5月, 2022 - 風光舎 | 愛知・名古屋での骨董古美術買取 三重 岐阜 - Page 3

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FROMKYOTOOSAKA

今年全国で初!!(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎名古屋店)

2022.05.06

皆さま、こんにちは。スタッフMです。

 

昨日「こどもの日」は二十四節気の立夏。上空に暖かな空気が流れ込み、各地で初夏の陽気となりましたね。

 

山梨県・勝沼では14時の時点で30.6度、兵庫県・豊岡市では30.4度と真夏日を観測し、名古屋も暑さでバテてしまいそうなくらいでした。

 

一昨日には今年全国初、沖縄地方が平年より6日ほど早く梅雨入りし、今年も長雨の季節が始まり、少し気分が憂鬱になってしまいそうです。

 

 

皆さまは雨の日どのように過ごされますか?

 

私は、いつも雨が降るとすべてのやる気がそこなわれてしまい家に閉じこもってしまうのですが、今年こそは雨を楽しみたい!と思い、雨の日の楽しみ方についていろいろ調べてみました。

 

人それぞれ過ごし方は様々あると思いますが、よくある意見としては「掃除をする」でした。

 

雨の日の掃除は専門家も推奨する過ごし方のひとつで、雨の日に掃除を推奨される主な理由として「湿気によるホコリやこびりついた汚れなどが柔らかくなり掃除しやすくなる」ということです。

 

また掃き掃除をしても、湿度が高いことでホコリが舞いにくくなるため、乾燥した晴れの日の掃除と比べると非常に適しているということです。

 

もしかして、「千と千尋の神隠し」のはじめのシーンで、雨の日の掃除のシーンが描かれているのはそういう理由もあったりするのでしょうか?!?!(あくまでも私個人的な考えです。)

 

話が逸れましたが、特に雨の日に掃除をすると効果が分かりやすいと言われる場所が3つあります。

それが「ベランダ」「窓」「外壁」などの汚れです。

 

晴れの日にはなかなか落ちなかった汚れが雨水を吸い、拭くだけでキレイになることもあります。

そして雨によってもたらされる雨水の利用です。わざわざ水を撒く必要なく擦り洗いできたり、網戸を雨に打たせてキレイにすることもできます。手間がはぶけて、節約にもなるのです。

とはいえ、大雨や強風といったひどい悪天候などの場合は、もちろん掃除を控えるなど注意しなければいけませんが。

 

そしてまた逆に雨の日には避けたい掃除の場所などもあります。

それは「フローリング」や「畳」です。

雨の日の室内は湿気がたまりやすく、水拭きするとなかなか乾かないのです。フローリングがベタベタしたり、畳にカビが生えやすくなる可能性もあり雨の日の掃除には適していません。

 

 

このように雨の日をうまく活用すれば、日頃溜めていたストレスも積もったホコリと一緒にスッキリきれいに!!

今まで憂鬱に過ごしていた雨の日がどこか楽しみになったりもしてきました。

 

今回は雨の日の過ごし方として「掃除」についてお話しましたが、「こんな過ごし方もある!」など皆さまの雨の日の過ごし方を教えていただきたいです。

 

 

 

Hello everyone. This is Staff M.

Yesterday, “Children’s Day” was the beginning of summer with 24 solar terms. Warm air flowed into the sky, and it became cheerful in early summer in various places. In Katsunuma, Yamanashi prefecture, 30.6 degrees Celsius was observed at 14:00, and in Toyooka city, Hyogo prefecture, 30.4 degrees Celsius, which was a midsummer day.

 

The day before yesterday, the first time in Japan this year, the Okinawa region started raining about 6 days earlier than normal, and the long rainy season has begun this year, and it seems that I feel a little depressed.

 

How do you spend your rainy days?

 

Whenever it rains, I lose all my motivation and stay home, but I want to enjoy the rain this year! I thought, I investigated various ways to enjoy a rainy day. I think that each person has different ways of spending time, but the most common opinion was “cleaning”. Cleaning on a rainy day is one of the recommended ways of spending time by experts, and the main reason why cleaning on a rainy day is that “dust and sticky dirt due to humidity will be softened and it will be easier to clean”.

 

Also, even if you sweep it, the high humidity makes it difficult for dust to fly, so it is very suitable compared to cleaning on a dry sunny day. Perhaps that is the reason why the scene of cleaning on a rainy day is drawn in the first scene of “Spirited Away”? !! ?? !! (It’s just my personal idea.)

 

By the way, there are three places where it is said that the effect is easy to understand, especially when cleaning on a rainy day. That is the dirt on the “balconies,” “windows,” and “outer walls.” Dirt that is hard to remove on a sunny day may be cleaned by sucking rainwater and wiping it. And the use of rainwater brought about by rain. You can scrub it without having to sprinkle water on it, or you can hit the screen door in the rain to clean it. It saves time and money. However, in the case of terrible bad weather such as heavy rain or strong wind, of course you should be careful not to clean it.

 

And conversely, there are some cleaning spots that you should avoid on rainy days. It is “flooring” or “tatami”. Moisture tends to accumulate in the room on a rainy day, and it does not dry easily when wiped with water. It is not suitable for cleaning on rainy days because the flooring may be sticky and mold may grow easily on the tatami mats.

 

If you make good use of rainy days like this, you will be able to clean up with the stressful dust that you have accumulated on a daily basis! !! I’ve been looking forward to the rainy days that I had been depressed until now. This time, I talked about “cleaning” as a way to spend a rainy day, but I would like you to tell us how to spend a rainy day, such as “There is such a way to spend!”.

 

 

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桜若葉がみずみずしい季節となりました。

風光舎では、古美術品や骨董品の他にも絵画や宝石、趣味のお品など様々なジャンルのものを買受しております。

お片付けをされていて、こういうものでもいいのかしらと迷われているものでも、どうぞお気軽にご相談下さいませ。

また風光舎は、出張買取も強化しております。

ご近所はもちろん、愛知県内、岐阜県、三重県その他の県へも出張いたします。

まずは、お電話お待ちしております。

 

愛知県名古屋市千種区・骨董 買取

『古美術 風光舎 名古屋店』

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こどもの日(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎名古屋店)

2022.05.05

皆さま、こんにちは。スタッフMです。

 

ゴールデンウィークも折り返しを迎え、昨日から高速道路のUターンラッシュが始まりました。

ニュースだけ見ていると、30km以上の渋滞など見ているだけで息が詰まってしまいそうになります…

運転されている方や、お出かけされている方はお家に着くまでが旅なので最後まで気を抜かず頑張ってください。

 

 

