5月, 2024 - 風光舎 | 愛知・名古屋での骨董古美術買取 三重 岐阜

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FROMKYOTOOSAKA

【贈答品買取】名古屋市名東区のお客様より買取致しました。(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董品買取 古美術風光舎)

2024.05.31

 

 

名古屋市千名東区のお客様より、贈答品など買取いたしました。

長年大切にされておりました御品をお譲りくださり、誠にありがとうございました。

 

只今、古美術風光舎では、ご家庭にございます骨董古美術品の買取も強化しております。

なお、毎月18日の持込鑑定会では無料鑑定・買取・ご相談など、ご予約なしで承っております。

ご近所の皆さま、ご遠方のみなさまも、お気軽にお越しくださいませ。

 

 

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ご実家の整理やお片付けなどをされている方のご相談などが多くございます。

お片付けなどくれぐれもご無理のないようになさってくださいませ。

風光舎では古美術品や骨董品の他にも絵画や宝石、趣味のお品など様々なジャンルのものを買受しております。

お片付けをされていて、こういうものでもいいのかしらと迷われているものでも、どうぞお気軽にご相談下さいませ。

また風光舎は、出張買取も強化しております。ご近所はもちろん、愛知県内、岐阜県、三重県その他の県へも出張いたします。

まずは、お電話お待ちしております。

 

 

愛知県名古屋市千種区姫池通

骨董 買取【古美術 風光舎 名古屋店】

TEL052(734)8444

10:00-18:00 OPEN

 

 

 

 

本日は「天下五剣」について(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2024.05.31

皆さまこんにちは、スタッフYでございます。

 

気がつけば、道路脇やお宅の玄関先などの紫陽花が開花の準備に差し掛かっていたり、もう咲いているものもあったり。このところ季節が爆速で移り変わって、いよいよ暑い時節に移っていく感じがいたします。もう少しまってくれよ…と、言いたくなる気分でありますが、とはいえ、私の大好きな紫陽花がいろいろなところでいろいろな花をつけて咲いていくのこの季節は楽しみであります。

 

 

 

 

さてさて、先日から刀剣のお話をしておりますが、引き続き刀剣のつぶやきをしていきたいと思いますので少々お付き合いくださいませ。

 

ところで、国宝の工芸品に分類される文化財の中でも、その数が多い(約半数)のが刀剣(日本刀)ということをご存知だったでしょうか(太刀、大太刀、短刀など。剣や槍、薙刀も広義には含まれる)。そのうち「名物」と称されるもの、固有の名称(号)を持つ太刀は14振りでして、名物の刀剣は、名(号)と刀工の名「銘」を併せて呼ばれるが多いのですが、たとえば、三日月(号)+宗近(銘)など銘刀はこのような呼びます。なんだかその銘からすでにその佇まいの緊張感が伝わりますね。

 

また、日本刀を作る(鍛刀)「刀工」は、地域や特徴により流派「刀派」に分類されますが、刀派では山城国来派(らいは)、粟田口派、備前長船(おさふね)派、備前福岡一文字派、備中古青江派、三条などがあり、刀工は「安綱」「宗光」「来国光」「吉光」「長光」「国重」「左文字」「兼貞」「村正」「肥前国忠吉」「正宗」「虎徹」「貞次」「光世」などが著名であります。

 

その中でも日本刀の中でも特に銘刀とされるものにご存じの方もお出ででしょうが「天下五剣」。その中で国宝に指定されている3点は「三日月」「童子切」「大典太」、御物の「鬼丸」、重要文化財の「数珠丸」の5剣のことを「天下五剣」と呼びます。なお、5振とも日本刀の分類上は「太刀」であります。(※「御物」とは皇室の所有品のことで、宮内庁が所蔵する。)

諸説ありますが、室町時代の頃にはすでに”天下五剣”という言葉は使われていたようでして、完全に定着したのは明治以降とされています。室町時代にはすでに銘刀が価値あるものとして大切に受け告げれて来たようです。

 

それでは簡単ではありますが、天下五剣の詳細について説明いたしましょう。

 

1.童子切安綱(どうじぎりやすつな)

 

童子切安綱は平安時代の刀工、「大原安綱(おおはらやすつな)」作の太刀で、東京国立博物館が所蔵する国宝。平安時代末期に作られたといわれる名刀、「大包平(おおかねひら)」と共に、日本刀の「東西の両横綱」と賞賛されており、刃長は約80cm・反りは約2.7cmの太刀で、「驚くような切れ味」を誇る刀としても有名であります。

その切れ味は、試し切りの達人「町田長太夫」が折重なった罪人6人の遺体に対して、「童子切」を振りかざすと一刀で切断したうえに、下の土台まで刃が斬れ込んだという逸話があるほどですので、ちょっと怖い。

 

童子切安綱といえば、平安時代中期の武将である「源頼光」が、丹波国大江山に棲みついて人々を困らせた非常に凶悪な鬼、「酒呑童子(しゅてんどうじ)」の首を切り落としたという伝説もある刀です。その伝説が由来となり、「童子切」の号が付けられたといわれたということで、このように伝説的なエピソードが名前になることもあるんですね。童子切安綱は年1回程度のペースで、東京国立博物館にて展示されています。

 

 

2.鬼丸国綱(おにまるくにつな)

 

鬼丸国綱は鎌倉時代の刀工、「粟田口国綱(あわたぐちくにつな)」作の太刀で、天下五剣で唯一となる皇室の所有品「御物(ぎょぶつ)」であります。「粟田口一門」は鬼丸を始め、多数の著名作を作刀したことで有名。刃長は約78cm・反りは約3.2cmの太刀で、鬼丸国綱は北条家の重宝として知られる刀であります。「鬼丸」という号は、鎌倉幕府5代執権「北条時頼」が鬼の悪夢に苦しめられるという怪事を、この刀を手にしたことで払ったという古伝に由来したものでして、これまた伝説的エピソードの銘ですね。
そのため、鬼丸国綱のことを「鬼切りの太刀」というイメージを持たれている方も少なくはありません。また、この刀の所有家は戦に破れてきたという縁起の悪さを忌み嫌い、無類の日本刀好きである豊臣秀吉でさえ、この刀の所有を避けたという伝来もあります。

 

また、「御物」という性格上、天下五剣の中では唯一、鬼丸国綱のみ「国宝」及び「重要文化財」としての文化財指定を受けておりません。一般向けに展示される機会が非常に限られているため、書籍などに掲載される写真も数少ない機会に撮影されたものに限られております。

 

 

3.三日月宗近(みかづきむねちか)

 

三日月宗近は平安時代の刀工、「三条宗近(さんじょうむねちか)」作の太刀で、東京国立博物館が所蔵する国宝です。三条宗近は山城国京の三条に住んでいたことから、「三条宗近」という呼称がありますが、平安時代末期の名工として知られております。

 

