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リトグラフの買取について

2024.11.12

リトグラフ(石版画)は、版画の技法の1つです。リトグラフの語源は、ギリシャ語で石という意味の「lithos」といわれます。リトグラフは、石(石灰石)を使用し化学反応を利用した技法ですが、現在では、石の他にアルミ板が使われることも増えています。

 

リトグラフ(lithograph)は、1796年ヨーロッパでアロイス・ゼネフェルダー(Alois Senafelder)によって偶然発見された技法です。19世紀頃には、リトグラフ技法はヨーロッパへと広まり、その後、リトグラフは世界中へと広がっていき、数多くの作家がリトグラフ技法を用いた作品を世に生み出しました。

 

有名なリトグラフの作品には、エディションナンバー(作家が制作した版画の枚数を示すものです。通常20/100のように表記され、これは制作された100枚のうち20番目のものであることを意味します。)、本人のサイン(サインは作家が作品を完成)などが概ね記載されております。

漆工芸品の買取について

2024.10.17

漆芸は古来より日本や中国、朝鮮半島や東南アジアなどで発達してきた東洋独自の分野です。

 

日本における漆芸は「ウルシノキ」という木の幹にキズをつけ、滲み出した樹液を採取し、目的別に調整します。これを接着剤や、塗料として使用しますが、漆が固まる力を利用して形そのものを造ることもできます。
また金属粉や貝など、その他の素材を漆と組み合わせ、装飾する技法も古来より発展してきました。特に日本の漆芸は高度な技法が現代に伝えられています。

漆芸はいろいろな素材と道具と様々な技法によって出来上がりますが、ここでは素地、塗り、加飾(装飾)の順に説明しますと、

素地(きじ、そじ)
漆塗りをするためには素材を加工し器物(形)にする必要があります。その器物(形)を素地といいますが、その素材に木材を使った指物・挽物・刳物・曲輪・巻き上げなどの木胎があります。
また麻布等を漆で固め積層した乾漆という素地や、竹を編んだ籃胎、紙の紙胎、皮革の漆皮、金属の金胎、陶磁器の陶胎などもあります。

 

髹漆(きゅうしつ)

漆を箆(へら)や刷毛(はけ)で素地に塗ることを髹漆(きゅうしつ)といいます。
素地を堅牢なものにするための下地を施した後、様々な上塗り(仕上げ)をします。
塗ったままの塗り立てや、磨き上げた光沢の美しい呂色仕上げのもの、表面が潤んで見える潤み塗り、赤い色の朱塗り、顔料の製造技術が発展した近代以降はカラフルな色漆で仕上げたものも見られるようになりました。また木目などの素地肌の美しさを見せる拭き漆(ふきうるし)や溜塗り(ためぬり)などもあります。

 

加飾(装飾)

漆の塗り肌はそれだけでも深く柔らかな美しさと魅力的な造形があります。 さらに漆の持つ特性を活かし、豊かな表現力を持った加飾技法が日本には沢 山あるので、ここでは基本的な技法を紹介しましょう。

 

蒔絵(まきえ)

研出蒔絵(とぎだしまきえ) 塗面に漆で文様を描き、その上に金・銀粉等を蒔き付け、その粉が埋まるま で漆を塗ってから炭で文様を研ぎ出します。
平蒔絵(ひらまきえ) 塗面に漆で文様を描き、その上に金・銀粉等を蒔き付け、漆で固めて磨き上 げます。
高蒔絵(たかまきえ) 文様の部分をレリーフ状に盛り上げ、さらに金・銀粉等を蒔き固めて磨いて 仕上げます。

 

螺鈿(らでん)

貝の真珠層の部分を平板状にして、文様の形に切り取って塗面に貼り込む技法です。

 

平文(ひょうもん)

金や銀などの金属の薄板を文様の形に切り取って、塗面に貼り込む技法です。

 

卵殻(らんかく)

主にウズラの卵殻を細かく割って、文様の上に貼る技法です。

 

沈金(ちんきん)

漆の塗面に沈金刀というノミで文様を刻み、漆を擦り込んで金粉や金箔などを入れる技法です。

 

蒟醬(きんま)