そんなゴールデンウィーク最後の今日は「こどもの日」。

外を歩いていると、大きく立派な鯉のぼりから小っちゃくて可愛らしい鯉のぼりまで、様々な鯉のぼりが色鮮やかに飾られていました。

 

 

そもそも5月5日は「端午の節句(たんごのせっく)」で、男の子の健やかな成長や幸せを祈って、お祝いをする日でした。

それから1948年に、5月5日を「子どもの人格を重んじ、子どもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」お休みの日と決められてから、端午の節句の日が、「こどもの日」にもなったそうです。

 

そのため本来は男の子のための日でしたが、今では子供たちみんなをお祝いすること、そして子供のお祝いだけではなく「お母さんに感謝する」という意味もあるようです。

5月のはじめは”母に感謝する週”でもあるんですね。

 

そもそも「端午の節句」についてですが、ずっと昔から行われている行事のことで、もともとは病気や災い(悪いもの)を避けるための行事だったそうです。

その行事のために使っていた「菖蒲(しょうぶ)」が武士の言葉や道具に似ていることから、だんだんと男の子の行事になっていったという話があります。

また「菖蒲」の持つ強い香りが邪気を祓うとされていたため、邪気払いに「菖蒲」が使用されていたようです。

 

話が逸れてしまいましたが、次に鯉のぼりを飾る由来について紹介したいと思います。

ご存知の方も多いかもしれませんが、「鯉」は流れが速くて強い川でも元気に泳ぎ、滝をものぼってしまう魚です。

そんなたくましい鯉のように、子どもたちが元気に大きくなることをお願いする意味が込められているそうです。

ネットで調べてみると、「鯉のぼりがよく泳ぐエリア」についても書いてあり、今日5月5日は北日本エリアが風が強く吹き鯉のぼりが元気に泳ぐそうです。

 

 

「こどもの日」について調べていると、いろいろな可愛らしい情報がたくさん出てくるので優しい気持ちになりました。

そんな今日は「こどもの日」にちなんで、家に帰ったら柏餅をいただいて、ゴールデンウィーク中の疲れをとるためにも「菖蒲湯」にゆっくり浸かりたいと思います。

 

改めて、日本の節句や記念日っていいですよね。

ずっとこの先も引き継いでいきたいです。

 

Hello everyone. This is Staff M.

Golden Week has also come back, and the U-turn rush on the highway has started yesterday. If you only look at the news, you may feel like you’re suffocating just by looking at traffic jams over 30km … If you are driving or going out, it is a journey until you get home, so please do your best until the end.

 

The last day of Golden Week is “Children’s Day”. As I walked outside, I saw a variety of carp streamers, from large and magnificent carp streamers to small and cute carp streamers.

In the first place, May 5th was “Tango no Sekku”, a day to celebrate the healthy growth and happiness of boys. Then, in 1948, May 5th was decided as a holiday to “respect the personality of the child, to improve the happiness of the child, and to thank the mother”, and then the day of the festival was “Children’s Day”. It seems that it also became.

So it was originally a day for boys, but now it seems to mean celebrating all the children and not only celebrating the children but also “thank you mom”. The beginning of May is also a “week to thank my mother”.

 

In the first place, regarding “Dragon Boat Festival”, it is an event that has been held for a long time, and it seems that it was originally an event to avoid illness and disaster (bad things). There is a story that the “iris” used for the event resembled the words and tools of a samurai, so it gradually became a boy’s event. In addition, it seems that “irises” were used to dispel evil spirits because the strong scent of “irises” was said to extinguish evil spirits.

 

The story is off, but next I would like to introduce the origin of decorating carp streamers. As many of you may know, “carp” is a fish that swims well even in a fast-flowing and strong river and climbs a waterfall. Like such a strong carp, it seems to have the meaning of asking children to grow up energetically. When I looked it up on the internet, it also wrote about “the area where carp streamers often swim”, and it seems that the northern Japan area is windy and the carp streamers swim well today on May 5th.

 

When I was researching “Children’s Day”, I found a lot of cute information, which made me feel kind. Today, after “Children’s Day”, I would like to have Kashiwamochi when I get home and soak in “Ishoyu” slowly to get rid of the tiredness during Golden Week. It would be nice to have Japanese festivals and anniversaries again. I want to continue to take over from now on.

 

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GWでございますね。

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ブログカメラマンYの腕前。(ご容赦ください。)(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎名古屋店)

2022.05.04

みなさまこんにちは。スタッフYでございます。

 

先日久しぶりに、富山県の実家へお墓参りをしてまいりました。この連休中に久しぶりのご実家のお墓参りをされている方も多いのではないでしょうか。久しぶりの故郷は皆さまいかがお過ごしでしょうか。

 

ご実家の両親や親せき友人などに久しぶりに再会をされた方も多いのでは。恐る恐るではありますが、自由に動けることや自由に人と会えることが、こんなに嬉しいことだと私も大変実感致しました。

 

さてさて、連休時分の富山への訪問は本当に久しぶりでして、お天気もまずまず。たった一日ではありましたが、こうなるとせっかく訪れたのだからといろいろ行ってみようかと検索をしておりますと、出てきましたよ。

 

私のお気に入りの方のInstagramに先日行かれた「散居村の風景」が。

散居村、よくカレンダーなどに写真が掲載されていたりしますが、富山県西部に位置する砺波(となみ)平野のあたりには屋敷林に囲まれた約7000戸の農家が50〜100メートルほど離れて点在する散居村が広がっておりまして、それぞれの農家が自分の家の周りの土地を開拓して米作りこうした広大な散居村が生まれたのですが、その屋敷林は家を夏の日差し、冬の厳しさから守るために原生林を残したのが起源だといわれております。

 

特に5月上旬の田植えの時期には、水が張られたきらきらと光る田んぼに夕日が差し込み、黄金色に染まる幻想的な田園風景を見ることができます。夕日に照らされ静謐(せいひつ)でいて茜色に染まった水田風景が眼下に広がるということなのですが、何十年も富山県にお墓参りに訪れているにもかかわらず、「それはどこだ?」とずっと思っておりました。

 

今回思い立ったのが神のお告げなのか笑、時期的にも時間的にも天候もこの三拍子がそろいまして、急に向かうことにいたしました。砺波市内から、国道346号に入り、となみ夢の平スキー場辺りを目指します。

 

思った通りの3ケタ国道でして笑、崖っぷちと対向車を気にしながら、道はあっているのか不安になりなりながら行きますと、ちょうど峠を登り切った辺りが開けて景色が良くなりました。そして、そのあたりから路上の脇にたくさんの停まった車を発見。

 

 

