10月, 2023 - 風光舎 | 愛知・名古屋での骨董古美術買取 三重 岐阜 - Page 3

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FROMKYOTOOSAKA

チキン南蛮とタルタル(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2023.10.13

皆さまこんにちは。スタッフTでございます。

 

 

寒暖差が激しくなり、いよいよ秋本番ですね。ただ、残暑の影響が紅葉にも出ているようで、色づく前に枯れてしまったものもチラホラあるとか。とはいえ、足を運んでみれば色鮮やかな紅葉に出会えるのは間違いなし。見頃は例年より少し遅くなるようですが、美しい風景を目に焼き付けに行きたいものですね。

さて、普段はあまりTVを見ない私ですが、ここ最近はW杯やアジア大会などの様々な競技を観戦するため、めずらしくTVにかじりついておりました。

そんな中、スポーツに全く関係ない内容に目が留まりました。

 

『宮崎県以外のチキン南蛮は本物じゃない』『タルタルソースがなくてもチキン南蛮』

 

確かに、ご当地以外は本物とは言えないかもしれないとは思いましたが、タルタルソースがかかってなくても「チキン南蛮」と呼ぶとはどういうことなのか。どうやら私は「チキン南蛮」について間違った認識をしていたようです。

 

 

「チキン南蛮」は鶏のから揚げを唐辛子入りの甘酢のタレの南蛮酢に浸けた鶏料理で、ご存じ宮崎県の郷土料理ですが、その発祥は宮崎県延岡市とされています。現在では県全域だけでなく全国にも広まっているお馴染みの料理で、食堂やレストランだけでなく、惣菜、弁当としても人気があり、コンビニのお弁当にも「チキン南蛮」があったりして広く定着していますね。その中に、から揚げにタルタルソースがかかったものを「チキン南蛮」と称して提供しているところもあるようで、それが「本物じゃない」ということになるのだそうで。

 

チキン南蛮の「南蛮」とは、もともとは16世紀頃に日本にやってきたポルトガル人や、そのカルチャーを指していた言葉。歴史好きの方であれば「南蛮渡来」という言葉などを耳にしたことがあるのではないでしょうか。

彼らから伝わってきた食文化・調理法は当時日本にはない新しいものだったことから、南蛮という言葉が使われるようになったようです。

「チキン南蛮」とは、南蛮酢に浸した鶏料理。南蛮酢とはネギ、玉ねぎ、唐辛子が入った甘酢の事で、その南蛮酢を使っているのでチキン南蛮と呼ばれるようになりました。一般的にはタルタルソースをつけて食べるものをチキン南蛮と呼ぶもの、と私は思っていましたが、本来は南蛮酢に浸したチキン料理を「チキン南蛮」と呼ぶのだそうです。

「チキン南蛮」は宮崎県延岡市で料理店「ロンドン」で働いていた二人の料理人により生まれたといわれています。

二人が働いていたそのお店の賄い料理として出されていたのが鶏のむね肉に衣をつけて揚げて甘酢に浸けた鶏料理だったとのこと。

単なる賄い料理として店に出る事はない料理でしたが、その賄い料理を工夫して、二人がそれぞれの店でメニューとして提供するようになったのが「チキン南蛮」のはじまりといわれているようです。

二つの店の「チキン南蛮」にはさまざまな違いがありますが、最大の違いはタルタルソースの有無。

現在、「チキン南蛮」といえばタルタルソースをつけて食べるという認識が一般的になっていますが、タルタルソースを開発したのはお二人の内の一人だそうです。

ですから、お二人のお店の「チキン南蛮」の一方にはタルタルソースはついているもの、もう一方はついていないものが提供されているのだそうです。

どちらが本当の「チキン南蛮」なのか、と考えがちですが、どちらも賄い料理からヒントを得て、それぞれオリジナルの「チキン南蛮」を開発したのですから、どちらも本物と言えますね。

というわけで、タルタルソースの有無は「チキン南蛮」の絶対的条件というわけではなく、南蛮酢に浸したチキン料理が「チキン南蛮」ということなのです。

いやはや私、全く違った知識として定着しておりました。名物には、相応の由来があるものなんですね。実に興味深いです。

 

ではでは、また

 

 

Hello everyone. This is Staff T.

The difference in temperature between the two seasons has been drastically changing, and autumn is finally in full swing. However, it seems that the lingering summer heat is affecting the autumn leaves, and some of them have died before they turn into color. However, if you visit, you will surely be able to see the colorful autumn leaves. The best time to see the leaves is a little later than usual, but it would be nice to go and see the beautiful scenery.

I usually don’t watch TV very often, but recently I have been watching the World Cup, Asian Games, and various other competitions, which is rare for me.