漆の塗面にキンマ独特の刃物で文様を彫り、漆と色粉を練った色漆で彫った文様に充填し、砥ぎつけ磨く技法です。

 

彫漆(ちょうしつ)

様々な色漆を何層にも塗り重ねた塗面を彫刻刀で文様をレリーフ状に彫り
下げて、色の異なった層を見せる技法です。

 

漆芸はその他にも沢山の技法があります。

彫金の買取について

2024.09.12

彫金の技術は金属工芸のなかでも長い歴史があります。

古墳時代後期(6世紀前半から半ば過ぎ頃)に渡来工人によって伝えられたとされ、冠帽(かんぼう)や指輪、簪(かんざし)などの装身具、馬具類など当時の遺物を見ると、毛彫(けぼり)や透(す)かし彫りなどの基本的技術が定着していたことがわかりますし、法隆寺や正倉院でも彫金の宝物を拝見することがありますが、当時のものと言いましてもその意匠と技術のレベルには驚きますよね。

 

また、平安時代(794~1185年/1192年頃)後期に武士階級が台頭するようになると、彫金は刀剣・甲冑(かっちゅう)・金具に装飾として施されることが多くなり、室町時代(1336~1573年)には後藤祐乗(ゆうじょう)を祖とする後藤家が将軍家お抱えとなり、その格式を重んじる作風が“家彫(いえぼり)”として後世に伝えられ、江戸時代(1603~1867年)になり太平の世が続くと、刀剣は実用性を重んじるものから意匠の面白さを競うものへと変化し、精密な小型の彫金の技術が完成していきます。

 

元禄期(1688~1704年)以降、横谷宗珉(よこやそうみん)が墨絵の筆勢そのままに鏨(たがね)で表現した片切彫(かたぎりぼり)の技法を生み出しますが、宗珉自身は武家よりも町民たちとの交わりを好み腕をふるったことから、京都風の”家彫”に対して“町彫”と呼ばれ、その自由な発想と斬新なデザインは、刀剣よりもむしろ煙管(きせる)や根付(ねつけ)などの生活用品に広がりを見せるようになり、新しい流行を生み出し、その用途は変化していきました。彫金の技術は絶えることなく伝承され、主に器物、置物、装身具、神仏具などに施され、彫金は素材本来の持ち味を引き立て、格調と重みのある製品を生み出し、明治期にはいりますとその意匠と技術は超絶技巧の域に入っていきます。

 

彫金において、人間国宝の認定を受けているのは、海野清、内藤四郎、鹿島一谷、金森映井智、増田三男、鴨下春明、中川衛、桂盛仁、山本晃の9人。また、帝室技芸員としては、加納夏雄、高村光雲、石川光明、海野勝珉、香川勝広など。

 

織部焼の買取について

2024.08.31

織部(
)
は、今から四百年程前の桃山時代に、茶の湯と共に花開いた美濃の窯(岐阜県東濃地方)で焼かれた陶器のうちのひとつでして、一般的には銅緑釉(どうりょくゆう)(銅により緑色に発色する釉薬)を施した陶器をさすことが多いようですが、黒釉を掛けた織部黒や銅緑釉を掛けていない絵織部などもあります。型にはまらず斬新で大胆にデフォルメされた造形は、その時その時代においての一般概念を打ち破る革新的なところが特徴であります。

 

織部と言う名称は武将で利休の高弟子であり茶人であった古田織部)によるものですが、一説には古田織部が今で言うプロヂューサー兼デザイナーであり、織部好みの陶器を焼かせていたとも言われておりますが、真相不明。

 

織部には数々の種類があります。

 

1.黒織部

鉄釉を掛け分けて、掛け残した余白の部分に鉄絵を施し、その上に長石釉を掛けたもの。瀬戸黒と同じ焼成方法で、焼成中の窯から引き出すことで急冷させて黒色に発色させ、黒織部と織部黒といえば沓茶碗というほど沓形の茶碗が多く見られる。文様も織部の特徴ともいえる幾何学文様が自由奔放に描かれた秀作が多く、陶工にとっても腕の見せ所だったのか、面白みのある茶碗が多い。ほとんどが茶碗だが、茶入れ、香合などにも良いものが見られる。

 