 

 

ちょうど登り切った辺りに展望台がありまして、富山県らしからぬ大渋滞と大混雑が起こっておりました。

時間も差し迫っていることもあり、この一瞬を狙おうとプロアマ問わずカメラマンが早くも好位置を確保しております。私もせめてプロカメラマンの確保した好位置の後ろ辺りから、スマホカメラで狙おうと随分前からはっておりましたが、なにせ太陽が、ここ!という瞬間を待たなければなりません…。そして、待つこと30分。

 

太陽が傾き、眼下の風景が辺り一面照らされる水田の中に、光の道のようなものがきらきらと現れた瞬間に、カメラマンの皆さんが一斉にシャッターを切り始めました。その瞬間、私も「あ、今なのね笑。」と、一緒にシャッターを切り始めました。

 

 

 

 

これがブログカメラマンYの限界ですが、スマホカメラの限界。お写真は、本当にご容赦ください。

光の道のようなもの、お分かりになりましたでしょうか。

 

しばらくシャッターを切っていますと、陽がだんだんと静かになり、散居の家々が深い色に沈んでいきます。そして、鏡のような水田が、静かに夕闇の中へと溶けていくようでした。気が付くと、陽は山へ沈み、辺りは一気に薄暗くなっておりました。

 

ほんとうに瞬間でしたね。

 

写真ではこの時間と景色と移り変わりを見ることはできませんから、これを見るには実際に来れてよかった思う瞬間でありました。その瞬間だけは光が沈む静かな水田の村の風景に大勢の人が静かに見守り、山の中にシャッターの音だけが響き、それは大変印象的でありました。

 

限られたシーズンですのみの景色ですので、機会のございます方は、是非国道346号を越えて訪れてみてくださいませ。きっと、またとない一瞬が待っております。

 

それでは、ごきげんよう。

 

 

 

 

Hello everyone. This is Staff Y.

The other day, after a long absence, I visited my parents’ house in Toyama prefecture. Many people may be visiting the grave of their parents’ home for the first time in a long time during this consecutive holiday. How are you doing in your hometown after a long absence?

Many of you may have reunited with your parents or close friends for the first time in a while. It’s scary, but I also realized that being able to move freely and being able to meet people freely is such a pleasure.

 

By the way, it’s been a long time since I visited Toyama during the holidays, and the weather is fair. It was only one day, but when I was searching for something to do because I visited there, it came out.

 

The “landscape of the dispersed village” that I went to on my favorite Instagram the other day.

Pictures are often posted on dispersed villages and calendars, but around the Tonami Plain located in the western part of Toyama Prefecture, about 7,000 farmhouses surrounded by mansion forests are about 50 to 100 meters away. There are many scattered villages scattered around, and each farmer cultivated the land around his house to grow rice. Such a vast scattered village was born, but the mansion forest made the house sunshine in the summer. It is said that the origin is that the primeval forest was left to protect it from the harshness of winter.

 

Especially during the rice planting season in early May, you can see the fantastic countryside that is dyed in golden color as the setting sun shines into the glittering rice fields filled with water. It is said that the rice fields that are quiet and dyed in madder red under the setting sun spread out below you, but despite having visited Toyama Prefecture for decades, “Where is it?” I’ve always thought.

 

I wondered if it was God’s announcement that I came up with this time, and I decided to go suddenly because of the time, time, and weather. From Tonami City, take National Highway 346 and aim for the Tonami Yumenotaira Ski Resort.

I laughed at the three-digit national highway as I expected, and while worrying about the cliffs and oncoming cars, I was worried whether the road was right, and when I went, the area just climbed the pass opened and the scenery became better. I did. Then, from that point, I found a lot of parked cars on the side of the road.

There was an observatory just up the climb, and there was heavy traffic and congestion that was not typical of Toyama Prefecture.

 

As time is imminent, photographers, regardless of professional or amateur, have already secured a good position to aim for this moment. I had been trying to aim with a smartphone camera from behind the good position secured by a professional cameraman for a long time, but the sun is here! I have to wait for that moment … And wait 30 minutes.

 

At the moment when the sun was tilted and the scenery under my eyes was illuminated all over the paddy field, something like a path of light appeared, and the photographers started to release the shutter all at once. At that moment, I also started to release the shutter together, saying, “Oh, that’s right now.”

 

This is the limit of blog cameraman Y, but the limit of smartphone cameras. Please forgive the photo.

Did you see something like a path of light?

 

After releasing the shutter for a while, the sun gradually becomes quieter and the scattered houses sink into deep colors. And the mirror-like rice fields seemed to melt quietly into the dusk. When I noticed, the sun had set in the mountains and the area was dim at once.

 

It was really a moment.

 

I can’t see this time, the scenery, and the transition in the photos, so it was a good moment to actually come to see this. Only at that moment, many people quietly watched over the scenery of the quiet paddy village where the light set, and only the sound of the shutter echoed in the mountains, which was very impressive.

 

The scenery is limited to a limited season, so if you have the opportunity, please go over National Highway 346 to see it.

 

Well then, good luck.

 

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GWでございますね。

風光舎では、古美術品や骨董品の他にも絵画や宝石、趣味のお品など様々なジャンルのものを買受しております。

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愛知県名古屋市千種区・骨董 買取

『古美術 風光舎 名古屋店』

 

 

日本建築学会賞受賞 長野県立美術館(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取いたします 古美術風光舎名古屋店)

2022.05.03

皆さまこんにちは

スタッフNでございます。

先日、知り合いの作品を拝見しに長野県立美術館に行ってまいりました。

2022年4月19日「日本建築学会賞」(作品部門) を受賞したばかりの建物でございます。

 

 

 

1966年「長野県信濃美術館」として開館し、50数年にわたり、長野県民らに愛されてきました。開館以来50数年を経て、全面改築され、2021年4月「長野県立美術館」と名称も新たに生まれ変わりました。新たな本館の建物は、「ランドスケープ・ミュージアム」のコンセプトのもと、城山公園周辺の美しい景色と調和しつつ、その屋上からは国宝善光寺本堂を望む、みごとな眺めをお楽しみいただけます。

館内は充実した展示スペースのほか、無料で楽しめるゾーンも多く、老若男女、誰もが気軽に訪ねられる、公園のように自由な、まさに「開かれた美術館」でございます。

善光寺を眺めながらのレストランや、山を見ながらの開放的なカフェ、心安らぐ水の庭園など1日中いたくなるような素敵な空間でございました。

 

 