天下五剣の中で”最も美しい”と評される優美な刀で、「名物中の名物」といわれ続ける名刀です。
刀剣にあまり詳しくない方でも、「三日月」のことは知っているという方も少なくありませんよね。

 

「三日月」という号は、刀身に三日月形の模様が浮き出ていることが、由来として伝えられております。刃長は約80cm・反りは約2.7cmの太刀で、足利家の重宝だったと伝えられていますが、長く徳川将軍家に伝来したことでも知られており、三日月宗近も年1回程度のペースで、東京国立博物館にて展示されています。

 

 

4.大典太光世(おおでんたみつよ)

 

大典太光世は平安時代の刀工、「三池典太光世(みいけでんたみつよ)」作の太刀で、東京都目黒区にある公益財団法人の前田育徳会が所蔵する国宝。元々は足利将軍家に伝来する宝刀でしたが、豊臣秀吉の手を経て前田利家に渡り、現在に至るまで前田家が代々守っている名刀であります。刃長は約66cm・反りは約2.7cmの太刀で、他の太刀と比較すると短めの刀身と、広い身幅が特徴。

 

「大典太」という号は、前田家が所蔵する「典太光世」作の刀剣には「長いもの」と「短いもの」が二振りあり、単純に長い方を「大典太」と呼んでいたことに由来しています。病気や妖かしからの守護ができる霊刀としても知られ、秀吉の養女「豪姫」の病気を治したり、伏見城で妖かしを退けたという言い伝えも残されています。

 

 

5.数珠丸恒次(じゅずまるつねつぐ)

 

数珠丸恒次は鎌倉時代の刀工、「青江恒次(あおえつねつぐ)」作の太刀で、兵庫県尼崎市にある本興寺が所蔵する国の重要文化財。鎌倉時代の僧で日蓮宗の開祖である、「日蓮」が所持していたとされる刀で、身延山に配流された際、信者から護身用に贈られたと伝えられております。

 

日蓮は贈られたこの太刀の柄に数珠を巻き、武器としてではなく魔除けの守り刀として用いていたことは著名な話です。「数珠丸」という号は、このエピソードが由来しているともいわれています。刃長は約81cm・反りは約3cmある太刀で、天下五剣の中で”最も長い”のが特徴。

 

この数珠丸恒次(じゅずまるつねつぐ)ですが、日蓮の没後数珠丸は長らく所在不明となりましたが、宮内省の刀剣研究家「杉原祥造」氏が、ある華族の競売の中になんと数珠丸があるのを発見。
自身の私財を投じて数珠丸を落札し、日蓮にゆかりのある「身延山久遠寺」へ返還を申し出ますが、真贋が定かではないことからこれを断られたとのこと。
「杉原祥造」氏は仕方なく、当時自宅の近くにあった日蓮宗の寺院「本興寺」に相談。その結果、現在に至るまで「本興寺」に奉納されることになったとこのと。

 

 

いやあ、是非拝見してみたいですね…。と、呟きたいところなのですが、実は2年前の東京国立博物館の「国宝展」にて、童子切安綱(どうじぎりやすつな)、三日月宗近(みかづきむねちか)を拝見することができたのですが、銘刀を前にしてどんな気分だったか?

 

展示の仕方も素晴らくなおさらだったのですが、まずは何も考えず全体の形を拝見し、さらに刃の景色を眺めておりますと、景色の中にすーっと引き込まれていくような感覚をとても覚えております。

 

こと、三日月宗近(みかづきむねちか)の刃に広がる三日月を眺めておりますと、刃の中に確かに薄墨の夜景に浮かぶ三日月が。ずぶの素人ではありますが「これが景色がみえるということなのか…。」などと感銘を受けました。また、ほど述べた説明のように有名な武将たちもこの刃先や景色に引き込まれていったのかと思いますと、それはテンションがあがります。あの刃の輝きと共に今でも記憶に鮮烈に焼き付いていますので、こうやって人は刀剣に沼っていくのでしょうね。

 

 

それではごきげんよう。

 

 

Hello everyone, this is Staff Y.

 

I noticed that the hydrangeas on the side of the roads and at the entrance of houses are getting ready to bloom, and some of them are already in bloom. It feels like the season is changing at a blinding speed and we are finally moving into the hot season. I feel like saying, “Wait a little longer…” However, I am looking forward to this season when my favorite hydrangea blooms in various places with various flowers.

 

Now, I have been talking about swords since the other day, and I would like to continue tweeting about swords, so please bear with me for a while.

 

By the way, did you know that among cultural properties classified as national treasures, swords (Japanese swords) are the most numerous (about half) (Tachi, Otachi, Daitachi, Tanto, etc…)? (Swords, spears, and naginata are also included in a broad sense.) There are 14 swords that are called “Meimono,” or swords with a unique name (No.). Meimono swords are often referred to by both the name (No.) and the swordsmith’s name (inscription). For example, a sword with the inscription “Mikazuki (No.) + Munechika (inscription)” is called in this way.

 

The swordsmiths who make (forge) Japanese swords are classified into schools or schools of swordsmanship according to region and characteristics. The most famous swordsmiths are “Antsuna”, “Munemitsu”, “Raikokumitsu”, “Yoshimitsu”, “Nagamitsu”, “Kunishige”, “Saumonji”, “Kanesada”, “Muramasa”, “Hizen-no-Kuni Chukichi”, “Masamune”, “Toratoru”, “Teiji” and “Mitsuyo”.

 

Among these, there are five swords known as “Tenka Goken,” which some of you may know as the most famous swords in Japan. The five swords are Mikazuki, Dojikiri, and Odonta, three of which are designated as national treasures, Onimaru, a Gomotsu sword, and Sujumaru, an important cultural property. All five swords are classified as “Tachi” in the Japanese sword classification. (*“Gomotsu” refers to items owned by the Imperial Household and held by the Imperial Household Agency.)

There are various theories, but it is said that the term “five swords under heaven” was already in use during the Muromachi period (1333-1573), and it was only after the Meiji period (1868-1912) that the term was fully established. In the Muromachi period, it is said that the swords were already considered valuable and valued.

 

Let me briefly explain the details of the Five Swords of Heaven.

 

Dojigiri Yasutsuna

Dojigiri Yasutsuna is a national treasure owned by the Tokyo National Museum and was made by Ohara Yasutsuna, a swordsmith of the Heian period. It is a national treasure owned by the Tokyo National Museum. Along with the Ookanehira, a famous sword said to have been made in the late Heian period (794-1185), it is praised as the “double grand champion of the East and West” of Japanese swords, with a blade length of about 80 cm and a warp of 2.7 cm, and is famous as a sword with “amazing cutting ability.

The blade is so sharp that there is an anecdote that “Machida Chotao,” a master of test cutting, cut off the bodies of six criminals with a single swing of the “Dojikiri” and the blade even cut into the foundation below, which is a bit scary.

