jaume Plensa, a world-famous Spanish artist.

 

If you look closely at this “roots”, there are eight languages ​​in her sitting with her knees. It is a huge public art modeled using those characters. It seems that there are eight languages ​​used: Japanese, Chinese, Arabic, Hebrew, Latin, Greek, Hindi, and Russian, but you can barely read Japanese. Anyway, a giant.

 

This “roots” expresses “the diversity of the world” through letters that reflect each culture, and as a work that symbolizes “the peaceful coexistence of people beyond the differences of diverse cultures”, and Toranomon. With the hills as the roots (starting point), we are sitting in this square with the desire to promote international urban development where people from all over the world coexist and make Tokyo the number one city in the world.

 

And the author, Jaume Plensa, is one of Spain’s leading global artists. He has produced many works with a philosophical message in materials such as iron, bronze, and glass, and is highly evaluated for its high formability and depth of concept.

In 1999, he won numerous awards, including a gold medal at the Kadriennale in Prague, also known as the Academy Award for the stage art world. In Japan, it seems that you are designing a ship landing site on Ogijima in the Seto Inland Sea at the 2010 Setouchi Triennale.

 

This Oval Plaza where such a giant stands. Of course, it is an area where you can take a break in the city, but it seems that yoga activities are also being carried out on this lawn. At Toranomon, which seemed to be only an office, you can do this kind of open self-activity. It looks good.

 

And this Toranomon Hills, the whole is still in the process of evolution, but when all of these are completed, the area area is 7.5ha, the total floor area is 800,000m², the international standard office of about 300,000m², the residence of about 720 units, about 26,000m². With commercial stores, about 350 rooms, and about 15,000 m² of green space, it seems to be a complex city integrated with transportation infrastructure such as roads and railroads. Will it be like an international new city center / global business center that has an impact comparable to that of “Roppongi Hills”?

 

It’s not the “Noritake Garden” in Nagoya that I visited the other day, but the city planning these days is very interesting.

In each plan, the boundary between working and living and activities, and the boundary between buildings and artificial buildings and greenery are taken into consideration, and in all “symbiosis”, how and how to be comfortable and personal. It seems to me that I am aiming to spend time.

 

Meanwhile, “roots” was a symbol of sitting and looking at the evolving landscape, busy people, and relaxing people against the backdrop of a clear blue sky.

 

After that, I left the Hills and visited Toranomon, so I climbed the highest mountain in the 23rd ward. Climb the stairs of success and “go to Atago Shrine” lol.

I went up the stairs with an inclination of nearly 40 degrees, but never look back … Heikuro Kagaki, I wondered how he ran up with a horse, and he was out of breath and ran up the stairs all at once.

 

I was so tired that I only remember the stairs, but I was able to spend a relaxing time in the Toranomon area, and I was able to spend a relaxing time in Tokyo. Everyone, please come visit us.

 

Well then, good luck.

 

 

 

お花(芍薬)をいただきました(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2022.05.11

みなさまこんにちは、スタッフYでございます。

 

つい先日まで桜の追っかけみたいなブログばかり綴っていたというのに、先日、お知り合いの方から「芍薬」をいただきました。こんな風に季節の草花を追っかけておりますと、季節はどんどん進んでまいりますね笑。

 

 

 

 

昨年も店舗に飾っておりましただ、本年もできるだけたくさんの方と愛でたいと思い、店舗に飾っております。昨夜いただいた時には、ピンポン玉のような蕾であったのですが、今朝にはその蕾が緩み、眠っていた花弁がいよいよ光を浴びて目を覚ましてきたようです。あの蕾の中によく収まっていたものだなと思うほどに花弁があふれでて、開いた花は手のひらを広げたくらいの大きさにはなっているでしょうか。

この大胆で妖艶なこの花が咲ききる様子にまさに虜。わたくしは「まさに花の女王」だなと毎年勝手に思っているのですが。

 

ところで昨日いただいたこの芍薬、毎年同じ方からいただくのですが、実はその方もお知り合いの方からいただくそうです。お花を生業としている方なのですか?と尋ねたところ、全くの家庭栽培とのこと。ですが、これは家庭栽培の域をこえておりますね…。こんな私にまでお裾分けしていただけるのですから、かなり栽培していらっしゃるのでしょう。ちょっとおかしなことになっておりますが、この場をお借りして「ありがとうございます。今年もとても綺麗です。」と、お礼を申し上げたいと思います。

 

芍薬、実は日本へは平安時代以前に薬草として伝えられましたが、その後は観賞用として多数の園芸品種がつくられ、それらは「和シャクヤク」と呼ばれます。「和シャクヤク」は一重咲きや翁咲きなど、比較的シンプルですっきりした花形のものが多く見られます。また、ヨーロッパでも育成されており、その品種は洋シャクヤクと呼ばれ、こちらは手まり咲きやバラ咲きなど弁数が多く香りの強いものが多いのが特徴のようです。最近は両方の交配による新しい品種も育成され、また、ボタンとの交配種もつくられたりシャクヤクは様々な品種が多く見られておりまして、このところの芍薬に目が離せませんね。

 

 

 

 