せっかくなので、東山魁夷館にも足を運んでみました。

東山魁夷館は、日本画家・東山魁夷(1908-1999)から作品と関係図書の寄贈を受け、長野県信濃美術館の併設館として、平成2(1990)年4月に開館 しました。その970余点に及ぶコレクションは、《緑響く》《白馬の森》《夕静寂》などの本制作36点のほか、初期の「ヨーロッパ風景」「旅の写生」「中国風景」、連作「北欧風景」「京洛四季」「白い馬の見える風景」「大和春秋」の習作・スケッチ、日展のための準備作、唐招提寺御影堂障壁画の試作など、画家の自然への感興と制作の全体像を一望できる作品群を収蔵しています。

 

 

ここで東山魁夷について調べてみました。

東山 魁夷(ひがしやま かいい)は、日本の画家、版画家、著述家。昭和を代表する日本画家の一人で、風景画の分野では国民的画家といわれております。文化勲章受章者、千葉県市川市名誉市民で、本名は東山 新吉(ひがしやま しんきち)でございます。

船具商を営んでいた父・浩介と妻・くにの次男として神奈川県横浜市の海岸通に生まれます。父の仕事の関係で3歳の時に兵庫県神戸市西出町へ転居し、兵庫県立第二神戸中学校(現:兵庫高校)在学中から画家を志し、東京美術学校(現:東京芸術大学)日本画科へ進学しました。結城素明に師事したそうです。

 

 

 

在学中の1929年第10回帝展に『山国の秋』を初出品し、初入選を果たし、1931年に美術学校を卒業した後、1933年、ドイツのベルリン大学(現:フンボルト大学)に留学致しました。1934年日本とドイツとの間で交換留学制度が始まり、第1回日独交換留学生(日本からのドイツ学術交流会最初の留学生)として2年間の留学費用をドイツ政府から支給されることになり、11月ベルリン大学文学部美術史科に入学しましたが、父危篤の報を受け奨学金支給期間を1年残したまま日本に帰国致しました。

1940年には日本画家の川﨑小虎の娘すみと結婚致しました。同年、東北地方へのスケッチ旅行で足を延ばした種差海岸(青森県八戸市東部)の風景とそこにいる馬に取材した『凪』を紀元二千六百年奉祝美術展に出展。種差を題材にしたと思われる作品は生涯で17点ほどあり、馬も東山作品のモチーフとなりました。

 

 

 

太平洋戦争に前後して、画業でも家庭でも苦難が続き、1941年には母が脳出血で倒れて療養生活に入り(1945年11月死去)、事業に失敗した父は翌1942年に急死致しました。

1945年4月には母と妻を伴って高山(岐阜県)へ疎開するも、7月には召集令状を受けて入営。熊本県で爆弾を抱えての対戦車体当たり攻撃の訓練を受けるうち終戦を迎えました。召集解除後は小虎、母、妻が疎開していた山梨県中巨摩郡落合村(現:南アルプス市)に一旦落ち着きます。

1945年11月に母が死去すると千葉県市川市に移り、市川では、馬主として知られる同地の実業家である中村勝五郎から住居の提供など支援を受けていました。1946年の第1回日展には落選し、直後に結核療養中だった弟が死去します。東山魁夷は当時の境遇を「どん底」と回想しつつ、「これ以上落ちようがない」と思うとかえって気持ちが落ち着き、「少しずつでも這い上がって行く」決意を固めたそうです。

 

 

1947年の第3回日展で、鹿野山(千葉県君津市)からの眺めを描いた『残照』が特選を得て日本国政府に買い上げられたことから世評が高まり、風景を題材とする決意を固め、独自の表現を追求しました。1950年に発表した『道』は、前方へとまっすぐに伸びる道それだけを描く作品で、単純化を極めた画面構成に新機軸が示されています。制作前には種差を再訪し、中村が紹介したと思われるタイヘイ牧場に投宿して写生しました。

1953年、大学の同窓・吉村順三設計による自宅を建て、50年以上に亘りその地で創作活動を続けました。

北欧、ドイツ、オーストリア、中国と海外にも取材し、次々と精力的に発表された作品は、平明ながら深い精神性を備え、幅広い支持を集めました。同年に日展審査員となり、以後、歴任しました。1956年、『光昏』で日本芸術院賞、1960年に東宮御所(『日月四季図』)、1968年に落成した皇居宮殿の障壁画を担当しました。1961年、吹上御所御用命画『万緑新』。1962年、イタリアのローマ日本文化館に『緑岡』。1965年、日本芸術院会員、日展に『白夜光』。1968年、皇居新宮殿壁画『朝明けの潮』、文化財保護審議会専門委員。1969年、毎日芸術大賞、文化勲章、文化功労者。1970年、東京国立博物館評議員。1973年、自然環境保全審議会委員。1974年、日展理事長に就き、翌1975年に辞任しました。1970年代には約10年の歳月をかけて制作した奈良・唐招提寺御影堂障壁画『黄山暁雲』は畢生の大作となりました。

千変万化する山の姿を墨の濃淡を使い分け、鮮やかに描き出しました。東山は黄山を「充実した無の世界」と表現しました。混沌とした自然の移ろいにあらゆるものを生み出すエネルギーを感じ取りました。この計画を手がけたことにより国内での知名度と人気はさらに高まり、国民的日本画家とも呼ばれるようになります。画集のみならず文章家でもあり画文集など、著作は数多く、川端康成とも親交が深かったそうです。

ドイツ留学中に知ったドイツロマン主義の画家、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒを日本に初めて紹介したのも彼だそうです。また、瀬戸大橋のライトグレー色を提案したことでも知られております。

1975年、フランスのパリ吉井画廊で唐招提寺障壁画習作展、ドイツのケルン日本文化会館で同習作展。1976年、パリ吉井画廊で京洛四季習作展。1977年、パリ唐招提寺展に障壁画を出陳致しました。1978年、中華人民共和国の北京と瀋陽で東山魁夷展、パリで『コンコルド広場の椅子』原画展。1979年、ドイツのベルリンとライプチヒで東山魁夷展。1980年、第二期唐招提寺障壁画制作。1981年、唐招提寺鑑真和上像厨子絵『瑞光』を制作・奉納。東京国立近代美術館で東山魁夷展。1982年、国立国際美術館で東山魁夷展。1983年、ドイツのミュンヘン、デュッセルドルフ、ブレーメンで東山魁夷展。1984年、西ドイツ最高栄誉であるプールルメリット学術芸術院会員に選ばれ、ボンで会員章を大統領臨席の下で授与しました。1986年、日中文化交流協会代表団団長として訪中。1988年、京都市美術館、名古屋市美術館、兵庫県立美術館で東山魁夷展。1990年、東京の日本橋髙島屋でベルリンハンブルクウィーン巡回展帰国記念東山魁夷展。1995年、東京、京都、長野で米寿記念東山魁夷展。1996年、長野県内の高等学校106校に東山魁夷画集図録を贈呈。1997年、神戸、福岡で、米寿を迎えて-東山魁夷「私の森」展。