2. 織部黒

器全体に鉄釉が掛けてあり、黒織部と同じく窯から引き出して黒色に発色したもの。織部黒もほとんどが沓茶碗で、口縁部分に鉄釉と長石釉を二重掛けして釉の変化をねらったものが多く見られ、その他に瀬戸黒に似た半筒形の茶碗もあるが、器面をヘラなどで削り手で形を整えるなど意匠の強いものとなっており、瀬戸黒とは違ったものといえる。

 

3.青織部

部分的に銅緑釉を掛け分けて余白の所に鬼板(おにいた)(褐鉄鉱)などで文様を描いてあるもの。銅緑釉の緑色は、長石と土灰などの釉に銅を入れて酸化焼成することで得られる色であり、この釉は還元焼成すると赤色に発色する。

織部のなかには緑色が部分的に赤く発色したものも見うけられるが、鉄絵の上には長石釉が掛けられている。織部といえばこの手のものを指すぐらい、種類も多く大量に作られている代表的な陶器。但し、茶碗として作られたものはほとんどなく、特に食器類が多く、鉢、向付などには三日月・舟形・扇の形など色々な形のものが見られる。

 

4.志野織部

織部として焼かれたものではなく、志野を作ろうとして窯の様式の変更により次第に織部風になっていったものを志野織部という。志野は穴窯で焼かれていたが、次第に熱効率の良い登り窯へと変わったことから温かみのあるふんわりとした志野独特の釉調が薄れ、下絵もはっきりと見えるようになり、光沢の強いものへと変化。現在でも穴窯で志野を焼かれている方がいるように、窯の温度が上がりにくく冷めにくい窯で時間を掛けてじっくりと焼かなければ、志野独特の釉調は得られない。

 

5.絵織部

白土に鉄絵を施して長石釉だけ掛けられたもの。上記に書いた志野織部とは違い、明らかに織部としての意匠をもって作られたもので、銅緑釉が掛けられていないので、鉄絵の文様が強調されたものになっている。

 

6.総織部

銅緑釉だけが器全体に掛けられたもの。皿などには、銅緑釉の下に文様を線彫りした物などが多く見られる。総織部の茶碗はほとんど見あたらず、皿、鉢、香合などが主で、変わったところでは香炉、(すずり)煙管(きせる)などの細工物がある。

 

7.鳴海織部

赤土と白土を継ぎ合わせて白土のところへ銅緑釉を掛け、赤土には白泥と鉄絵で文様を描き長石釉を掛けてあるもの。青織部よりもカラフルで複雑な文様になっており、赤土の素地に白と黒を使い文様を強調することで立体感が生まれ、軽やかな動きのある文様といえる。継ぎ合わせて作るので型物の手鉢や向付が多いが、ろくろ作りの沓茶碗にも良いものが見られる。鳴海織部の名称は名古屋の鳴海地方で作られたと思われていたため、この名称が付いたという説もあるが、詳細はわからない。

 

8.赤織部

赤土だけで作られており、素材の赤土に鉄絵で文様を描いたり、白泥と鉄絵で描き長石釉を掛けてあるもの。素材の白土と銅緑釉のない鳴海織部ともいえる。香合や向付などに見られる。

 

9.伊賀織部

美濃伊賀とも呼ばれ、三重県の伊賀焼の花生や水指などに倣って織部の窯で作られたもの。伊賀焼は窯の燃料でもある木の灰が器面に付いて青緑色のビードロといわれる自然の釉だれが景色となっているが、それを織部では白泥を部分的に掛け、全体に薄く土灰釉を掛けてからビードロの代わりに飴色の鉄釉を流し掛けにしている。

 

10.唐津織部

美濃唐津とも呼ばれ、絵唐津に倣って織部の窯で作られたもの。唐津でも織部に倣って作られた沓茶碗などがあり、美濃と唐津の交流がうかがえる。

【高村光雲】の買取について

2024.08.29

高村光雲(たかむらこううん)

明治から大正時代に活躍した著名な仏師、彫刻家。代表作は「老猿」は、国の重要文化財に指定されております。

 

(国立博物館HPより)

 