そんな芍薬ですから、昔から虜になった方はもちろんどこにもいたようです。

そんな思いが残っているのがまさに絵画。現在のようなカメラや携帯はない時代ですから、キャンバスの中に残したいと思ったことでしょう。ゴッホ「芍薬バラのある器」、マネ「芍薬の花瓶」など数々の有名な作品に残っておりますが、その妖艶な姿をどのように伝えようかと考慮する画家たちの様子が伺い知れます。どちらの作品の芍薬も華やかな花弁の多いタイプでして、花瓶からあふれんばかりの様子から、虜になった気持ちが伝わってまいりますね。

 

そしてですね、日本にも虜になった絵師が。葛飾北斎の「芍薬 カナアリ」という作品に、カナアリ(カナリア)と共に芍薬が描かれております。こちらの芍薬は、オランダ芍薬のようだということで、花弁割とシンプルですが、大胆な花弁を表現したかったのでしょうか、画面いっぱいに描かれております。

 

このように芍薬の虜となったのは、私の私のお知り合いと芍薬を育てているその方だけではなかったようですね…。といいますか、時代やお国を越えてみなさん虜になっているようでした。

 

と、ブログを綴っておりましたら、花びらが益々大きく咲いてまいりましたよ。

いよいよ目が離せません。

 

それでは、ごきげんよう。

 

 

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爽やかなお天気が続いておりますね。お片付けなどされてる方もおおいのではないでしょうか。

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Hello everyone, this is Staff Y.

 

Until just the other day, I was writing only blogs like chasing cherry blossoms, but the other day, I received a “peony” from an acquaintance. If you are chasing seasonal flowers like this, the season will continue to advance lol.

 

I used to display it in the store last year, but this year I want to love it with as many people as possible, so I am displaying it in the store. When I received it last night, it was a bud like a ping-pong ball, but this morning the buds have loosened, and it seems that the sleeping petals are finally awakening in the light. The petals are so overflowing that I think they fit well in those buds, and the open flowers are about the size of an open palm.

The appearance of this bold and bewitching flower in full bloom is truly captivating. Every year I think that I am the “queen of flowers”.

 

By the way, this peony that I received yesterday is received from the same person every year, but in fact, that person is also said to be obtained from an acquaintance. Are you a flower profession? When I asked, it was completely home-grown. However, this is beyond the realm of home cultivation … I’m sure you’re cultivating a lot because you can share it with me like this. It’s a little strange, but I would like to take this opportunity to thank you, “Thank you. It’s very beautiful this year.”

 

Peony, in fact, was introduced to Japan as a medicinal herb before the Heian period, but after that, many horticultural varieties were made for ornamental purposes, and they are called “Washakuyaku”. Many of the “Japanese peony” have relatively simple and neat flower shapes, such as single-flowered and old-fashioned flowers. It is also cultivated in Europe, and its variety is called Western peony, which seems to be characterized by a large number of valves such as Temari blooms and rose blooms and a strong scent. Recently, new varieties have been bred by crossing both, and many peony varieties have been seen, such as hybrids with buttons, so keep an eye on the peony these days.

 

Since it is such a peony, it seems that there were of course people who were captivated by it for a long time.

Such thoughts remain in the canvas, and they also remain in famous works such as Van Gogh’s “Peony Rose Vase” and Manet’s “Peony Vase”. You probably wanted to keep that bewitching appearance. The peony of both works is a type with many gorgeous petals. You can feel the captivity from the overflowing vase.

 

And, well, there is a painter who was captivated by Japan. In the work “Canary and Peony” by Katsushika Hokusai, the peony is drawn together with the canary. This peony is like a Dutch peony, so it is as simple as a petal split, but maybe you wanted to express a bold petal, it is drawn on the full screen.

 

It seems that it wasn’t just my acquaintance and the person who raised the peony that was so captivated by the peony … It seems that everyone is captivated by all ages and countries.

 

When I wrote the blog, the petals were blooming more and more.

I can’t take my eyes off.

 

Well then, good luck.

京都伏見稲荷大社(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取いたします 古美術風光舎名古屋店)

2022.05.10

みなさまこんにちは、スタッフNでございます。

GWが終わり京都から帰ってきて、街中に神社やお寺が見えないのが少し寂しく感じます。

今回は、あの有名な伏見稲荷大社について調べていきたいと思います。

 

 

伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)は、京都市伏見区深草にある神社で、全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社でございます。初詣では近畿地方の社寺で最多の参拝者を集めます。

清少納言が自らの稲荷詣を『枕草子』に記すほか、『蜻蛉日記』『今昔物語集』など古典にもしばしば登場致します。延喜8年(908年)に左大臣藤原時平が三箇社を修営(『年中行事秘抄』)、その後源頼朝や足利義教らが社殿の造営、修造に関わったが、応仁の乱にてすべて焼亡致します。

明治政府の神仏分離令によって、本願所のほか境内の仏堂がすべて廃寺となる一方、崇敬者による鳥居の奉納や私的な「お塚」の建立が稲荷山中で顕著化し、現在の伏見稲荷大社を特徴づけるものとなりました。

しかし、皆さまご存知の通り、伏見稲荷大社は往復2時間以上かかる過酷な場所でございます。

昔のきつかった思い出を思い出して登りましたが、やはりきつかったです。

途中、浴衣の女の子とすれ違い、悪いことは言わないからやめた方がいいというのを我慢して下っておりました。

鳥居で日陰になるのと、山の中なので暑さは和らぐのですが、日陰のない頂上は暑かったです。

しかも、月に1回のお稲荷さんの参拝の時間にあたってしまい、炎天下の中並ぶことになりました。

宮司さんが唱えていて、よくわからずにその場にいたのですが、こちらにもお祓いをしてくださりました。

一瞬何かの行事に時間が当たってしまったのかと思ったのですが、珍しい儀式に立ち会えて運が良かったです。

売店がある度につれに「何か食べない?」と聞いて断られ、8か所目でやっとお抹茶アイスを食べることができました。

途中滝の道に入り込んでしまい、Uターンしたりしましたが、何とか帰ってくることができました。

今流行りの漫画、呪術廻戦の聖地巡礼などもできるようです。

 