 

Speaking of the Dojikiri Yasutsuna, legend has it that “Minamoto no Yorimitsu,” a military commander in the mid-Heian period, cut off the head of “Shuten Doji,” a very vicious demon who lived in Oeyama in Tamba Province and annoyed people. It is said that the name “Dojikiri” was given to the sword because of this legend, and so legendary episodes can become the name of a sword in this way. Dojikiri-Yasutsuna is exhibited at the Tokyo National Museum about once a year.

2. Onimaru Kunitsuna

Onimaru Kunitsuna is a tachi sword made by Awataguchi Kunitsuna, a swordsmith of the Kamakura period (1185-1333), and is the only one of the Five Swords of Japan owned by the Imperial Family. The Awataguchi clan is famous for having produced many famous swords, including Onimaru. Onimaru Kunitsuna is a sword with a blade length of approximately 78 cm and a warp of approximately 3.2 cm, and is known as a treasured sword of the Hojo family. The name “Onimaru” is derived from an old legend that the fifth regent of the Kamakura Shogunate, “Hojo Tokiyori,” was tormented by a nightmare of a demon, which he dispelled by holding this sword in his hand, which is also the name of a legendary episode.
Therefore, not a few people have an image of Onimaru Kunitsuna as “the sword of the devil cutter”. There is also a legend that even Toyotomi Hideyoshi, an unparalleled lover of Japanese swords, avoided owning this sword because the owners of this sword abhorred the bad luck of having been defeated in battle.

 

Due to its nature as a “goimono,” Onimaru Kunitsuna is the only one of the Five Swords of Japan that has not been designated as a “national treasure” or “important cultural property. Because of the limited opportunities to exhibit the sword to the general public, photographs of the sword in books and other publications are limited to those taken on the rare occasions when they are available.

 

 

3. Mikazuki Munechika

Mikazuki Munechika is a tachi sword made by the Heian-period swordsmith Sanjo Munechika, and is a National Treasure owned by the Tokyo National Museum. Sanjo Munechika lived in Sanjo, Kyoto in the Yamashiro Province, and is known as a master swordsmith of the late Heian Period.

 

This graceful sword has been described as “the most beautiful” among the five swords under heaven, and it continues to be called “a masterpiece among masterpieces.
Many people who are not familiar with swords are familiar with “Mikazuki.

 

The name “Mikazuki” is derived from the crescent-shaped pattern on the blade. It is said to have been a treasure of the Ashikaga family, but it is also known to have been handed down to the Tokugawa shoguns for a long time, and Mikazuki Munechika is exhibited at the Tokyo National Museum about once a year.

 

 

4. Mitsuyo Oodenta

Oodenta Mitsuyo is a tachi sword made by the Heian-period swordsmith Miike Denta Mitsuyo, and is a national treasure owned by the Maeda Ikutoku-kai, a public interest incorporated foundation located in Meguro-ku, Tokyo. Originally a treasured sword handed down to the Ashikaga shoguns, it passed through the hands of Toyotomi Hideyoshi to the Maeda Toshiie family and has been protected by the Maeda family for generations to the present day. With a blade length of approximately 66 cm and a warp of approximately 2.7 cm, this sword is characterized by a shorter blade and a wider body width compared to other swords.

 

The name “Odonta” comes from the fact that there were two swords in the Maeda family collection, one long and one short, both made by “Nenta Mitsuyo,” and the longer one was simply called “Odonta. It is also known as a sacred sword that can protect against illness and demons. Legend has it that it cured Hideyoshi’s adopted daughter “Gohime” of illness and repelled demons at Fushimi Castle.

 

 

 

5. Suzumaru Tsunetsugu

Juzumaru Tsunesugu is a sword made by Aoe Tsunesugu, a swordsmith of the Kamakura period (1185-1333), and is a National Important Cultural Property owned by Honko-ji Temple in Amagasaki City, Hyogo Prefecture. It is said to have belonged to Nichiren, a monk of the Kamakura period and founder of Nichiren Buddhism, and was given to him by his followers for protection when he was exiled to Mount Minobu.

 

It is a well-known story that Nichiren wrapped beads around the handle of this sword and used it not as a weapon but as a protective sword to ward off evil. It is said that the name “Sujumaru” is derived from this episode. With a blade length of 81 cm and a warp of about 3 cm, it is the longest sword among the Five Swords of Heaven.

 

After Nichiren’s death, the whereabouts of Suzumaru Tsunetsugu were unknown for a long time, but Shozo Sugihara, a sword researcher from the Ministry of the Imperial Household, found Suzumaru in an auction held by a noble family.
He offered to return it to “Minobu-san Kuon-ji Temple,” a temple associated with Nichiren, but the temple refused his offer because the authenticity of the sword was not certain.
Shozo Sugihara had no choice but to consult with Honko-ji Temple, a Nichiren Shu temple near his home at the time. As a result, it has been dedicated to Honko-ji Temple to this day.

 

 

 

Well, I would love to see it…. I would like to mutter, “I would love to see them,” but in fact, I was able to see Dojigiri Yasutsuna and Mikazuki Munechika at the “National Treasure Exhibition” at the Tokyo National Museum two years ago, and how did I feel in front of the famous swords?

 

I remember how I felt in front of the swords, especially the way they were displayed. I first looked at the overall shape without thinking, and then I looked at the scenery of the blade and felt as if I was being pulled into the scenery.

 

In particular, when I looked at the crescent moon on the blade of Mikazuki Munechika, I was sure that I saw a crescent moon floating in a night scene of light black ink in the blade. Although I am a novice, I was impressed by the crescent moon floating in the light-ink nightscape. I was impressed. I was also excited to think that famous warriors were also drawn to the edge of the blade and the scenery, as I explained earlier. The brightness of the blade is still burned vividly in my memory, so I guess this is how people become swamped with swords.

 

 

So long, and have a good day.

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愛知県名古屋市千種区姫池通

骨董 買取【古美術 風光舎 名古屋店】

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噂のピカソ「青の時代」の絵を確かめてきました。(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2024.05.30

みなさまこんにちは、スタッフYでございます。

 

先日、コスチュームジュエリー展を鑑賞すべく愛知県美術館を訪れたのですが、実はもう一つ訪れたい理由がございまして。昨年話題になったあのピカソの絵であります。

 

 

パブロピカソ「青い肩かけの女」

(1902)油彩、画布

 

 

愛知県美術館に所蔵されておりますこのパブロ・ピカソの油彩画において新発見が報告されたこと、ご存知だったでしょうか。「青の時代」の作品の1つ《青い肩かけの女》ですが、この絵の下になんと“別の人物像”が描かれていたことが明らかになりました。

 

そんなことも知らないでおりますと、深いなんともいえない青色の空間を背にうつろな表情の女性が正面を見つめている絵画なのですが、その発見に至った理由は彼の作品の一時代「青の時代」を紐解くところから始まっていたようです。

 