 

 

1999年、老衰のため90歳で死去、従三位、勲一等瑞宝章。生前、日展への出品作など代表作の多くを東京国立近代美術館と長野県に寄贈致しました。その他、少年時代を過ごした神戸市にある兵庫県立美術館、祖父の出身地である香川県坂出市の「香川県立東山魁夷せとうち美術館」にも、版画を中心とする作品が寄贈されています。戦後の復員直後から死去するまで暮らしていた千葉県市川市には、自宅に隣接して「市川市東山魁夷記念館」が開館しました。また、美術学校時代のキャンプ旅行の途中、激しい夕立に遇った際に温かいもてなしを受けたことに感謝して後に寄贈された約500点の版画を収蔵する「東山魁夷 心の旅路館」が、岐阜県中津川市(旧長野県木曽郡山口村)にあるそうです。

2000年、福岡、東京、名古屋でパリ展帰国記念東山魁夷展。信濃美術館で東山魁夷館10周年記念展東山魁夷の世界。2004年、横浜美術館で東山魁夷展ひとすじの道。2005年、坂出市沙弥島で香川県立東山魁夷せとうち美術館開館記念展。市川市で市川市東山魁夷記念館開館記念特別展。2008年、東京、長野で生誕100年東山魁夷展。2018年、東京、京都で生誕110年東山魁夷展が開催されました。

写真は撮れませんでしたが、色の中でも青が好きなNは、東山魁夷の世界に一気に魅了されてしまいました。

「東山魁夷 心の旅路館」岐阜県中津川市もとても気になります。

いつかこのブログで紹介するかもしれません。

ではでは

Hello everyone

This is Staff N.

The other day, I went to the Nagano Prefectural Art Museum to see the works of my acquaintances.

This building has just received the “AIJ Prize” (work category) on April 19, 2022.

Opened as “Nagano Prefectural Shinano Museum” in 1966, it has been loved by the people of Nagano for more than 50 years. Over 50 years after its opening, it was completely renovated and reborn in April 2021 as the “Nagano Prefectural Art Museum”. Under the concept of “Landscape Museum”, the new main building is in harmony with the beautiful scenery around Shiroyama Park, and you can enjoy a magnificent view of the national treasure Zenkoji main hall from its rooftop.

In addition to the extensive exhibition space, there are many zones where you can enjoy it for free, and it is a truly “open museum” that is free like a park and can be easily visited by anyone, regardless of age or gender.

It was a wonderful space that made you want to stay all day long, such as a restaurant overlooking Zenkoji Temple, an open cafe overlooking the mountains, and a relaxing water garden.

Since it’s a big deal, I also went to Higashiyama Kaiikan.

Kaii Higashiyama was opened in April 1990 as an annex to the Shinano Museum of Art in Nagano Prefecture, with works and related books donated by the Japanese painter Kaii Higashiyama (1908-1999). The 970-plus collection includes 36 works such as “Green Sound”, “Hakuba no Mori”, and “Yu Silence”, as well as the early “European Landscape”, “Travel Sketch”, “Chinese Landscape”, and the series “Northern Europe”. The painter’s impression of nature and the whole production, such as the study and sketches of “Landscape”, “Kyoraku Shiki”, “Landscape where white horses can be seen”, and “Yamato Haruaki”, the preparatory work for the daily exhibition, and the trial production of the Toshodaiji Mikagedo barrier painting. It has a collection of works with a panoramic view of the statue.

I checked about Kaii Higashiyama here.

Kaii Higashiyama is a Japanese painter, print painter, and writer. He is one of the representative Japanese painters of the Showa era and is said to be a national painter in the field of landscape painting. He is a recipient of the Order of Culture, an honorary citizen of Ichikawa City, Chiba Prefecture, and his real name is Shinkichi Higashiyama.

Born in Kaigandori, Yokohama City, Kanagawa Prefecture, as the second son of his father, Kosuke, and his wife, Kuni, who ran a ship equipment dealer. Due to my father’s work, I moved to Nishidemachi, Kobe City, Hyogo Prefecture when I was 3 years old. I went to the Japanese art department. He studied under Yuuki Somei.

“Autumn of the Mountains” was exhibited for the first time at the 10th Imperial Exhibition in 1929 while attending school, and after graduating from art school in 1931, in 1933, at the University of Berlin (currently Humboldt University) in Germany. I studied abroad. In 1934, the exchange study abroad system started between Japan and Germany, and the German government will pay the study abroad expenses for two years as the first Japanese-German exchange student (the first international student of the German Academic Exchange Association from Japan). In November, I entered the Department of Art History, Faculty of Letters, University of Berlin, but returned to Japan with one year of scholarship payment due to my father’s seriousness.

In 1940 he married the daughter of Japanese painter Kawasaki Shoko. In the same year, he exhibited “Nagi”, which covered the scenery of Tanesashikaigan (eastern Hachinohe City, Aomori Prefecture) and the horses there on a sketch trip to the Tohoku region, at the 2600 AD Celebration Art Exhibition. There are about 17 works that seem to be based on Tanesashi in his life, and horses became the motif of Higashiyama’s works.

Before and after the Pacific War, hardships continued in both painting and home, and in 1941 his mother collapsed due to cerebral hemorrhage and entered a medical treatment life (died in November 1945), and his father who failed in business died suddenly in 1942. I did.

In April 1945, he evacuated to Takayama (Gifu Prefecture) with his mother and wife, but in July he entered the company after receiving a convocation letter. He came to an end while he was trained in Kumamoto prefecture to attack against a car with a bomb. After the convocation was lifted, Kotora, his mother, and his wife settled down in Ochiai Village, Nakakoma District, Yamanashi Prefecture (currently Minami Alps City).

When my mother died in November 1945, I moved to Ichikawa City, Chiba Prefecture, where Ichikawa received support such as housing from Katsugoro Nakamura, a businessman in the same area known as a horse owner. His younger brother, who was undergoing treatment for tuberculosis, died shortly after being rejected for the 1946 Japan Fine Arts Exhibition. Kaii Higashiyama recalled his circumstances at that time as “deep bottom”, but when he thought “I couldn’t fall anymore”, he felt calm and decided to “crawl up little by little”.