私が伏見稲荷大社で楽しみなのが、保護猫に会えることでございます。

途中の売店や山頂などところどころに猫がおります。

お腹を見せてゴロゴロする、人懐こい子もおりました。

 

都会でありながら、大自然で、神様も近くにいる遊び場は楽しそうですね。

伏見稲荷大社と言えば千本鳥居ですが、現在は1万本以上あり、いまだに増え続けているそうです。

近年は外国人観光客からも観光地として人気があり、トリップアドバイザーによる「外国人に人気の日本の観光スポット」調査では2019年まで6年連続で1位となっているそうでうす。駅のごく近くに赤い鳥居が続く非常に日本的な風景が広がり、拝観料不要で閉門時間が無く、稲荷山のお山巡りで欧米人が好むウォーキングができることなどから高評価を得ている。平日のほとんどの日そうです。外国人観光客の方が日本人よりも多くなっており、日没後も稲荷山に登る外国人が多くなっています。本殿付近はライトアップされており、稲荷山への参道も脇道以外は全区間で街灯が1晩中点灯されており夜間の参拝もできるみたいです。ただし、イノシシが出没するとか。

 

 

平安時代後期に熊野詣が盛んになると、京の公家や民衆は参詣の途中で伏見稲荷に立ち寄り、縁起に因む杉木の枝を頂いて身体につけることが流行したそうです。(『為房卿記』など)。『平治物語』でも平清盛が急な六波羅への警備にも「先ず稲荷の杜にまいり、各々杉の枝を折って、鎧の袖にさして(略)」とある。初午参詣で皆が杉木の枝をとっていくので稲荷山の杉はすっかり葉がなくなった」と詠んだ藤原光俊の歌が残っております。

 

神体山である稲荷山は、東山三十六峰の最南端に位置し、標高233m。3つの峰(一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰)が連なっていますが、かつては古墳で、それぞれに円墳が確認されています。三ノ峰からは二神二獣鏡が出土しています。この山々「お山」を中世には「下ノ塚」「中ノ塚」「上ノ塚」と呼び、奥社奉拝所の先にある山々を巡拝できる参道には、そこかしこに人々が石碑に「白狐大神」や「白龍大神」などの神名を刻んで祀られた無数の小さな祠(その数、1万基、あるいはそれ以上とも言われる)の「お塚」が奉納されており、「お塚信仰」と呼ばれております。

 

参拝者の中には、「お塚」の前にひざまづいて「般若心経」や「稲荷心経」などを唱えている人もおり、日本で神仏分離が行われる前の信仰(神仏習合を参照)が今でも保たれているのを見ることができます。奥社奉拝所の奥に「おもかる石」という石があり、願いを念じて持ち上げた時、重さが予想していたより軽ければ願いが叶い、重ければその願いは叶わないといわれています。

学生時代におもかるいしがあがらず無理やりあげようとして落としそうになったことがあるので、それ以来Nはやっていません。願いが大きすぎたのだと思うことに致します。

鳥居を奉納する習わしは江戸時代に始まったそうです。

 

応仁の乱で焼失する前は稲荷山の山中にお社がありましたが、再建はされず現在は神蹟地として残っています。

「稲荷大神様」のお使い(眷族)はきつねとされていますが、野山に居る狐ではなく、眷属様も大神様同様に我々の目には見えません。そのため白(透明)狐=“びゃっこさん”といってあがめます。
「稲荷大神様」はきつねではないそうです。

お稲荷さんの境内は、京都のいわゆる「東山36峯」の一番南に位置する稲荷山が大部分を占めています。その西麓一帯を含め約26万坪(約87万平方メートル)が境内です。因みに甲子園球場は39,600平方メートルと言われており、約22倍の面積です。それは2時間もかかるわけでございますね。

ちなみに古美術風光舎名古屋店の近くにも豊玉稲荷社がございます。

お近くにお立ち寄りの際にはぜひお越しくださいませ。

ではでは

 

Hello everyone, this is Staff N.

When the Golden Week holidays are over and I come back from Kyoto, I feel a little lonely that I can’t see the shrines and temples in the city.

This time, I would like to investigate the famous Fushimi Inari Taisha Shrine.

Fushimi Inari Taisha is a shrine located in Fukakusa, Fushimi-ku, Kyoto, and is the head office of Inari Shrine, which is said to have about 30,000 companies nationwide. At the first visit, we gather the largest number of worshipers at shrines and temples in the Kinki region.

In addition to writing his own Inari pilgrimage in “The Pillow Book,” Sei Shonagon often appears in classics such as “The Pillow Book” and “The Storybook of the Past and Present.” In the 8th year of Engi (908), the Minister of the Left, Fujiwara no Tokihira, trained three shrines (“Annual Event Secret Extract”), after which Minamoto no Yoritomo and Yoshinori Ashikaga were involved in the construction and repair of the shrine, but due to the Onin War. All will be burnt down.