1881年にスペイン南部に生まれでフランスで活躍したピカソ。彼の経歴や作品などは説明するまでもないのですが、“造形の革命”とも言える美術表現「キュビスム」を創始し、91歳で亡くなるまで作風を変えながら、絵画芸術に新たな地平をひらき続けた巨匠。

そんな彼が《青い肩かけの女》はピカソが「キュビスム」を提唱するよりも前、20歳の若かりし頃に描いた作品であります。最初から彼の代表作《ゲルニカ》などのような作品を絵描いていたのかと思っておりましたが、かつてはこのような表情がよみとれる絵もかいていたのだなと驚きます。

 

紆余曲折の時代を経てあの《ゲルニカ》のような作風になっていくのですが、当時ピカソは親友・カサヘマスの自殺に強いショックを受け、“生と死”“貧困”といった主題に打ち込むようになった時代でもありました。その表現として青を用い、基調とした悲哀に満ちた作品群から「青の時代」と呼ばれているようになったようです。

 

そんな「青の時代」の作品ですが、実は近年の調査でその下層から別の絵が出てくるという事例が複数報告されております。愛知県美術館においても「この絵の下にもひょっとしたら…」なんて期待があったようでして、2014年からこの作品の本格調査に取りかかっておりました。

 

そもそもなぜそんな事例が多いのかと申しますと、「青青の時代」は貧困の時代でもあり、当時のピカソは若い画家で売れっ子でもなく、売れ残った作品がかなり手元に残っていたそうです。お金もなく、いくつかは“リユース”といいますか、古い絵を塗りつぶしてしまってその上に別の絵を描いていたようでして、貧しくても描きたいという強い思いがあってのことだと思いますが、それが今日になって発見され複数の報告となっているようであります。

 

そんな期待を込めてこの絵も2018年までの4年間に、赤外線、紫外線、X線透過、蛍光X線などさまざまな光学調査を行ってきたのですが、明瞭なイメージは現れずめぼしい成果は得られなかったようです。ぼやっと何かあるかな…というくらいで、「ある」とも「ない」とも言えないもどかしい状態で、発見!とまでは踏ん切りがつかなようでした。

 

そんな中2023年最後の調査に乗り出します。それが、アメリカ・ワシントンの美術館「ナショナル・ギャラリー・オブ・アート」と「フィリップス・コレクション」との共同調査なのですが、「ナショナル・ギャラリー・オブ・アート」は近年、光を波長ごとに細かく分けて撮影できる「ハイパースペクトルカメラ」による調査を行っております。

 

この調査は「青の時代」の作品の分析でも目覚ましい成果を上げているのですが、「これでだめなら諦めよう」という気持ちの中、「ハイパースペクトルカメラ」による撮影は去年5月行われます。

そしてなんと、そこから詳細なデータ分析を行った結果ついにそのイメージは出現。

 

なんと、キャンバスのほぼ中央に絵具による別の描線が幾筋も確認されており、描線をよく観察すると表面の絵とは全く異なる大きく首を曲げてうつむく姿の人物が浮かび上がっております。

 

 

 

 

腕や脚を描いたとみられる線も確認できますので、この絵もピカソが描いたもので間違いないようですが、現時点では「100%断言はできない」とのことのことであり、下の絵からはサインなどは確認できていないので副田学芸員は同時期のピカソの別の絵との類似性に注目してみたようです。

一例として挙げたのは「青の時代」を代表する《スープ》という作品。比較てみますと、「この《スープ》では、女性がぐーっと背を丸めて頭を真下に向け、今回見つかった人物像の描線と非常に近いものがあるそうです。ピカソの同時期の作品にはこれ以外にも、似たような構図の人物像がたくさんありますので、不自然な感じはしないようでして、ピカソが描いた何らかの下絵なんじゃないかなと思います。」とのことでした。

 

そしてもう一つ、今回の発見の興味深い点を強調する見つかった人物像の“背中”の部分、大きく曲がっていますけど、それが最終的に今描かれている《青い肩かけの女》の“頭”のラインと一致するようでして、ピカソが下の絵の輪郭線の一部を利用して、その上の《青い肩かけの女》を描いていたことがわかりました。

おそらくピカソは、下の絵をまず描いた後にその線の一部を“再利用”といいますか、その線からインスピレーションを受けながら新しい形を作っていったのでしょうか。

 

ピカソが当時どのように絵を描いていたかはつぶさにわかっているわけではないのですが、その制作プロセスの一端が垣間見える、非常に面白い発見だったようでして、そんなことを思い浮かべながらしばらく絵を覗き込んでみましたが、下の絵がみえたような見えないような…。すこし想像力をのせながら、下の絵を上の絵を脳内で重ねてみたりしておりました。

 

うん、見えた気がする。

 

それではごきげんよう。

 

 

Hello everyone, this is Staff Y.

 

The other day, I visited the Aichi Prefectural Museum of Art to see the Costume Jewelry exhibition. It is the Picasso painting that was the talk of the town last year.

 

Pablo Picasso “Woman with Blue Shoulders” (1902) oil on canvas

 

Did you know that a new discovery has been reported in this oil painting by Pablo Picasso, which is in the collection of the Aichi Prefectural Museum of Art? One of the works from the “Blue Period,” “Woman with Blue Shoulders,” has been found to have another figure painted underneath it.

 

The reason for this discovery seems to have started from the discovery of the “Blue Period,” a period of his works.

 

Picasso was born in 1881 in southern Spain and worked in France. His career and works need no explanation, but he is a master artist who created “Cubism,” an artistic expression that can be called a “revolution in plastic arts,” and continued to open up new horizons in the art of painting while changing his style until his death at the age of 91.

He painted “Woman with Blue Shoulders” at the young age of 20, before Picasso advocated “Cubism. I had thought that he had painted works like his masterpiece “Guernica” from the beginning, but I was surprised to see that he had once painted a picture in which we can read the expression on the artist’s face.

 

He was shocked by the suicide of his close friend, Cashemas, and began to focus on the themes of “life and death” and “poverty” at that time. He was shocked by the suicide of his close friend, Cashemas, and began to focus on such themes as “life and death” and “poverty. He used the color blue as an expression of this, and his works, which were full of sorrow and sadness, became known as the “Blue Period.

 

In fact, recent investigations have reported several cases in which other paintings have emerged from the lower layers of the “Blue Age” works. The Aichi Prefectural Museum of Art had been expecting that there might be another painting underneath this one, and in 2014, we began a full-scale investigation of this work.

The reason why there are so many such cases is that the “Blue and Blue Period” was a time of poverty, and Picasso was a young artist and not a successful one at the time, so he had a lot of unsold works left on his hands. He had no money, so he “reused” some of his old paintings by painting over them and creating new paintings on top of them. Today, it has been discovered and several reports have been made.