In the midst of all this, something completely unrelated to sports caught my attention.

 

It was a story about how “Chicken Nanban outside of Miyazaki Prefecture is not real” and “Chicken Nanban without Tartar Sauce.

 

Surely, I thought, it might not be authentic except for the local area, but what does it mean to call it “Chicken Nanban” even if it does not have tartar sauce on it? Apparently, I had a wrong perception of “Chicken Nanban.

 

Chicken Nanban” is a chicken dish consisting of deep-fried chicken dipped in a sweet-and-sour vinegar sauce with chili peppers, and is a well-known local delicacy of Miyazaki Prefecture. It is now a familiar dish that has spread not only throughout the prefecture but also throughout Japan. It is popular not only in restaurants and cafeterias but also as a side dish and bento boxed meal, and is widely established as “Chicken Nanban” in convenience store bento boxes. Among them, there are some places that offer fried chicken with tartar sauce as “Chicken Nanban,” which is not the real thing, according to some people.

The “Nanban” in “Chicken Nanban” originally referred to the Portuguese who came to Japan around the 16th century and their culture. If you are a history buff, you may have heard of the term “Nanban-togurai” or something similar.

The term “Nanban” was used because the food culture and cooking methods introduced by the Portuguese were new to Japan at the time.

Chicken Nanban” is a chicken dish dipped in Nanban vinegar. Nanban-zu is a sweet vinegar with green onions, onions, and chili peppers, and it is called “Chicken Nanban” because it is made with this vinegar. I used to think that chicken nanban was generally served with tartar sauce, but it was originally called “chicken nanban” when the chicken was dipped in nanban vinegar.

Chicken Nanban” is said to have been created by two chefs who worked at the restaurant “London” in Nobeoka City, Miyazaki Prefecture.

The dish that was served as a bribe at the restaurant where the two chefs worked was battered chicken breast, deep-fried, and dipped in sweet vinegar.

It was a dish that was never served in the restaurant as a bribe dish, but the two devised it and began serving it as a menu item at their respective restaurants, which is said to be the beginning of “Chicken Nanban.

There are many differences between the two restaurants’ “Chicken Nanban,” but the biggest difference is the presence or absence of tartar sauce.

Today, it is generally accepted that “Chicken Nanban” is eaten with tartar sauce, but it is said that one of the two men developed the tartar sauce.

Therefore, one of their restaurants serves “Chicken Nanban” with tartar sauce, while the other does not.

It is easy to wonder which one is the real “Chicken Nanban,” but since both of them developed their own original “Chicken Nanban” inspired by bribery dishes, both of them can be said to be the real thing.

 

Therefore, the presence or absence of tartar sauce is not an absolute requirement for “Chicken Nanban,” but a chicken dish dipped in Nanban vinegar is called “Chicken Nanban.

I was completely wrong. I guess specialties have their own origin. It is very interesting.

 

See you soon!

 

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ご実家の整理やお片付けなどをされている方のご相談などが多くございます。

お片付けなどくれぐれもご無理のないようになさってくださいませ。

風光舎では古美術品や骨董品の他にも絵画や宝石、趣味のお品など様々なジャンルのものを買受しております。

お片付けをされていて、こういうものでもいいのかしらと迷われているものでも、どうぞお気軽にご相談下さいませ。

また風光舎は、出張買取も強化しております。ご近所はもちろん、愛知県内、岐阜県、三重県その他の県へも出張いたします。

まずは、お電話お待ちしております。

 

 

愛知県名古屋市千種区姫池通

骨董 買取【古美術 風光舎 名古屋店】

TEL052(734)8444

10:00-17:00 OPEN

 

#出張買取#骨董#古美術#骨董品#絵画#版画#茶道具#刀剣#彫刻

 

 

千種区のお客様より買受いたしました。(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2023.10.12

 

千種区のご近所のお客様より掛軸、火鉢、木箱入り茶碗など買受いたしました。

長年大切にされておりました御品をお譲りくださいまして、誠にありがとうございました。

 

また何かございましたら、古美術風光舎をよろしくお願い申し上げます。

 

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記憶に残る対局でしたね。(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2023.10.12

みなさまこんにちは、スタッフYでございます。

 

 

 

 

今朝のことです。外を歩いておりましたらどこかしら、あの秋の香りが薄っすら漂ってきました。

金木犀でした。少し涼しくなった風の中に混じっていたのでしょうが、見渡したところ金木犀らしき木は見当たりませんが、間違いないあの香りです。私の鼻先を一瞬横切って行っただけなのですが、いつもなんだか切ない気持ちにさせてくれるのは私だけでしょうか。暑さが長引いたせいでしょうか、秋が思いのほか近寄っていたことに気づいた今朝でありました。