Due to the Meiji government’s decree to separate Shinto and Buddhism, all the Buddhist temples in the precincts of the temple were abandoned. It became what characterizes.

However, as you all know, Fushimi Inari Taisha is a harsh place that takes more than 2 hours for a round trip.

I remembered the hard memories of the old days and climbed, but it was still hard.

On the way, I passed by a girl in a yukata and put up with the idea that I should stop because I wouldn’t say anything bad.

It was shaded by the torii gate and the heat was softened because it was in the mountains, but the summit without shade was hot.

Moreover, it was time for Inari to worship once a month, and we were lined up in the scorching sun.

Mr. Miyaji was chanting, and I was there without knowing it well, but he also prayed for me.

I wondered if some event had been hit for a moment, but I was lucky to be able to witness a rare ritual.

Every time there was a shop, I was asked “Would you like to eat something?” And refused, and I was finally able to eat green tea ice cream at the 8th place.

I got into the waterfall road on the way and made a U-turn, but I managed to come back.

It seems that you can also do popular manga and pilgrimage to the sacred place of the magical war.

What I am looking forward to at Fushimi Inari Taisha is meeting protected cats.

There are cats in places such as shops and mountain peaks on the way.

There was also a friendly child who showed his stomach and was rumbling.

Even though it’s an urban area, it’s a wilderness, and the playground near God seems to be fun.

Speaking of Fushimi Inari Taisha, there are 1,000 torii gates, but now there are more than 10,000, and it seems that the number is still increasing.

In recent years, it has become popular as a tourist destination among foreign tourists, and according to the “Japanese tourist spots popular with foreigners” survey by TripAdvisor, it is said that it has been ranked first for six consecutive years until 2019. A very Japanese landscape with red torii gates spreads very close to the station, there is no admission fee and there is no closing time, and it is highly evaluated because it is possible for Westerners to walk around Mt. Inari. Most days on weekdays. There are more foreign tourists than Japanese, and more foreigners climb Mt. Inari even after sunset. The area around the main shrine is lit up, and the streetlights are lit all night except for the side roads on the approach to Mt. Inari, so it seems that you can worship at night. However, wild boars appear.

When the Kumano pilgrimage became popular in the latter half of the Heian period, it was popular for Kyoto officials and people to stop by Fushimi Inari during the pilgrimage and get a branch of a cedar tree associated with auspiciousness and attach it to their body. (“Sir Tamafusa” etc.). In “Heiji Monogatari”, Taira no Kiyomori also says “First come to Inari no Mori, fold the branches of each cedar, and put them on the sleeves of the armor (omitted)” to guard Rokuhara. Mitsutoshi Fujiwara’s song remains, saying, “Since everyone picks up the branches of the cedar tree at the beginning of the day, the cedars of Mt. Inari have completely lost their leaves.”

Mt. Inari, which is a sacred mountain, is located at the southernmost tip of the 36 peaks of Higashiyama and has an altitude of 233m. There are three peaks (Ichinomine, Ninomine, Sannomine) in a row, but once it was an old burial mound, a circular burial mound was confirmed in each. Two gods and two beast mirrors have been excavated from Mt. Sannomine. These mountains “Oyama” are called “Shimonozuka”, “Nakanozuka”, and “Uenozuka” in the Middle Ages, and people are everywhere on the approach to the mountains beyond the Okusha Hohaisho. A myriad of small shrines (the number of which is said to be 10,000 or more) enshrined with god names such as “White Fox Omikami” and “White Dragon Omikami” on the stone monument are dedicated. It is called “Otsuka faith”.

Some worshipers kneel in front of “Otsuka” and chanting “Heart Sutra” and “Inari Shingyō”, and the belief before the separation of Shinto and Buddhism in Japan (Shinbutsu). You can see that (see Practice) is still maintained. There is a stone called “Omokaru Stone” in the back of the Okusha Hohaisho, and it is said that if the weight is lighter than expected, the wish will come true, and if it is heavy, the wish will not come true. increase.

When I was a student, I wasn’t happy with it and tried to force it down, so I haven’t done N since then. I think my wish was too big.

The practice of dedicating a torii is said to have started in the Edo period.

Before it was burned down by the Onin War, there was a shrine in the mountains of Mt. Inari, but it was not rebuilt and now remains as a sacred place.

The messenger of “Inari Okami” is said to be a fox, but not the fox in Noyama, but the genus is invisible to us as well as Okami. Therefore, I admire the white (transparent) fox = “Byakko-san”.
“Inari Okami” is not a fox.

Inari’s precincts are dominated by Mt. Inari, which is located in the southernmost part of the so-called “Higashiyama 36 Mine” in Kyoto. The precincts are about 260,000 tsubo (about 870,000 square meters) including the western foot of the area. By the way, Koshien Stadium is said to be 39,600 square meters, which is about 22 times the area. It takes two hours, doesn’t it?

By the way, there is Toyotama Inari Shrine near the antique art Fukosha Nagoya store.

Please come and visit us when you are near us.