 

With such expectations, I have conducted various optical investigations of this painting for four years until 2018, including infrared, ultraviolet, X-ray transmission, and fluorescent X-ray, but no clear image appeared and no significant results were obtained. The results were so frustrating that we could not say “yes” or “no” to the question of whether there was something there…! It seemed that they could not make up their minds to “find it”.

 

In 2023, they embarked on their final research. The National Gallery of Art has recently been conducting a survey using a hyperspectral camera, which is capable of taking images by dividing light into smaller pieces according to wavelengths. The National Gallery of Art has recently conducted a survey using a hyperspectral camera, which is capable of taking images by dividing light into different wavelengths.

 

This research has produced remarkable results in the analysis of the “Blue Age” works. With the feeling of “If this doesn’t work, we’ll give up,” the “hyperspectral camera” photography will be conducted last May.

After a detailed data analysis, the image finally appeared.

 

When the image was examined closely, a figure with its head bent and slumped over emerged, completely different from the painting on the surface.

 

 

 

 

Since there are also lines that appear to depict arms and legs, there seems to be no doubt that this painting was also done by Picasso, but at this point, “we cannot be 100% sure,” according to the curator, and since no signature can be confirmed from the painting below, Soeda focused on the similarity with another Picasso painting from the same period. So, curator Soeda has focused on the similarity with other Picasso paintings of the same period.

As an example, he cited a work called “Soup,” which is representative of the “Blue Period. In “Soup,” the woman is curving her back and turning her head downwards, which is very similar to the lines of the figure found in the present painting. Since there are many other figures of similar composition in Picasso’s works of the same period, it does not seem unnatural, and I think it may be some kind of preparatory sketch that Picasso painted. He said.

 

Another interesting point of this discovery is that the “back” of the figure, which is bent significantly, seems to match the “head” line of the “Woman with Blue Shoulders,” which was eventually painted. It seems to coincide with the line of the “head” of the “Woman with Blue Shoulders,” which is ultimately painted in the present work, and I realized that Picasso used a part of the outline of the lower painting to paint the “Woman with Blue Shoulders” above it.

Perhaps Picasso “reused” some of the lines of the lower painting after he painted it, or perhaps he was inspired by the lines to create a new form.

 

We do not know exactly how Picasso painted at that time, but it was a very interesting discovery that gave us a glimpse of his creative process. I looked into the picture for a while with such a thought in my mind, but I couldn’t see the picture below. With a little imagination, I tried to superimpose the bottom picture on the top picture in my mind. Yes, I think I saw it.

 

Have a good day.

 

 

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ご実家の整理やお片付けなどをされている方のご相談などが多くございます。

お片付けなどくれぐれもご無理のないようになさってくださいませ。

風光舎では古美術品や骨董品の他にも絵画や宝石、趣味のお品など様々なジャンルのものを買受しております。

お片付けをされていて、こういうものでもいいのかしらと迷われているものでも、どうぞお気軽にご相談下さいませ。

また風光舎は、出張買取も強化しております。ご近所はもちろん、愛知県内、岐阜県、三重県その他の県へも出張いたします。

まずは、お電話お待ちしております。

 

 

愛知県名古屋市千種区姫池通

骨董 買取【古美術 風光舎 名古屋店】

TEL052(734)8444

10:00-18:00 OPEN

【掛軸・版画・書籍買取】千種区のお客様より買取致しました。(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2024.05.30

 

 

名古屋市千種区のお客様より、掛軸、版画、書籍などを買取いたしました。

長年大切にされておりました御品をお譲りくださり、誠にありがとうございました。

 

只今、古美術風光舎では、ご家庭にございます骨董古美術品の買取も強化しております。

なお、毎月18日の持込鑑定会では無料鑑定・買取・ご相談など、ご予約なしで承っております。

ご近所の皆さま、ご遠方のみなさまも、お気軽にお越しくださいませ。

 

 

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骨董 買取【古美術 風光舎 名古屋店】

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細部まで六角形にこだわった急須です(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2024.05.29

みなさまこんにちは。スタッフHでございます。

 

本日は快晴で湿度も少なく、外を歩くには気持ちの良い日となりました。風光舎もドアや窓を開け放ち爽やかな空気をたっぷりと取り込んでおります。この陽気が続いてほしいと願いますが、そうもいかないのでしょうね。

 

さて店内に中国の急須が仲間入りしております。形が六角形でぽってりと安定感があるのですが、可愛らしくもあります。よく見ると取っ手も、注ぎ口も、つまみまでも六角形になってなっております。

側面には中国の張継の漢詩が書かれており、反対側には景色が描かれています。

 

 

 

 

 

 

何が書かれているのか気になり調べてみました。

 

楓橋夜泊

月落ち烏啼いて 霜天に満つ

江楓漁火 愁眠に対す

姑蘇城外 寒山寺

夜半の鐘声 客船に到る

 

月が沈み夜烏(よがらす)が啼き、霜の降りる気配が天に満ちて、冷え込んできた。

川岸の楓(かえで)の木々の間には漁火(いさりび)が点々として、旅愁のためにうつらうつらとして眠れない私の目に映る。

 

南方の地方官に赴任を命ぜられたころの作で切ない心情を歌っているようです。

 

中国の急須は使えば使うほど艶やが出でくるといいます。土にお茶が染み込んでいって、味も美味しくり、表面に艶も出て来ます。育てていく楽しみもありますね。

 

中国では急須は「茶壺(ちゃふう)」とも呼ばれ、茶道具には他に茶杯(ちゃはい)、茶海(ちゃかい)、茶盤(ちゃばん)などがあります。揃えるとお茶会の雰囲気が一気に華やかになります。

日本の茶道のように作法はそこまで細かくはないので、気軽に楽しむことができそうです。

個人的には茶壺に湯を溢れさせるほど並々と注ぎ、茶盤に大胆にこぼしても許されるところが気に入っています。こんなに堂々とこぼせる?機会はそうそうないと思います。

 

 

 

 

先日、脂っこい食事をしたあとに胃のもたれがひどくなり、必死で中国茶を探しました。以前お土産でもらったプーアール茶を見つけ久しぶりに飲むと、胃のもたれが一瞬でおさまりました。ダイエットにはプーアール茶だと言っていた友人がいましたが、確かにこれは効きそうです。

独特の風味があるので苦手な人もいるようですが、焼肉のあとなどにはお勧めです。

 

それでは、また次の機会に。

 

Hello everyone. This is Staff H.

Today is a beautiful sunny day with low humidity, making it a pleasant day to walk outside. At Fumikosha, we have opened the doors and windows to let in plenty of fresh air. I wish this sunny day would continue, but I guess that is not going to happen.

 

A Chinese teapot has joined our store. The shape is hexagonal and has a sense of stability, but it is also cute. If you look closely, you can see that the handle, spout, and even the knob are hexagonal.

On the side, a Chinese poem by Zhang Ji is written, and on the other side, a landscape is drawn.

 

I was curious to know what was written on it, so I looked it up.