ほかにも上野公園の西郷隆盛像や、丸の内の皇居前広場にある楠木正成像の制作者(他の作家と共同制作)も高村光雲の作品などがある。

 

〈 高村光雲の主な経歴 〉

1852年 江戸で生まれる

1863年 仏師・高村東雲に師事する

1877年 第一回国内勧業博覧会で龍紋賞を受賞

1886年 東京彫工会を設立する

1890年 「帝室技芸員」に任命される

1893年 シカゴ万国博覧会に『老猿』を出品する

1898年 上野公園『西郷隆盛像』の木型制作する

1899年 木彫レリーフ『江口の遊君(遊女)』を制作する

1919年 パリ万国博覧会に『山霊訶護』を出品する

1934年 逝去(満82歳)

 

高村光雲が生まれたのは、ペリーが浦賀に来た黒船来航の前年。もともと大工の弟子になる予定でしたが、奉公に出される前日、行きつけだった床屋からの紹介で、仏師の高村東雲(たかむらとううん)の弟子になります。そして後に東雲の姉・エツの養子となり、ここで高村姓に。

明治維新以後、廃仏毀釈運動の影響により仏師としての仕事はなくなるが、光雲は木彫に専念し、積極的に西洋美術を学び、写実主義を取り入れることで衰退しかけていた木彫を復活させ、江戸時代までの木彫技術の伝統を近代につなげる重要な役割を果たしていきます。

その後、1889年には東京美術大学に勤務し、1890年には「帝室技芸員」に任命されます。

「帝室技芸員」とは、戦前の日本で宮内省によって運営されていた、美術家や工芸家の顕彰制度であり、優秀な美術家・工芸家に、帝室からの栄誉を与え保護し、日本美術・工芸の保護奨励を目的に設置された制度。(お伝えしておりましたが)その待遇や役割としては帝室技芸員には年金が支給され、制作を下命されることもあり、技術に関する諮問を受けることなどが定められておりました。

いうなれば人格・技量ともにすぐれた者が任命され、皇室の美術・工芸品制作を勅命で行ったり、博物館総長の諮問に応じたり、といった任務が与えられた「栄誉職」であります。

 

掛軸の買取について

2024.08.24

掛け軸とは書画を布や紙で表装して竹木などの軸をつけ、床の間などに掛けるように仕立てたものをさします。縦長のものを縦軸、条幅といいます。横長のものは横幅といいます。掛物、掛字、掛幅ともいいます。単純に言えば、巻物のように長くまとめられた表装の中に付けられている画画や書などを鑑賞するために用いられるものであり、床の間において掛け軸は非常に重要な役割を担っている室内装飾として使用されております。また、掛け軸は古来から魔よけや運気の呼び込みといった面を含め、様々な用途で使用することによりどのような効果をもたらすかによって掛け軸の種類が違ってきたりも致します。

 

 

 

珊瑚の買取について

2024.08.09

珊瑚は歴史の古い素材であり、産出の限られた希少品です。日本では明治に珊瑚漁が始まるまでは、輸入物しかありませんでした。にもかかわらず、江戸時代に大いに人気を得て工芸品や髪飾りの装飾に用いられ、加工技術も高まりました。
明治以降は、日本を代表する工芸品の一つとなっています。それゆえに江戸時代から現代に製作された貴重な骨董品も多く、これから先もますます価値を高めていくと予想されます。
そんな珊瑚の歴史と価値についてご紹介します。

前述してきたように日本の珊瑚製品が普及し始めたのは、江戸時代になってからです。
それ以前の珊瑚品はほとんど残されておらず、重要文化財のような扱いを受けてもおかしくないものばかりになります。
江戸時代の珊瑚製品

江戸時代の珊瑚製品は、以下のものが主流です。この頃の珊瑚は胡渡珊瑚であることから、色はほとんど赤色しかありません。
珊瑚樹(さんごじゅ)

そのままの形状をいかした置物で、仏教の七宝に数えられること、赤色が魔除けの色だったこと、漢方薬として用いられていたこと、枝が広がる様が末広がりとして縁起がいいことなどから、厄除開運の縁起物として重宝されました。
工芸品の装飾