See you soon

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爽やかなお天気が続いておりますね。お片付けなどされてる方もおおいのではないでしょうか。

風光舎では、古美術品や骨董品の他にも絵画や宝石、趣味のお品など様々なジャンルのものを買受しております。

お片付けをされていて、こういうものでもいいのかしらと迷われているものでも、どうぞお気軽にご相談下さいませ。

また風光舎は、出張買取も強化しております。

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まずは、お電話お待ちしております。

 

愛知県名古屋市千種区・骨董 買取

『古美術 風光舎 名古屋店』

 

 

棟方志功作品を大満喫した日でした。(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取いたします 古美術風光舎名古屋店)

2022.05.08

みなさまこんにちは、スタッフYでございます。

 

楽しみにしていた連休ももう終わり。

連休が終わり、明日からの日常を想像しますと灰色のメンタルになりそうな方、またもうお仕事や学校など始まってしまった方、はたまたこ連休中にお仕事などで忙しくし、これからやっとお休みをとられる方などなど、この週末はなんとも悲喜こもごものの週末の風景ではないでしょうか。お天気だけは良いというのに…。

私を含め灰色のメンタルの皆さま、これを乗り切る次なる目標を早く見つけ、頑張って日常にもどっていきましょう。

 

 

 

 

さてさて、先日の富山県の散居村夕陽の風景をご報告いたしましたが、実はもうひとつ訪れたところがございまして。

 

富山県南砺市にございます福光美術館で開催されております、「志功と俊彦の物語」展へ行ってまいりました。

 

棟方志功自身はは青森の出身ではありますが、志功が何故にこの福光に縁がございますかと申しますと、志功は家族と共に疎開にて福光町に約7年にわたって生活しており、その間この地の自然や人々をこよなく愛し、多くの作品を残しております。

 

この時代を経て彼は東京に帰還後、国際美術展でグランプリ獲得を重ね、やがて“世界のムナカタ”とも称されるほど活躍するのですが、福光時代に制作された数々の作品は、富山県外ではあまり紹介されていないようでして、この美術館では棟方作品として有名な板画(はんが:版画)のほか、倭画(やまとが:肉筆画)、油絵、書、書簡などの多くの作品を所蔵しております。

 

志功は「福光は私の第二のふるさと」と、晩年まで懐かしんでおりましたが、当時の志功の暮らしを静かに支え続けていたのが石崎俊彦でありました。

 

「気難しい人」と思われがちな俊彦のようでしたが、彼と志功がどのように信頼関係を結び、生涯の友となっていったのか。かつて志功が住んでいた住居「鯉雨画斎」を棟方志功記念館愛染苑として設立した俊彦の素顔と一緒に、志功が富山で残してきた多くの作品を今回は企画展にて展示しております。当の愛染苑へは、散居村の夕陽の時間の都合断念いたしましたが、こちらは次回の課題として残しておきましょう。

 

 

 

さてさて入っていきましょう。

こちらの美術館は初めてだったもので、知らずに常設展からはいっていました。といいましても、常設展が立派であります。シックな館内をゆっくりと贅沢に棟方志功氏の作品を鑑賞できるなんて贅沢な空間であります。

 

どれから紹介しようかと思っておりますと、まず、空間に入った正面に「二菩薩釈迦十大弟子(にぼさつしゃかじゅうだいでし)」が。

 

作品が沢山ありますので、本日は、こちらのを一緒に鑑賞いたしましょう。ありがたいことにここ最近、美術館もお写真大丈夫のところが多くなりまして、こちらもお写真を撮らせていただきました。

 

「二菩薩釈迦十大弟子(にぼさつしゃかじゅうだいでし)」

1939年(昭和14年)/板画(南砺市立福光美術館寄託)

 

もともと制作したのは昭和14(1939)年。文殊菩薩・普賢菩薩と、釈迦の10人の高弟の姿を彫ったもので、棟方志功36歳の時の作品であるのですが、のちに、昭和30(1955)年、サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展で版画部門最高賞を受賞。さらに、翌年の昭和31(1956)年のヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展にて、グランプリの国際版画大賞をも受賞する大作であります。有名な作品ですよね。

表裏に彫ってあるのですが、10人の弟子が5枚の板木に彫っているそうで、当時は戦時中。この作品は戦前、東京で描かれたものですが、なぜここ富山にあるのかと申しますと。

 

 

 

 

疎開騒ぎの中、荷物を田舎に送りたいって駅がごった返しているのですが、持ち込めるのは5点だけということで、美術品とか骨董品とか生活必需品でないものは後回しとなり、どうしても生活に必要なものだけということに。

 

どう考えても板画の板木は見逃してくれないだろうと考えたのですが、さすがに飯のタネといえども、なかなか他人には分かってもらえないだろうし、どうしたものかと思ったところ、ここで救世主となったのが、志功氏の奥様である「チヤ夫人」。

 

奥様が知恵を働かせ、背もたれの長いスピンドルチェアの添え木にして、持ってくるんですね。それがちょうど5脚でして、5枚をぐるぐる巻きにしてなんとか富山に辿り着くという…。

 

当時、彼が大切にしていたイギリスのウインザー調のチェアのようですが、その梱包用の材料として、機転を利かして無事に輸送されることになったのですが、その後送り出した奥様や子供たちが代々木の自宅から福光へと向かったのが昭和20(1945)年5月24日。

 

なんとその翌日東京は大空襲に見舞われてしまいます。板木はもちろん、奥様も間一髪という状況だったようでして、奇跡的に残っているのが、唯一福光に避難できた板木で、この十大弟子。

 

両端が「書」となっておりますがこちらは板木が焼けてしまったため、のちに文殊菩薩と普賢菩薩を改刻し出展され、この作品は世界的な有名な賞をとり、『世界のムナカタ』に名を馳せる作品になります。

 