 

Maple bridge stays the night

The moon is falling, crows are singing, and the frosty sky is full

Fishing fire of Jiangfeng, against the melancholy sleep

Outside of Gusu City, Cold Mountain Temple

The sound of bells at midnight, arriving at the passenger boat

 

The moon was setting, crows were crying, the sky was full of frost, and it was getting cold.

Fishing fires dotted among the maple trees along the riverbank, and my eyes were dazed and sleepless from the longing for the journey.

The poem was written when he was ordered to work as a local official in the south, and seems to express his sad feelings.

 

It is said that the more a Chinese teapot is used, the more lustrous it becomes. As the tea soaks into the clay, it tastes better and the surface becomes shiny. It is fun to cultivate the teapot.

 

In China, kyusu is also called “chafu” (tea pot), and other tea utensils include chahai (tea cup), chakai (tea sea), and chaban (tea board). When all of these items are arranged together, the atmosphere of a tea party becomes more festive.

As the etiquette is not as detailed as the Japanese tea ceremony, it is easy to enjoy the tea ceremony.

Personally, I like the fact that you are allowed to pour hot water into the tea pot so generously that it overflows and spill it boldly on the tea board. Can you spill it so boldly? I don’t think there are many opportunities to do so.

 

The other day, my stomach was upset after a greasy meal, and I desperately searched for Chinese tea. I found some pu-erh tea that I had received as a gift and drank it for the first time in a long time. I had a friend who said that pu-erh tea is good for dieting, and it certainly seems to work.

It has a unique flavor that some people don’t like, but I recommend it after grilled meat.

 

I will see you next time.

 

 

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愛知県名古屋市千種区姫池通

骨董 買取【古美術 風光舎 名古屋店】

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【レコード・茶碗・銀製品買取】名古屋市千種区のお客様より鑑定買取いたしました。

2024.05.29

 

 

 

 

名古屋市千種区のお客様より、レコード、茶碗、銀製品などを買取いたしました。

長年大切にされておりました御品をお譲りくださり、誠にありがとうございました。

 

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今で言う人気の「フォント」ということでしょうか(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2024.05.28

みなさまこんにちは。スタッフTでございます。

今日は雨の一日ですね。今年最初の台風も発生し、今日は警報級の雨の地域もあるようです。外出の際は足元にお気を付けくださいね。

ちなみに台風の名前は、国際機関「台風委員会」の加盟国などが提案した名称があらかじめ140個用意されていて、発生順につけられるのだそうです。

台風1号の名前「イーウィニャ」はミクロネシアが提案した名称で、嵐の神という意味のチューク諸島の伝統的な言葉からとられているそうですよ。

 

 

さて昨日は、先日こちらでつぶやきました藤原定家が『小倉百人一首』を完成させたことにちなんで「百人一首の日」でした。

『小倉百人一首』が完成したのは13世紀といわれていますが、800年近くたった今でも、日本の文化のひとつとして私たちの近くにあるのは素敵なことですね。

 

今も「かるた」として愛され続ける百人一首。

小倉百人一首は、公家である藤原定家が選んだ秀歌撰であると考えられており、定家の子、為家の舅である宇都宮頼綱(蓮生)の求めに応じて、定家が嵯峨小倉山荘において、天智天皇から順徳院まで百人の歌人の秀歌を各一首ずつ選び、百枚の色紙に揮毫したものとされています。

歌はほぼ時代順に配列され、すべて勅撰第一集から第十集の歌集から選ばれていて、うち94首までが八代集の歌となっています。『古今集』からの歌が最も多く24首。恋歌が最多で43首。作者は男性79人、女性21人です。

 

ちょうど今放送されている大河ドラマ「光る君へ」の登場人物の中には、紫式部、清少納言、藤原公任、赤染衛門など「百人一首」に選ばれた人が8人もいますね。「まひろ」というドラマでの呼び名がすっかり耳に馴染んでしまいましたが「紫式部」として登場するのはいつなのでしょうか。

 

話が逸れてしまいましたが、この『小倉百人一首』を編纂した藤原定家、「字は正確、書くのも早いが、決してうまい筆ではない」というのが当時の評価であったそうです。

「定家様」と呼ばれる特徴ある書体は、自分でもあまりうまい字とは思っていなかったよう。この書風は室町時代から江戸時代にかけて評判になります。当時の人々には親しみやすく、味のある筆に移ったようで、徳川家康なども使ったと言われているようですから、今で言う人気の「フォント」だったのでしょう。

「定家様」の魅力は一字一字が明確で堂々としていることだそうです。昔の書体というと、行書やかなの各字が切れずに連続して書かれているものが多い印象ですが、このかなの連綿も少ないそうです。藤原定家がこうした字を使いだしたのは、読みやすさ、写しやすさのためではないかと言われています。

とすれば、後に読む人のことを思っての心やさしい筆跡ということでしょうか。

 

ではでは、また。

 

 

 

Hello everyone. This is Staff T.
Today is a rainy day. The first typhoon of the year has hit the area, and it looks like there are some areas with warning-level rain today. Please watch your step when you go out.
The typhoons are named in the order of their occurrence, with 140 names proposed in advance by member countries of the Typhoon Committee, an international organization.
The name of typhoon No. 1, “Ewiniha,” was proposed by Micronesia and is taken from a traditional word in the Chuuk Islands meaning “god of storms.

Yesterday was “Hyakunin Isshu Day” in reference to the completion of “Ogura Hyakunin Isshu” by Fujiwara Teika, as I tweeted here the other day.
It is said that “Ogura Hyakunin Isshu” was completed in the 13th century, and it is wonderful that it is still around us as a part of Japanese culture nearly 800 years later.

The Hyakunin Isshu continues to be loved as “karuta” even today.
The Ogura Hyakunin Isshu is thought to be a collection of excellent poems selected by Fujiwara no Teika, a court noble, at the request of Utsunomiya no Yoritsuna (Renjo), a son of Teika and Tameie of Alexandria, who selected one poem each by 100 poets from Emperor Tenchi to Juntokuin and wrote them on 100 pieces of colored paper at Saga Ogura villa.

The poems are arranged in chronological order, and all were selected from the imperial anthologies 1 to 10, of which 94 are from the Yatsushiroshu. The largest number of poems, 24, are from the Kokinshu, and the largest number of love poems, 43, are from the Yatsushiroshu. The largest number of love poems, 43, are from the “Kokinshu. The number of authors is 79 males and 21 females.

Among the characters in the historical drama “To the Luminous Kimi,” which is being broadcast right now, there are eight people who were chosen for the Hyakunin Isshu, including Murasaki Shikibu, Sei Shonagon, Fujiwara no Kouto, and Akazome Emon. I have become familiar with the name “Mahiro” from the TV drama “Mahiro,” but when will she appear as “Murasaki Shikibu”?