特に漆工芸の蒔絵に、貴重な赤色を配置する素材として用いられています。
硯(すずり)箱、香箪笥、香炉、刀の鞘(さや)、鍔(つば)、着物の飾りなど、その利用は多岐にわたりました。
櫛、笄、簪

江戸時代に発達した髪飾りを代表とする、和装品の装飾にも使われています。
日本人の黒髪に珊瑚の赤色はよく映えたため、鼈甲とともに櫛や簪の素材として人気がありました。
根付、帯留、緒留

珊瑚の形状をそのまま利用したり彫刻を施したりして、根付や帯留として利用されています。
明治期以後の珊瑚

明治から現代にかけては、日本産のアカサンゴ、モモイロサンゴ、シロサンゴも見られるようになります。
品質の良いアカサンゴは胡渡珊瑚であるベニサンゴと同じく均一の赤色で、「血赤」と呼ばれる珊瑚の最高級品として輸出されました。
また、モモイロサンゴやシロサンゴは地中海ではあまり採れませんので、日本の特産といえるでしょう。
「本ボケ」と呼ばれる薄いピンク色は、欧米では「エンジェルスキン」と呼ばれ人気ある商品です。
明治以降になりますと、前述した江戸時代の製品に加え、ジュエリーに使用されることが多くなります。
女性用のネックレスやリング、イヤリングはもちろん、メンズジュエリーであるタイホルダーやカフリンクとしても非常に人気があります。
真珠と同じくその独特の艶や色が落ち着いていて、男性でも使いやすいのでしょう。

このように骨董品としての珊瑚製品は、江戸期以前の胡渡珊瑚を利用したものと、明治期以後の日本産珊瑚を素材としたものに分かれ、さらに珊瑚そのものの形状をいかした製品と、工芸装飾の素材として使用されるものに分類されます。

 

よく珊瑚礁と言う言葉を耳にしますが、そこにいるのが珊瑚です。
鉱物かと思われているケースが多いのですがれっきとした生き物で、これを使用した美術作品が人気を集めています。
珊瑚には複数の種類があるのですが、特に知られているものは赤色のものでしょう。
これを使った美術作品にはいろいろなものがありますが、中でも人気を集めていて高額取引されているのが原木です。
一見これは美術作品に見えないかもしれませんが、神秘的な見た目をしていることもあり、欲している人は相当数いるとされています。
原木をそのままで飾るケースもあれば、艶出し作業を施したうえで自宅などに飾っている人もいるでしょう。
種類や形によって価値は大きく変わり、数万円で入手できるものから数百万円以上するものも多数あり、中には1000万円を超える珊瑚の原木も美術作品としても人気です。
他にはその原木に手を加えて彫刻を施した美術作品もあります。
仏像の形をしている珊瑚彫刻や龍の形の作品まで存在しています。
珊瑚は見た目が宝石のような輝きをしているので、美術的な価値も非常に高くなっているという特徴があります。
特に赤珊瑚の作品に至っては、「珊瑚が持つ赤色の美しさ」のおかげもあり、収集家に大人気なのです。

中国美術の買取について

2024.08.09

 

 

 

 

 

 

中国美術は、中国の芸術家が創作した作品のことです。 長い歴史のある中国美術は、骨董市場で高額取引されています。 ただし贋作(がんさく)や印刷作品も多いため、専門知識がある査定を受けることが重要です。

掛軸、鶏血石、中国漆器、書画、絵画、文人画・山水画、印材、陶磁器、青磁、中国切手、白磁、翡翠、玉器、硯屏古銭、古墨、堆朱、七宝、官窯、染付、鼻煙壷、画帳、古文書、釉裡紅、田黄石、青銅器

など。

 

刀剣の買取について

2024.06.08

日本刀は「銃砲刀剣類所持法」により、各都道府県の教育委員会が行っている「銃砲刀剣類登録審査会」によって登録の基準を満たし、「銃砲刀剣類登録証」(登録証)が交付された刀剣は、誰でも所持することが許されています。

 

そこでまず注意していただきたいポイントは

 