実際みてみますと、たいへん大きく大胆な作品ですが、当時これを戦時中の騒然とした疎開下の中、運ぼうと必死であった家族の様子のこと、ここ富山になんとか無事たどり着いたこと、世界的な賞を取り世界の人々の目に留まったこと、そして今こうして静かな美術館の空間の中、私がこうして目の前にてこの作品を眺めていることが不思議でなりません。このような穏やかな作品が、ほんとうに戦時下を潜り抜けてきたのだろうかと。

 

どんな作品にも越えてきた歴史があるでしょうが、この作品が生き延びてきた様々な出来事などを思いながら、今は静かな空間の中、10人の菩薩のご尊顔がことのほか穏やかに見えてなりませんでした。

 

それに比べ、たかが連休明けで灰色のメンタルでいる自分、実にいかんいかん…。穏やかに微笑えもうではないか。

 

 

 

 

 

それでは、ごきげんよう。

 

Hello everyone, this is Staff Y.

 

The holidays I was looking forward to are over. Those who are likely to have a gray mentality when the holidays are over and imagine the daily life from tomorrow, those who have already started work or school, or those who happen to be busy with work during the holidays, from now on For those who can finally take a day off, this weekend is a sad and happy weekend. Only the weather is good …

Gray mentals, including myself, let’s find the next goal to overcome this as soon as possible, and do our best to return to our daily lives.

 

By the way, I reported on the scenery of the sunset in the dispersed village of Toyama Prefecture the other day, but in fact, I visited another place, which is being held at the Fukumitsu Museum of Art in Nanto City, Toyama Prefecture.

I went to the “Story of Shiko and Toshihiko” exhibition.

 

Munakata Shiko himself is from Aomori, but when asked why Shiko has a connection with this Fukumitsu, Shiko has lived in Fukumitsu-cho with his family for about seven years, and during that time he has lived here. He loves nature and people, and has left many works.

 

After returning to Tokyo after this era, he won the Grand Prix at an international art exhibition, and eventually became active enough to be called “Munakata of the World”, but many works produced during the Fukumitsu era are outside Toyama Prefecture. It seems that it has not been introduced so far, and in this museum, in addition to the famous woodblock prints (hanga: prints), there are many paintings (yamatoga: hand-painted paintings), oil paintings, books, letters, etc. We have the works of.

 

Shiko was fond of “Fukumitsu is my second hometown” until his later years, but it was Toshihiko Ishizaki who quietly supported the life of the builder at that time. He was like Toshihiko, who is often thought of as a “difficult person,” but how did he and Shiko form a relationship of trust and become a lifelong friend? Along with the true face of Toshihiko, who established the residence “Koiame Gakusai” where Shiko once lived as the Munakata Shiko Memorial Hall Aizenen, many works left by Shiko in Toyama will be exhibited at this exhibition. We are here. I gave up on the Aizen-en because of the sunset time in the dispersed village, but let’s leave this as the next task.

 

Well, let’s go in.

This was the first time for me to enter this museum, and I entered it from the permanent exhibition without knowing it. Even so, the permanent exhibition is excellent. It is a luxurious space where you can slowly and luxuriously appreciate the works of Mr. Shiko Munakata in the chic hall.

 

When I was thinking about which one to introduce, first of all, in front of the space, there was “Ten Bodhisattva Buddha Disciples”. There are many works, so let’s enjoy them together today. Thankfully, recently, there are many museums where it’s okay to take pictures, so I took pictures here as well.

 

 

“Ten Bodhisattva Disciples” 1939 (Showa 14) / Board painting (deposited at Nanto City Fukumitsu Museum)

 

It was originally produced in 1939 (Showa 14). It is a carved figure of Manjushri, Samantabhadra, and 10 high-ranking brothers of Buddha. It was a work when Munakata Shiko was 36 years old. Later, in 1955, Sao Paulo Biennale International Received the highest award in the print category at an art exhibition. In addition, it is a masterpiece that won the Grand Prix International Print Award at the Venice Biennale International Art Exhibition in 1956 the following year. It’s a famous work, isn’t it?

It is carved on the front and back, but it seems that 10 disciples are carving on 5 boards, and it was during the war at that time. This work was drawn in Tokyo before the war, but why is it here in Toyama?

 

The station is crowded with people wanting to send their luggage to the countryside in the midst of the turmoil, but since only 5 items can be brought in, art, antiques, and non-necessary items are put off and are absolutely necessary for daily life. It’s just something that isn’t.

I thought that the woodblock prints wouldn’t be overlooked by any means, but I wondered what happened when I thought that even the seeds of rice wouldn’t be easily understood by others. The savior here was Mrs. Chiya, the wife of Mr. Shiko.

Your wife will use her wisdom to splint her long-backed spindle chair and bring it with you. She said that it was just 5 legs, and she managed to reach Toyama by winding 5 pieces around.

It seems to be a Windsor-style chair in England that he cherished at that time, but as a material for packing it, it was supposed to be transported safely, but the wives and children who sent it out after that. It was May 24, 1945 that he headed for Fukumitsu from his home in Yoyogi.

The next day, Tokyo was hit by a large air raid. It seems that not only Itaki but also his wife had a close call, and the only one that miraculously remains is Itaki, who was able to evacuate to Fukumitsu, and these ten major disciples.

Both ends are “calligraphy”, but since the board was burnt, the Manjushri and Samantabhadra were later reprinted and exhibited, and this work later won a world-famous award. It will be a work that is famous for “Munakata of the World”.