At the 3rd Japan Fine Arts Exhibition in 1947, “Afterglow” depicting the view from Mt. Kanou (Kimitsu City, Chiba Prefecture) was selected and purchased by the Government of Japan. I made up my mind and pursued my own expression. “Michi”, released in 1950, is a work that depicts only the road that extends straight forward, and shows a new innovation in the screen composition that is extremely simplified. Before the production, he revisited Tanesashi and stayed at Taihei Bokujo, which Nakamura probably introduced, to make a sketch.

In 1953, he built his home designed by Junzo Yoshimura, a university alumnus, and continued his creative activities there for over 50 years.

He has also interviewed Scandinavia, Germany, Austria, China and abroad, and his works, which have been energetically released one after another, have a clear yet deep spirituality and have gained widespread support. In the same year, he became a judge for Japan Fine Arts Exhibition, and has served since then. In 1956, he was in charge of the Japan Art Academy Prize for “Koukai”, the Tomiya Imperial Residence (“Sun Moon Four Seasons”) in 1960, and the barrier painting of the Imperial Palace, which was completed in 1968. In 1961, he was the Fukiage Omiya palace painting “Manryokushin”. In 1962, “Midorioka” was held at the Japanese Cultural Center in Rome, Italy. In 1965, a member of the Japan Art Academy, “White Night Light” at the Japan Fine Arts Exhibition. In 1968, he was a member of the Cultural Properties Protection Council, a mural painting of the Imperial Palace New Palace “The Tide of the Dawn”. 1969, Mainichi Art Award, Order of Culture, Person of Cultural Merit. 1970, Tokyo National Museum Councilor. In 1973, he was a member of the Natural Environment Conservation Council. In 1974, he became chairman of the Japan Fine Arts Exhibition and resigned in 1975. In the 1970s, the barrier painting “Huangshan Xiaoyun” at Toshodaiji Temple in Nara, which took about 10 years, became his masterpiece.

He vividly portrayed the ever-changing appearance of the mountain by using different shades of ink. Huangshan described Huangshan as a “fulfilling world of nothingness.” He felt the energy to create everything in the chaotic transition of nature. By working on this plan, his name and popularity in Japan became even higher, and he became known as a national Japanese painter. He is not only an art book but also a writer, and he has written many books such as art books, and he has a close relationship with Yasunari Kawabata.

He was the first to introduce Caspar David Friedrich, a German Romantic painter he learned while studying in Germany, to Japan. He is also known for proposing the light gray color of Setoo Bridge.

In 1975, he exhibited the Toshodaiji Barrier Painting Exhibition at the Yoshii Gallery in Paris, France, and the same exhibition at the Japanese Culture Institute in Cologne, Germany. In 1976, the Kyoto Raku Shiki Study Exhibition at the Yoshii Gallery in Paris. In 1977, he exhibited a barrier painting at the Toshodaiji Temple exhibition in Paris. In 1978, Kaii Higashiyama exhibition in Beijing and Shenyang, People’s Republic of China, and “Chairs in Concorde Square” original painting exhibition in Paris. In 1979, Kaii Higashiyama exhibition in Berlin and Leipzig, Germany. In 1980, produced the second Toshodaiji barrier painting. In 1981, he produced and dedicated the painting “Ruikou” by Toshodaiji Jianzhen. Kaii Higashiyama exhibition at the National Museum of Modern Art, Tokyo. In 1982, Kaii Higashiyama exhibition at the National Museum of Art, Osaka. In 1983, Kaii Higashiyama exhibition in Munich, Dusseldorf, Bremen, Germany. In 1984, he was elected a member of the Pour le Mérite Academy of Arts and Sciences, the highest honor in West Germany, and was awarded the membership badge in Bonn in the presence of the President. In 1986, he visited China as the delegation leader of the Japan-China Cultural Exchange Association. In 1988, Kaii Higashiyama exhibition at Kyoto City Museum of Art, Nagoya City Museum of Art, and Hyogo Prefectural Museum of Art. In 1990, at the Nihonbashi Takashimaya in Tokyo, the Berlin-Hamburg Vienna Tour Exhibition Commemorating the Return to Japan, Kaii Higashiyama Exhibition. In 1995, Kaii Higashiyama exhibition to commemorate the US life in Tokyo, Kyoto and Nagano. In 1996, presented a catalog of Kaii Higashiyama art books to 106 high schools in Nagano prefecture. In 1997, in Kobe and Fukuoka, celebrating Yoneju-Kaii Higashiyama “My Forest” exhibition.

In 1999, he died at the age of 90 due to senility. During his lifetime, he donated many of his masterpieces, including works exhibited at the Japan Fine Arts Exhibition, to the National Museum of Modern Art, Tokyo and Nagano Prefecture. Other works centered on his prints are also in the Hyogo Prefectural Museum of Art in Kobe, where he spent his childhood, and the “Kagawa Prefectural Higashiyama Kaiso Setouchi Museum” in Sakaide City, Kagawa Prefecture, where his grandfather was born. Has been donated. In Ichikawa City, Chiba Prefecture, where he lived from immediately after his demobilization after the war until his death, the “Ichikawa City Higashiyama Kaii Memorial Hall” was opened next to his home. Also, during the camping trip during the art school days, the “Higashiyama Kisoshin no Tabikan”, which houses about 500 prints donated later in gratitude for receiving warm hospitality during the intense evening rain. Is located in Nakatsugawa City, Gifu Prefecture (formerly Yamaguchi Village, Kiso District, Nagano Prefecture).

2000, Kaii Higashiyama exhibition commemorating the return to Paris exhibition in Fukuoka, Tokyo and Nagoya. Higashiyama Kaiikan 10th Anniversary Exhibition at Shinano Museum of Art The world of Higashiyama Kaii. In 2004, Kaii Higashiyama Exhibition at the Yokohama Museum of Art. In 2005, an exhibition commemorating the opening of the Kagawa Prefectural Higashiyama Kaiso Setouchi Museum in Shamijima, Sakaide City. A special exhibition commemorating the opening of the Kaii Higashiyama Memorial Hall in Ichikawa City. In 2008, Kaii Higashiyama’s 100th birthday exhibition in Nagano, Tokyo. In 2018, the 110th anniversary of his birth, Kaii Higashiyama Exhibition was held in Tokyo and Kyoto.

I couldn’t take a picture, but N, who likes blue among the colors, was fascinated by the world of Kaii Higashiyama at once.

“Higashiyama Kaisoshin no Tabikan” Nakatsugawa City, Gifu Prefecture is also very worrisome.

I may introduce it in this blog someday.