1. 見つけられた・家にある「日本刀」(長い刀や短い短刀など、大小を問わず)に、「銃砲刀剣類登録証」(登録証)が付いているか確認。

その登録証がありましたら、そのまま所持できます。但し、所有者の変更届などが必要かと思いますので、登録証に記載の教育委員会の刀剣担当者に電話にてご相談ください。地元の教育委員会の代表に電話して〝刀剣(日本刀)ご担当の方に、伺いたいことがあるのでお繋ぎください〟と言えば繋いでいただけるでしょう。
その際、手元に登録証を用意し、登録番号をお伝えしてお話しになると良いでしょう。

 

2. 登録証が見当たらない場合。

この場合も、まず地元の教育委員会の刀剣担当者に電話して事情をお話しして相談をしてください。
弊店でもご相談をお受けしますので、その際、大事なことは、見つかった「日本刀」は、場所を動かさずそのままの状態に置いておくこと。勝手に動かさないようにご注意ください。

その後は、教育委員会の刀剣担当者のアドバイスを参考に進めていくと良いでしょう。

通常は、その後、警察での「発見届け」処理などを経て、最終的には各都道府県教育委員会の「銃砲刀剣類登録審査会」に現物と必要書類を持ち込み(※登録証が無い代わりに「発見届」を持っていれば、審査会に持ち込むことが出来る、ということです)、登録の基準を満たしたものには「銃砲刀剣類登録証」(登録証)が交付されます。審査日(1~3ヶ月に1回程度)は各教育委員会により異なります。審査日程など詳細は各都道府県教育委員会にお問い合わせください。

 

また、刀剣などの扱い自体をどうすればよいのか。何点かあげておきますと、

 

・刀剣類は、登録審査を受けるまでは研ぎに出さないでください。発見したらそのままにしておいてください。ということです。

 

・発見届取扱上の留意事項としては(警察の立場として下記の留意事項があります)

1. 善良な発見届出人に無用の迷惑をかけないよう、その取扱いに十分の考慮を払うこと。

2. 提示を受けた刀剣類は、貴重な美術品である場合もあることを念頭に置き、慎重に取り扱うこととし、刃渡り、目くぎ穴又は銘文の確認のためにこしらえを外すことが困難なときは、無理に外そうとしないこと。

3. 登録の希望については、発見届出人の意思を尊重して、登録に該当するか否かの判断をしないこと。

4. 刀剣類は、一時預かりの措置をしないようにすること。ただし、必要やむを得ないときは、この限りでない。

5.発見届は、発見の状況が分かる責任ある者が発見者に代わって届出することも差し支えない。

6. 発見・届出をした刀剣類であっても、登録を受けなければ他人に譲渡できず、登録以外の目的で所持した場合は違法となるため、その旨を発見・届出人に教示すること。

7. 都道府県教育委員会と連携し、発見届出後に登録審査を受けないもの又は登録審査の結果、登録にならなかったものについては、廃棄又は公立博物館等への寄贈の意思を確認するなど所要の措置を講じること。

 

とのことです。

そして手続きを終え無事、各地の教育委員会にて「銃砲刀剣類登録証」が発行されましたら、せっかく「登録証」が取得できた刀ですので、これからはサビ等が発生しないように研磨などをして大切に保管をしてください。また、登録証も売却を検討の際など必ず必要となりますので、こちらも大切に保管を。

 

大まかにご説明をいたしましたが、諸事情は各御家庭で様々かと思われます。古美術風光舎では取扱い、届け出、買取など様々なお困りごとご不明な点、お気軽にお問い合わせくださいませ。

 

 

象牙の高額買取の注意点

2024.06.05

皆さまこんにちは。スタッフHでございます。

さて本日は、家のお片付けの際に処分に困るお品の中でご相談が多い「象牙」の取り扱いについて綴りたいと思います。

象牙は古代から貴重な品として扱われ、適度な硬質と加工しやすい柔らかさを兼ね備えていることから古より彫刻作品、骨董品、家具、装飾品などに用いられました。多くの哺乳類の牙は犬歯が発達したものですが、象牙は門歯が発達したものです。

象牙色とはアイボリーとも呼ばれ、黄味がかった淡い色が特徴です。乳白色の滑らかな肌合いや、年を経て生まれる温かみのある飴色の質感が人々を魅了してきました。象牙にはロゼット模様と呼ばれる特徴的な縞目模様があり、象牙の真贋を鑑別する目安となっています。また先端にいくほど、中心に近いものほど貴重とされています。