 

Actually, it is a very big and bold work, but at that time it was a state of the family desperate to carry it in the noisy evacuation during the war, the fact that I managed to reach here in Toyama, the world It’s no wonder that it won a prize and caught the eye of the people of the world, and that I’m looking at this work in front of me in this quiet museum space.

 

Every work has a history that has been surpassed, but while thinking about the various events that this work has survived, the faces of the 10 bodhisattvas now look extremely calm in a quiet space. did not.

I don’t really care about myself, who is gray mentally after the holidays. Let’s smile gently.

 

 

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愛知県名古屋市千種区・骨董 買取

『古美術 風光舎 名古屋店』

 

 

高台寺ライトアップ(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎名古屋店)

2022.05.07

皆さま、こんにちは。辛い物が苦手なスタッフNでございます。

古美術風光舎の前にキンパのお店があるのですが、好奇心でキムチキンパを買ってしまい、辛くてヒーヒー言いながらブログを書いております。(でも美味しい)

そして、古美術風光舎名古屋店のtiktok【@fukosya】Twitter【@fu_ko_sya】アカウントを開設致しました。

ご興味のある方はフォローよろしくお願いいたします。

先日、京都へ行ってまいりました。

九州出身の連れは、「関西弁だ、すごい!おおきにって言ってる!」と田舎者丸出しではしゃいでおりました。

京都と言えば修学旅行の定番ですが、Nの学校は京都ではありませんでした。

たしか長崎か沖縄だったような気がするのですが、だいぶ昔のことゆえ、記憶が曖昧でございます。

しばらくは、京都のお寺ブログになるかもしれませんがご容赦くださいませ。

今回は、ホテルの近くの高台寺がライトアップされているとのことで行ってみました。

ライトアップと言っても、電気がついているだけかと思いきや、枯山水にプロジェクションマッピングがされていたり、中々楽しかったです。

動画はtiktokにもありますので是非ご覧ください。(初心者のため見づらくて申し訳ありません)

 

 

ここで、高台寺についてご一緒に勉強してまいりましょう。

高台寺、(こうだいじ)は、京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院でございます。山号は鷲峰山(じゅぶさん)、寺号は詳しくは高台寿聖禅寺と称します。

豊臣秀吉の正室である北政所(高台院)が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院であり、寺号は北政所の落飾(仏門に入る)後の院号である高台院にちなんでおります。釈迦如来を本尊とする禅宗寺院であるとともに、秀吉と北政所を祀る霊廟としての性格をもった寺院でございます。

霊屋(おたまや)の堂内装飾には桃山様式の蒔絵が用いられ、これを「高台寺蒔絵」と呼びます。他に北政所所持と伝えられる蒔絵調度類を多数蔵することから「蒔絵の寺」の通称があるそうです。

豊臣秀吉が病死したのは 慶長3年(1598年)でありました。秀吉の正室である北政所(ねね、出家後は高台院湖月心尼)は秀吉の菩提を弔うための寺院の建立を発願し、当初は北政所の実母・朝日局が眠る康徳寺(京都の寺町にあった)をそれに充てようとしたが、手狭であったため、東山の現在地に新たな寺院を建立することになりました。

 

 

秀吉没後の権力者となった徳川家康は、北政所を手厚く扱い、配下の武士たちを高台寺の普請担当に任命しました。中でも普請掛・堀直政の働きは大きかったようで、高台寺の開山堂には直政の木像が祀られているそうです。

高台寺の開山は慶長11年(1606年)で、当初は曹洞宗の寺院でありました。寛永元年7月(1624年)、高台寺は臨済宗建仁寺派の大本山である建仁寺の三江紹益を中興開山に招きました。この時、高台寺は曹洞宗から臨済宗に改宗しております。

北政所の兄・木下家定は建仁寺及び三江紹益と関係が深く、家定の七男が三江紹益のもとで出家していることも、この改宗と関連すると言われております。なお、北政所は同じ寛永元年の9月に没しております。

 

 

創建当時の高台寺の仏殿は前述の康徳寺の堂を移築・改造したものであり、方丈、茶室などは伏見城から移築したものでありました。また、門前に伏見城の化粧御殿が移築されて、北政所の居所とされました。高台寺の西側にある塔頭(山内寺院)の圓徳院がその跡で、北政所終焉の地とも伝わっております。

境内には高台院の甥である木下勝俊の墓塔もございます。

また高台寺は、江戸時代末期(幕末)の一時期、新選組から離脱した御陵衛士(高台寺党)の屯所となったこともございます。

その後、近世末期から近代に至る数度の火災で仏殿、方丈などを焼失。創建時の建造物で現存しているのは、三江紹益を祀る開山堂、秀吉と北政所を祀る霊屋(おたまや)、茶室の傘亭と時雨亭などでございます。

創建当時存在した仏殿は焼失後再建されておらず、方丈が中心的な建物となっております。方丈の西に庫裏、北に書院がありますが、いずれも創建当時のものではないそうです。境内東側には偃月池・臥龍池という2つの池をもつ庭園が広がり、開山堂、霊屋、茶室などがございます。また、境内からやや離れて黒門が建っております。

一番感動したのは竹林のライトアップでございます。

 

 

照らされた竹林に囲まれ、見下ろされる感覚、圧巻でございました。

しかし、やはり夜のお寺少し怖かったので、適度に周りに人がいて安心できるのがよさそうでございます。

高台寺の夜間特別拝観、春の部は終わってしまいましたが、次回は夏のようです。

400年前に思いを馳せて夜の京都散歩、とてもいい思い出になりました。

ではでは

Hello everyone. Staff N is not good at spicy foods.