I digress. Fujiwara Teika, who compiled the Ogura Hyakunin Isshu, was said to have been evaluated at the time that his handwriting was accurate and quick, but that he was not a good writer.
He did not think his distinctive style of calligraphy, called “Teika-sama,” was very good. This style of calligraphy became popular from the Muromachi period (1333-1573) to the Edo period (1603-1867). It seems to have moved to a familiar and tasteful brushstroke for the people of the time, and it is said that Tokugawa Ieyasu and others also used it, so it must have been a popular “font” as we know it today.

 

The charm of “Teika-sama” is that each character is clear and imposing. Many of the old typefaces are written in a series of unbroken kana or gyosho, but there are few examples of this kana renga. It is said that Fujiwara no Sadaie started using these characters for ease of reading and copying.
If this is the case, it may mean that he was thinking of those who would read his handwriting later on.

See you soon.

 

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シルバーのジュエリーが似合う季節です(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2024.05.26

みなさまこんにちは。スタッフHでございます。

ハナミズキの花を見かけると、ちょうど一年前に風光舎で働き始めた頃を思い出します。ブログを書きながら話がどんどん逸れていってしまうのは未だ変わりません。

 

さて以前から気になっておりました銀製のケース。戦前に日本の実業家であった石坂泰三氏に外務大臣より贈呈された御品だそうです。私とは縁遠い世界のどこかに置かれていた御品ですが、手に取ることができるということで繁々と眺めております。

 

 

 

 

 

 

もとは光り輝いていたのでしょうが、年を経て渋い味わいが出ております。

 

銀の歴史は古く、紀元前3000年ころから存在していており、金や銀を施した宝飾品が埋葬品として墓などから発掘されています。また古代においては銀の方が金よりも希少価値が高いと考えられていた時期もあったそうです。金は「自然金」の形で見つかるのに対して、銀は自然銀としてよりも「鉱石」として見つかる方が多く、取り出すことが難しかったためだと考えられています。銀が金の2.5倍の価値があったともいわれ、中世ヨーロッパでは金の上に銀メッキをすることもあったのだとか。今となっては想像し難いですね。しかし銀の精錬技術が発達してからは銀の生産量は飛躍的に伸び、金と銀の価値が逆転していったそうです。

 

日本の石見銀山が発見されたのは南北朝時代で、銀山として開発されたのは1526年とされています。朝鮮半島から灰吹法(はいふきほう)が導入されると生産量が増加し、安土桃山時代に花開き、江戸時代には幕府が直轄管理することになりました。この頃、世界の3分の1の銀が日本で産出されだとか。マルコ・ポーロが書いた旅行記「東方見聞録」で、日本は「黄金の国ジパング」と記されていることは有名ですが、銀もあふれていたのですね。

 

これから夏に向けて、涼しげなシルバーのジュエリーを身に着ける方も多いのではないでしょうか。私も暑くなってくると無意識にシルバーを手に取っている気がします。銀製品や銀のジュエリーには銀の純度が95%や92.5%の物が使用されているようです。純度100%の方が良いように思いますが、変色しやすくまた柔軟性が高すぎて変形してしまうのだそうです。そのため銅などの金属と混ぜ合わせ扱いやすくすることで様々な製品を作ることが可能になりました。

 

17世紀に銀製品はヨーロッパで人気となり、上流階級で食事の際に銀食器が使われるようになりました。調べてみるとフランスでは16世紀にカトラリーを使う風習が持ち込まれるまで手づかみで食事をしていたとあります。手づかみ?熱い料理や汁ものなどはなかったのでしょうか?ちょっと気になって日本のお箸の文化を調べたところ、飛鳥時代の頃には中国からお箸の文化が伝わっているとされています。やはり2本の細い棒だけで食事を頂ける箸というのはシンプルかつ合理的な道具に思えてきます。

また話が逸れましたが、ヨーロッパの王侯貴族や富裕層が銀食器を使用した理由に、銀が化学変化を起こしやすく、食品に毒物が盛られた時に察知しやすいからだとも言われています。中国でも皇帝は「銀の箸」で食事をしていたのだとか。なんだか物騒な話になってまいりましたが、美しく輝く銀食器を使いながら、そんな心配もしなくてはならないなんて、上に立つ人々というのはいつの世も身の危険がつきものなのですね。

呑気に食事を楽しめる身分としてはお気の毒な感じがいたします。

 

それでは、また次の機会に。

 

Hello everyone. This is Staff H.

When I see dogwood blossoms, I remember the time when I started working at Fuhkosha exactly one year ago. I am still going off on tangents as I write this blog.

 

I have been curious about this silver case for a long time. It was presented to Mr. Taizo Ishizaka, a Japanese businessman, by the Minister of Foreign Affairs before the war. I have been looking at it with great interest because I can hold it in my hand, although it had been placed somewhere in the world far away from me.

 

It must have shone brightly in the past, but it has acquired an austere taste over the years.

Silver has a long history, dating back to around 3000 BC, and gold and silver jewelry has been excavated from tombs and other burial sites. In ancient times, silver was thought to be rarer than gold. This is believed to be because gold is found in the form of “natural gold,” while silver is more often found as “ore” than as natural silver, making it more difficult to extract. It is said that silver was 2.5 times more valuable than gold, and in medieval Europe, silver was sometimes plated over gold. It is hard to imagine nowadays. However, after the development of silver refining technology, silver production increased dramatically and the value of gold and silver reversed.

 

The Iwami Ginzan Silver Mine in Japan was discovered during the period of the Northern and Southern Dynasties, and it is said that it was developed as a silver mine in 1526. Production increased with the introduction of the haifuki method from the Korean Peninsula, and blossomed during the Azuchi-Momoyama period (1573-1600), and was directly controlled by the shogunate during the Edo period (1603-1867). At this time, one-third of the world’s silver was produced in Japan. Marco Polo famously wrote that Japan was “Zipangu, the land of gold” in his travelogue “The Book of Marco Polo,” but silver was also abundant in Japan.

 

Many people will probably be wearing cool silver jewelry in the coming summer months. I also feel like I unconsciously pick up silver when it gets hotter. It seems that silver products and silver jewelry are made of 95% or 92.5% pure silver. Although 100% purity seems to be better, it tarnishes easily and is too flexible to be deformed. Therefore, silver was mixed with copper and other metals to make it easier to handle and to make a variety of products.

 

In the 17th century, silver products became popular in Europe, and silver tableware was used by the upper classes for meals. Research shows that in France, people ate with their hands until the custom of using cutlery was introduced in the 16th century. Hand-held? Were there no hot dishes or soups? I was a little curious and looked up the culture of chopsticks in Japan. It is said that the culture of chopsticks was introduced from China around the Asuka period. Chopsticks are a simple and rational tool that allows you to eat with only two thin sticks.