 

 

 

 

象牙工芸品の扱う際の注意点などについて簡単に説明させていただきます。

 

1.ワシントン条約による規制

中世の時代までは、アフリカの自然死した象から採取した象牙が利用されていたと考えられています。しかしその美しさや加工のしやすさから、象牙を目的とした象の乱獲が進みました。そのため20世紀初頭に1000万頭いたアフリカ象は65万頭に激減しました。この事態に危機感を持ち、1989年ワシントン条約により象牙の国際取引が禁止されました。これ以前に国内で所有されていた象牙、またはその加工品のみ譲渡・売買が許可されています。

 

2.登録票の取得

個人の所有も含め、象牙の原型をとどめている1本物は登録票がないと譲渡・売買ができません。たとえ彫り物がしてあっても、原型が残っている象牙は環境省に登録する必要があります。

この「国際希少野生動物種登録票」がなければ所有することができません。ただし、加工されていて原型が残っていない象牙製品は該当しません。

 

3.象牙を取り扱える業者

2018年6月1日より、国内での象牙製品の違法な取引を防ぐため「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律」(種の保存法)の改正法が施行され、日本国内で象牙製品等の製造販売をおこなう事業者は、経済産業省へ「特別国際種事業者」として届け出を行い、5年ごとに更新が必要となりました。

またこの登録を怠ったり、「種の保存法」に違反する取引などを行った際の罰則が強化され、懲役刑も求刑されることとなりました。

 

4.象牙工芸品

日本には奈良時代に中国から象牙を彫る技法が伝えられたとされています。江戸時代には根付、髪飾り、櫛などの象牙工芸品が武士や庶民に愛用され、次第にその芸術性を高めていきました。

明治時代には殖産興業の一環として技巧を凝らした象牙工芸品が国際博覧会にも出展されました。 大正、昭和に入ると、西欧のパイプが伝わり象牙の喫煙具が作られ、近代では印鑑、和楽器等にも使用されています。

 

5.著名な象牙作家

象牙工芸品の芸術性の高まりと共に、象牙を彫る作家、牙彫作家と呼ばれる人々も現れました。その中から何人かご紹介いたします。

 

・旭玉山(1843-1923)

東京の浅草の寺に生まれ、一旦は僧侶となりましたが独学で彫刻を勉強し、カエルや犬、蜘蛛などの生物を題材として緻密に彫られた根付を制作していました。明治に入ると人骨に興味を示し、制作した「どくろ」の根付が好評を博しました。博覧会の審査員も勤めたのち、1901年に日本美術協会に出展した「官女置物」はいくつもの牙材を接合して制作された大作で高い評価を受けました。

 

・石川光明(1852-1913)

寺社仏閣の建築を担う宮大工の家に生まれ、その技術をもとに彫刻家として活躍しました。旭玉山と共に後の「東京彫工会」となる彫刻の研究会を始めました。代表作に「古代鷹狩置物」があり、1900年のパリ万国博覧会に出品され、まさに鷹を放つ瞬間を表していると評価されています。

 

・安藤緑山(1885-1955)

大正から昭和初期に牙彫作家として活動し、野菜や果物など身近なものを題材とした50点余りの作品を残しています。

超絶技巧、スーパーリアリズムと称され、象牙に着色を施しているという特徴があります。当時は白地の肌合いが牙彫の王道でしたが、「象牙に色をのせると色が滲んで独特の味わいが出る」という緑山独自の流儀で鮮やかな色を施しました。しかし主流から外れるとして当時はその高い技巧に対して評価されることはありませんでした。

21世紀に入り緑山の工芸品は「超絶技巧」ともてはやされ知名度が上がることとなります。代表作とされる「竹の子、梅」は本物と見間違えるほどの緻密さで作られており、竹の子の産毛までもが繊細に表現されています。

 

象牙製品は高級な嗜好品ですので、査定を受ける際には特別国際種事業者として認定されているお店を選ぶことが重要です。ご自宅にある象牙の価値はどのくらいだろう?と疑問に思われましたら、信用のある業者で一度鑑定してもらうことをお勧めします。

 

 

 

 

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