There is a gimbap shop in front of the antique art Fukosha, but I bought a gimbap because of my curiosity, and I am writing a blog while saying hehehe. (But delicious)

And I opened a tiktok [@fukosya] Twitter [@fu_ko_sya] account of the antique art Fukosha Nagoya store.

If you are interested, please follow us.

I went to Kyoto the other day.

A companion from Kyushu said, “Kansai dialect, it’s amazing! I’m saying big!”

Speaking of Kyoto, it is a standard school trip, but N’s school was not in Kyoto.

I think it was Nagasaki or Okinawa, but since it was a long time ago, my memory is ambiguous.

It may be a temple blog in Kyoto for a while, but please forgive me.

This time, I went to Kodaiji Temple near the hotel because it was lit up.

Even though it was lit up, I thought that it was just turned on, and projection mapping was done on the dry garden, so it was a lot of fun.

The video is also on tiktok so please take a look. (I’m sorry it’s hard to see because it’s a beginner)

Let’s study together about Kodaiji Temple here.

Kodaiji Temple is a temple of the Rinzai sect Kenninji school located in Higashiyama Ward, Kyoto City, Kyoto Prefecture. The mountain number is called Mt. Jubu, and the temple name is called Kodaiji Seizenji in detail.

It is a temple built by Toyotomi Hideyoshi’s regular room, Kodai-in, to pray for Hideyoshi’s soul. increase. It is a Zen Buddhist temple whose principal image is Shaka Nyorai, and also has the character of a mausoleum that enshrines Hideyoshi and Kodai-in.

Maki-e in the Momoyama style is used to decorate the interior of the Otamaya temple, which is called “Kodaiji lacquer work”. In addition, it is said that it is commonly known as “Maki-e Temple” because it has a large number of Maki-e furnishings that are said to be possessed by the Kita government.

Hideyoshi Toyotomi died of illness in the 3rd year of Keicho (1598). Hideyoshi’s regular room, Kitaseisho (Nene, Kodaiin Kogetsushinn after leaving the house) applied for the construction of a temple to mourn Hideyoshi’s bodhisattva. I tried to devote it to it (it was in Teramachi, Kyoto), but because it was too small, I decided to build a new temple at the current location of Higashiyama.

Ieyasu Tokugawa, who became an influential person after Hideyoshi’s death, treated the Kitaseisho with great care and appointed the samurai under his control as the general contractor of Kodaiji Temple. It seems that the work of Naomasa Hori, a general contractor, was especially great, and it seems that a wooden statue of Naomasa is enshrined in the Kaizan-do Temple of Kodaiji Temple.

Kodaiji Temple was founded in 1606, and was originally a temple of the Soto sect. In July 1624, Kodaiji Temple invited Mie Shomei of Kenninji Temple, the head temple of the Rinzai sect Kenninji Temple, to Kaisan Chuko. At this time, Kodaiji Temple was converted from the Soto sect to the Rinzai sect.

Kinoshita Iesada, the older brother of Kodai-in, has a close relationship with Kenninji Temple and Iesada Mie, and it is said that the fact that the seventh son of Iesada is a priest under Shomasu Mie is also related to this conversion. The Kita government office died in September of the same year of Kanei.

The Buddhist temple at Kodaiji Temple at the time of its construction was a relocation and remodeling of the aforementioned Kotokuji Temple, and the Hojo and tea rooms were relocated from Fushimi Castle. In addition, the makeup palace of Fushimi Castle was relocated in front of the gate and became the residence of the Kitaseisho. Entoku-in Temple at the top of the tower (Yamauchi Temple) on the west side of Kodaiji Temple is the site of the temple, and it is said to be the place where the Kita government office ended.

There is also a tomb tower of Kinoshita Katsutoshi, the nephew of Kodaiin, in the precincts.

In addition, Kodaiji Temple was once the camp of the Goryo guardian (Kodaiji Party) who left the Shinsengumi at the end of the Edo period (end of the Edo period).

After that, several fires from the end of the early modern period to the modern era burned down the Buddhist temple and Hojo. The existing buildings at the time of construction are Kaisando, which enshrines Mie Shomei, Otamaya, which enshrines Hideyoshi and Kitaseisho, and Kasatei and Shigure-tei in the tea room.

The Buddhist temple that existed at the time of its construction has not been rebuilt after it was burned down, and it is a building centered on Hojo. There is a Kuri in the west of Hojo and a Shoin in the north, but neither of them seems to be the one at the time of its construction. On the east side of the precincts, there is a garden with two ponds, Kogetsu Pond and Wolong Pond, and there are Kaisando, Sacred House, and Tea Room. In addition, the black gate is built slightly away from the precincts.

What impressed me most was the illumination of the bamboo grove.

Surrounded by the illuminated bamboo grove, it was a sight to be overlooked.

However, I was a little scared of the temple at night, so I think it would be nice to have some people around and feel at ease.

The special nighttime visit to Kodaiji Temple and the spring section are over, but it looks like summer next time.

I remembered my thoughts 400 years ago and had a very good memory of taking a walk in Kyoto at night.

See you soon

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桜若葉がみずみずしい季節となりました。

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