This is a digression, but it is said that the reason why European royalty and wealthy people used silver tableware was because silver easily undergoes chemical changes and it is easy to detect when food has been poisoned. Even in China, emperors used to eat with “silver chopsticks. It is a bit of a dangerous story, but it is a fact that people in high positions always have to worry about such things while using beautiful and shining silverware.

As a person who can enjoy a meal in good humor, I feel sorry for them.

 

I will see you next time.

 

 

 

 

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【掛軸・置物買取】東京都のお客様より鑑定買取いたしました。

2024.05.26

 

 

 

 

東京都のお客様より、掛軸、贈答品、置物などを買取いたしました。

 

ご実家のお片付けをされているとのことでした。

Lineにてご連絡いただき査定させていただいた後、お店にお品をお持込みくださいました。

長年大切にされておりました御品をお譲りくださり、誠にありがとうございました。

 

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ビタミンカラーで元気になれそうです(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2024.05.25

みなさまこんにちは、スタッフTでございます。

今日も名古屋はすばらしいお天気です。外を歩いていると、気づけばツツジやハナミズキの花も終わりに近づき、代わりに鮮やかで可愛らしい黄色い花でいっぱいになっていることに気が付きました。

 

 

この花は「セイヨウキンシバイ」と言うそうです。昔はあまり見かけなかったような気もするのですが、幹線道路や歩道の植栽部分に多く咲いており、黄色の花が夏に近づいてきた日差しによく映えます。

 

黄色の花と言えば、誰もが知っているゴッホの『ひまわり』。

1987年、安田火災海上保険(現損保ジャパン)がクリスティーズで落札した『ひまわり』は、なんと53億円で、その桁外れの金額は世界中をあっと言わせました。

 

ゴッホは南仏アルルに構えた「黄色い家」に飾るためにこの絵を描いたとされています。ゴッホの最初の構想は、ひとつの花瓶に12本のひまわりを挿した絵を12枚描くというもの。12というのはキリストの弟子の数であり、ゴッホがアルルに招こうとしていた画家の数とされています。

ゴッホの構想では、アルルで画家仲間と共同生活をしながら、経済的にも自立できるような共同体をつくりたかったようです。「ひまわり」は、ゴッホにとって、太陽やユートピア(共同体)の象徴であったと言われています。

アルルでの共同生活に誘った画家仲間のうち、実際、アルルにやってきたのは、ゴーギャン一人だけでした。しかし結局、ゴーギャンとの生活はわずか2ヵ月で破綻。その2年後には自らの手で生涯に幕を閉じてしまいます。

 

ゴッホの代表作である、花瓶とともに描かれている「ひまわり」は現在、全部で6枚あります。意外と数があるのですね。

実は制作されたのは7枚でした。1枚は日本人が個人で所有していましたが、1945年空襲により焼失しています。

有名なものは、花瓶に生けられた「ひまわり」ですが、「パリのひまわり」と呼ばれている、それ以前に描かれた異なる構図の作品も4点現存しています。「パリのひまわり」は1889年のゴーギャンとの手紙のやり取りの中で言及されるまで、その存在は知られていませんでした。

 

目にも鮮やかな黄色やオレンジ色は、ビタミンカラーと呼ばれ、元気をあたえる色です。

色には、人の心を癒す不思議な力があるとされています。言葉で表すことのできない深層心理を色によって表現することもできるといわれています。

色を使った心のケアやカラーセラピーは、古代エジプトが発祥とされており、このカラーセラピーは、高齢者施設や保育現場でも近年取り入れられ注目されているのだそうです。

 

夏が近づき、カラフルな色の洋服が並び始めました。自分にはこんな色は似合わないと決めてしまいがちなのですが、パーソナルカラー診断で自分に合う色見つけてみようと思います。服でもクルマでも、躊躇せずにワクワクする色を選んでみると、生活がもっと楽しくなるかもしれませんね。

ではでは、また。

 

 

Hello everyone, this is Staff T.

It’s another beautiful day here in Nagoya. As I walk outside, I notice that the azaleas and dogwoods are almost finished and the streets are filled with bright, lovely yellow flowers instead.

These flowers are called “Japanese buttercups. I don’t think I used to see many of these flowers in the past, but I see many of them on main roads and sidewalks, and their yellow flowers look good in the sunlight as summer approaches.

 

Speaking of yellow flowers, Van Gogh is known for his “sunflowers.

In 1987, Yasuda Fire & Marine Insurance (now Sompo Japan Insurance) won the bid for “Sunflowers” at Christie’s for a staggering 5.3 billion yen, a sum that stunned the world.

 

It is said that Van Gogh painted this painting to hang in his “Yellow House” in Arles, southern France. Van Gogh’s original idea was to paint 12 pictures of 12 sunflowers in a vase, which is the number of Christ’s disciples and the number of artists he intended to invite to Arles.

Van Gogh’s vision was to create a community in Arles where he could live together with his fellow painters and become financially independent. It is said that “sunflowers” symbolized the sun and utopia (community) for Van Gogh.

Of the painters he invited to live together in Arles, Gauguin was the only one who actually came to Arles. In the end, however, his life with Gauguin fell apart after only two months. Two years later, he ended his life by his own hand.

 

Currently, there are a total of six of Van Gogh’s masterpieces, “Sunflowers” painted with a vase of flowers. Surprisingly, there are so many.

Actually, seven were produced; one was privately owned by a Japanese national, but was destroyed in an air raid in 1945.

The most famous is the Sunflowers in a Vase, but there are also four earlier paintings of different compositions, known as Sunflowers in Paris. The existence of Sunflowers of Paris was unknown until 1889, when it was mentioned in a correspondence with Gauguin.

 

 

The bright yellow and orange flowers are called “vitamin colors,” and are known for their energizing qualities.

It is said that colors have a mysterious power to heal people’s hearts. It is said that colors can express the depths of the psyche that cannot be expressed in words.

It is said that mental care and color therapy using colors originated in ancient Egypt, and color therapy has been attracting attention in recent years as it has been adopted in facilities for the elderly and in childcare settings.

With summer approaching, colorful clothes are beginning to appear on the shelves. It is easy to assume that such colors do not suit me, but I would like to try to find colors that suit me through a personal color diagnosis. Whether it is clothes or a car, if you choose exciting colors without hesitation, your life may become more enjoyable.

See you soon.

 

 

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ご実家の整理やお片付けなどをされている方のご相談などが多くございます。

お片付けなどくれぐれもご無理のないようになさってくださいませ。

風光舎では古美術品や骨董品の他にも絵画や宝石、趣味のお品など様々なジャンルのものを買受しております。

お片付けをされていて、こういうものでもいいのかしらと迷われているものでも、どうぞお気軽にご相談下さいませ。

また風光舎は、出張買取も強化しております。ご近所はもちろん、愛知県内、岐阜県、三重県その他の県へも出張いたします。

まずは、お電話お待ちしております。

 

 

愛知県名古屋市千種区姫池通

骨董 買取【古美術 風光舎 名古屋店】

TEL052(734)8444

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