See you soon

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GWでございますね。

風光舎では、古美術品や骨董品の他にも絵画や宝石、趣味のお品など様々なジャンルのものを買受しております。

お片付けをされていて、こういうものでもいいのかしらと迷われているものでも、どうぞお気軽にご相談下さいませ。

また風光舎は、出張買取も強化しております。

ご近所はもちろん、愛知県内、岐阜県、三重県その他の県へも出張いたします。

まずは、お電話お待ちしております。

 

愛知県名古屋市千種区・骨董 買取

『古美術 風光舎 名古屋店』

TEL 052(734)8444

10:00-17:00 OPEN

岐阜県大垣市のお客様より買受いたしました(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取いたします 古美術風光舎名古屋店)

2022.05.03

 

 

岐阜県大垣市のお客様より、刀外装を買受いたしました。

この度は大切な御品をお譲りくださいまして、誠にありがとうございました。

 

またご縁がございましたら、古美術風光舎名古屋店をよろしくお願い申し上げます。

 

 

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新年度を迎えました。

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鏑木清方展のパネルが大変美しい件~東京国立近代美術館(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎名古屋店)

2022.05.01

みなさまこんにちは、スタッフYでございます。

 

このところの時候の良さに風光舎スタッフもそれぞれ様々なところにお出かけしており、私も少しばかり浮足立っております。ゴールデンウィークの真っ最中、皆さまはいかがお過ごしでしょうか。

本日は連休の中休みと言ったところでしょうか、ここ名古屋は朝からしっとりと雨が降っておりまして少し肌寒いくらいでございます。体調など崩しませんようご自愛くださいませ。

 

ところで私も連休の少し前ですが、都内に少し足を伸ばしお休みを堪能してまいりました。今回の上京はここに照準を合わせたのですが、

 

「没後50年 鏑木清方展」

 

 

 

何を隠そうその昔、こちらの美術館の極近にてしばらくお勤めしておりました。にもかかわらず、当時の私はそんな気持ちの余裕もなく、あまり訪れたことが無かったことが今になって悔やまれる国立近代美術館にて開催されております。会期は3月18日~5月8日。連休は殺到するであろうと予測いたしまて少し前の訪問であります。

 

 

 

前置きはさておき「鏑木清方展」行ってまいりました。

 

いきなりですが、パネルが目の前に。その陶器のような女性の顔を佇まいの美しさにいきなり引き込まれます。こちらの作品は「築地明石町」という有名な作品でして、清方が49歳のときに描き、第8回帝国美術院展覧会(1927年)にて帝国美術院賞を受賞をいたしました。こちらの作品の話は後ほどすると致しまして。

 

東京神田に生まれた鏑木清方(かぶらききよかた 1878-1972)は、浮世絵系の水野年方(1866-1908)に入門して、挿絵画家として画業をスタートさせます。日本画では文展、帝展を主たる舞台として、美人画家として上村松園(1875-1949)と並び称されておりますが、私の印象ですと鏑木清方作品は「初雪」などの美人画もそうですが「雛市」や「鰯」のような幼い子供や庶民の日々の作品などもあり、どの作品にも穏やかなセリフをつけたくなるような日常の切り取りのような風景が描かれてた作品の印象であります。作品のすべてがそこで生活して生きていた人物の息遣いが感じられるといいましょうか。

 

有名な「鰯」などは、当時下町に生きた庶民の生活を細かく捉えてそれが面白くて、その一つ一つをしばらく確認しておりました。まさに日常の切り抜きでして、それは貧しくも懸命に、でもそれは美しいととらえてる彼の目線にも惹きつけてやまない魅力があるのではと思えてなりませんでした。

 

そんな彼は「美人画家」と呼ばれることを嫌っていたとのこと。彼の代表的な作品が美人画であることは間違いありませんが、その作品は日々のさりげない場面の中にいた存在が美しい女性であったため、「讃春」などそんな風景にいた女性を色鮮やかにそして繊細に描いたまでのものだと感じとれてなりません。ただ、彼の描く女性はその佇まい、着物の動き、色柄、風や雪になびく髪の一本一本どれもが本当に繊細に美しく描かれており、そりゃ「美人画家」と呼ばれるでしょうよ…と思えてきます。だって美しいのですから。

 

 

 

ですがその美しさを感じながらも、日々を美しく生きた女性の切り取られた日常を見ているような感覚もあり、それがなんとも不思議な感覚であります。私のような素人にその不思議な感覚を伝えきれる鏑木清方作品に、どこまでも惹き込まれた時間でありました。

 

 

そして、最初に登場致しました「築地明石町」。今回パネルにて登場いたしましたが、こちらは機会ののございます方は、実物を是非見てほしい作品であります。

私の印象を先に述べますと、まずその女性の振り向いた佇まいと表情がそのシンプルな筆使いにしっかりと描かれており、ことにそのアウトラインに美しくも女性の意志がしっかりと伝わります。また近くで拝見いたしますと、水色の江戸小紋の柄や女性の顔に少し乱れた髪が一本一本うっすらと描かれてあり、大胆さと繊細さの表現にどちらも引き込まれ後から後からじわじわと伝わってくるではないか(もっと適切な表現はないのか…)。

 

こちらの作品は昭和2年の作品ですが、清方の思い出の地である明石町の明治30年代という設定のようでして、当時はもう失われていた光景が、描写は控えめながら描かれております。それがそこにたたずむ女性の物語へと私たちを誘いうのですから背景に描かれているのとないのは大違い。女性の姿かたちだけでは成立しないのが清方芸術なのでしょうか。

 

 

 

 

そしてその女性。過去の景色のなかにいる女性は、今はなき明治の理想郷を振り返る清方や鑑賞者に代わって、振り返るポーズをしているかのようですので、彼女のポーズにこうした二重の意味があることで、「築地明石町」はきわめて強いイメージを表しているようですね。

 

ですが、今回どうしても行きたかった理由。実はこの作品長年にわたり消息不明だった幻の作品であります。昭和2年の作品ですが運良く戦禍を免れ、清方の手によってしばしば展覧会に出品されていたようですが、1972年に清方が逝去した後、翌年から3回にわたってサントリー美術館で開催された「回想の清方」シリーズの3回目(1975年)に出品されたのを最後に「築地明石」」は行方不明となっておりました。それ以来44年もの間見つかることはなかったそうです。

 

しかし2019年事態は急変。捜索を続けていた同館が、個人所蔵者から銀座の画商を通じてなんと購入したとのこと。同じく所在不明だった「新富町」「浜町河岸」も同じ個人が所蔵していたようでして、同館が所属する独立行政法人国立美術館が3作品あわせて5億4000万円購入したというのですから、もう消息不明になる心配はなさそうですね笑。そんな作品自体のストーリを聞きつけますと、私の中の見に行きたい熱が益々上がっておりまして、晴れて念願叶い今回の訪館。気づくと2時間も近代美術館に滞在しておりました。

 

 

 

 

2時間とまあまあの長丁場にて疲れはしましたが心地よく美術館を後にして九段下の駅へ。そこには目の前に皇居の広がる緑とあの頃の懐かしい風景が広がり、念願の作品に浸れた満足感や当時の苦々しい思い出などがよみがえったりして収支の付かない気持ちが錯綜してはおりました。ですが、当時より少しは作品を堪能できるような気持ちの余裕ができたのかなと苦笑いしながら地下鉄に吸い込まれていきました。そんな懐かしさも合間った「鏑木清方展」でありました。

 

それでは、ごきげんよう。

 

 

Hello everyone, this is Staff Y.

 

The Fukosha staff have gone out to various places due to the good weather these days, and I am a little more excited. How are you doing during Golden Week?

Perhaps it was a holiday during the Golden Week holidays today, but it’s been raining moistly from the morning here in Nagoya, and it’s a little chilly. Please love yourself so that you do not get sick.

 

By the way, shortly before the Golden Week holidays, I went to Tokyo a little and enjoyed the holidays. I aimed at this time in Tokyo, but

 

“50 years after his death Kiyokata Kaburagi Exhibition”

 

What should I hide? A long time ago, I worked for a while near this museum. Nevertheless, at that time, I couldn’t afford to feel that way, and it is now being held at the National Museum of Modern Art, where I regret that I hadn’t visited much. The session is from March 18th to May 8th. It was a short time ago that I predicted that the Golden Week holidays would be flooded.

 

Aside from the introduction, I went to the “Kiyokata Kaburagi Exhibition”.

 

Suddenly, the panel is in front of me. The pottery-like woman’s face is suddenly drawn into the beauty of her appearance. This work is a famous work called “Tsukiji Akashicho”, which was drawn when Kiyokata was 49 years old and won the Imperial Art Academy Prize at the 8th Imperial Art Academy Exhibition (1927). rice field. I will talk about this work later.

 

Kiyokata Kaburagi (1878-1972), who was born in Kanda, Tokyo, started his painting business as an illustrator by entering Toshikata Mizuno (1866-1908), an ukiyo-e artist. In Japanese painting, the main stage is the Bun and Tei exhibitions, and it is named alongside Uemura Shoen (1875-1949) as a beautiful painter, but my impression is that Kiyokata Kaburagi’s works also include beautiful paintings such as “Hatsuyuki”. That’s right, there are also daily works of young children and ordinary people such as “Hinaichi” and “Kiyokata”, and every work has a landscape like a daily cut that makes you want to add gentle lines. It is an impression of the work. Let’s say that all of the works can feel the breath of the person who lived and lived there.

 

The famous “鰯” etc. captured the lives of the common people who lived in the downtown area at that time in detail, and it was interesting, and I checked each one for a while. It’s just a daily clipping, and it’s poor but hard, but I couldn’t help but think that it has an irresistible appeal to his perspective, which he sees as beautiful.

 

He hated being called a “beautiful painter”. There is no doubt that his representative work is a bijin-ga, but since the work was a beautiful woman who was in the casual scenes of everyday life, the woman who was in such a landscape such as “Sanharu” is colorful. I can’t feel it until I drew it delicately. However, the woman he draws is called a “beautiful painter” because the appearance, the movement of the kimono, the color pattern, and each and every one of her hair fluttering in the wind and snow are drawn really delicately and beautifully. Let’s … I think. Because it’s beautiful.

 

However, while feeling the beauty, there is also the feeling of seeing the cut-out daily life of a woman who lived beautifully every day, which is a strange feeling. It was a time that I was always drawn to Kiyokata Kaburagi’s work, which can convey that mysterious feeling to an amateur like me.

 

And “Tsukiji Akashicho” that first appeared. This is a work that appeared on the panel this time, but if you have the opportunity, please take a look at the real thing.

First of all, my impression is that the woman’s appearance and her facial expression are clearly depicted in the simple brushstrokes, and in particular, the outline clearly conveys the woman’s will. Also, if you look closely, you can see that the pattern of the light blue Edo Komon and the slightly disordered hair on the woman’s face are drawn slightly one by one, and both are drawn into the expression of boldness and delicacy afterwards. Isn’t it transmitted slowly (Isn’t there a more appropriate expression …)?

 

This work is a work of 1945, but it seems that it was set in the 30’s of the Meiji era in Akashi-cho, the place of memories of Kiyokata, and the scene that was already lost at that time is drawn with a modest depiction. We are doing it. It is a big difference between what is drawn in the background and not because it invites us to the story of the woman who stands there. Is it Kiyokata art that cannot be established only by the appearance of a woman?

 

And that woman. The woman in the scenery of the past seems to be posing to look back on behalf of Kiyokata and the viewer who look back on the utopia of the now-defunct Meiji, so her pose has such a double meaning. So, “Tsukiji Akashicho” seems to represent an extremely strong image.

 

However, the reason why I really wanted to go this time. Actually, this work is a phantom work that has been unknown for many years. Although it was a work of 1945, it seems that it was fortunately escaped from the war and was often exhibited in exhibitions by Kiyokata, but after Kiyokata passed away in 1972, it was held at the Suntory Museum of Art three times from the following year. “Tsukiji Akashicho” was missing at the end of the exhibition in the third (1975) of the “Kiyokata Kaburagi” series. It hasn’t been found for 44 years since then.

 

However, the situation in 2019 changed suddenly. The museum, which had been searching, bought it from a private owner through an art dealer in Ginza. It seems that the same individual owned “Shintomicho” and “Hamacho Kawagishi”, which were also unknown, and the National Museum of Art, to which the museum belongs, purchased a total of 540 million yen for the three works. So, I don’t think I’m worried about my whereabouts anymore. When I heard the story of such a work itself, the heat I wanted to go to see was getting higher and higher, and it was sunny and my wish came true. When I noticed, I stayed at the Museum of Modern Art for two hours.

 

I was tired from the long street for 2 hours, but I left the museum comfortably and headed to Kudanshita station. The greenery of the Imperial Palace and the nostalgic scenery of those days spread out in front of me, and the satisfaction of being immersed in the work I had longed for and the bitter memories of that time were revived, and the feelings of being out of balance were confused. I went. However, I was sucked into the subway with a bitter smile, wondering if I could afford to enjoy the work a little more than at that time. It was “Kiyokata Kaburagi” with such nostalgia.

 

Well then, good luck.

 

 

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