 

そんな今朝だっのですが、奈良旅の続編をお休みしまして、本日は勝手に号外。

ここ愛知県出身、藤井壮太棋士が前人未到の八冠達成いたしました!。愛知県も、昨夜からこのニュースでもちきり。おめでとうございます。

 

昨夜の対局ご覧になりましたでしょうか。

第71期王座戦5番勝負第4局にて、将棋の藤井聡太七冠(21)と永瀬拓矢王座(31)との対局にてなんと終盤も終盤、終局たしか10分ほど前だったでしょうか一気に展開が変わり、3勝1敗として前人未到の全八冠独占を達成。午後9時前の終局前、終盤の10分間で大きく二転三転する流れの局面にネット上では驚きの声があがりました。

 

私もLIVEにてこの対局をみておりましたが、こんなことがあるのだろうか?と、素人ながら手に汗をにぎりながらの対局でありました。

終盤に差し掛かり、すでに1分将棋に持ち込まれていたのですが、122手まではAIの判定は永井王座が99%藤井七冠1%と、永井王座に完全に勝ちが見えておりました。私も第5局目にはいるな…と、気持ちは次の対局に入っていたのですが、そのあとからの一手で一気に藤井七冠が優勢に一気に流れが変わります。

あれ?と、思ったのもつかの間あれよあれよと時間にして10分ほどでありました138手目で藤井七冠が勝ちとなる驚きの展開でありました。TV局はじめ関係者の方はバタバタでしたでしょうね…。

 

藤井八冠誕生の瞬間をみれたことは大変うれしかったのですが、私がとても印象的でいてかっこいいと思ったのは122手目以降の永井王座の姿でありました。

 

122手目以降の彼の頭中に渦巻く将棋盤にもはや追い込まれた悪手にアタマをかかえて天をあおぐ姿、どちらかというと永井王座の本気で戦いでのその追い込まれる姿に大変引き込まれました。(すみません。)自分があの場にあの状況でしたら、絶叫しながら将棋盤をなぎ倒していただろうな笑と思うのですが、お二人ともあのような局面でも棋士としての礼節を保ち、最後まで素晴らしい姿でしたね。これぞAI同士の将棋ではみれない人間ならではの、そしていいろな意味で歴史に残る激戦だったともいます。

 

また、前人未到の藤井八冠誕生と共にこの対局の最後の場面は間違いなく自分の記憶に残ると思うのですが、八冠の棋士を自分が生きている間にお目にかかれるなんてですよね。

 

それにても、先日のラグビーワールドカップもそうですが、彼らのようにあのように本気で臨むことなんて、自分の生活にはそんなにはない。だからでしょうか、昨日の対局のこらえながらもあのむき出しの姿に思いを馳せてしまいがちなのですが、それにしてもLIVEにはほんとかなわないな…と昨夜もあらてめて思うのでした。

 

それではごきげんよう。

 

 

Hello everyone, this is Staff Y.

 

It was this morning. As I was walking outside, I could smell the scent of autumn somewhere in the air.

It was a golden osmanthus. It must have been mixed in with the slightly cooler breeze, but I couldn’t find any trees that looked like a golden osmanthus as I looked around, but I was sure it was that scent. It only crossed my nose for a moment, but is it just me or does it always make me feel somewhat sad? Perhaps it was the prolonged hot weather, but this morning I realized that autumn was closer than I had expected.

 

I will not write a sequel to my trip to Nara this morning, but I would like to take the liberty of writing an extra issue today.

Sota Fujii, a professional Go player from Aichi Prefecture, has won an unprecedented 8th championship! This news has been all over Aichi Prefecture since last night. Congratulations!

 

 

Did you see the game last night?

In the 4th game of the 71st Oza Tournament between Sota Fujii (21), the 7th crown winner, and Takuya Nagase (31), the game was in its final stages, and about 10 minutes before the end of the game, the game changed dramatically and Fujii won 3-1, achieving an unprecedented monopoly of all 8 championships. Before the end of the game, before 9:00 p.m., the game changed dramatically in the last 10 minutes of the game, and the internet was filled with astonishment.

 

I was also watching the game live and wondered if such a thing was possible. I was sweating while watching the game, even though I am an amateur.

The game was already in the endgame, and the game had already been played for one minute, but by the 122nd move, the AI had determined that Oza Nagai had 99% and Shichikan Fujii had 1%, so it looked like Oza Nagai was completely winning. I thought that I was in the 5th game, and my mind was on to the next game, but one move later, the game changed to the favor of Fujii Shichikan at once.

I thought, “What’s going on? The TV station and other people involved must have been in a flurry of activity….

 

I was very happy to see the moment of the birth of Fujii’s 8th crown, but what I thought was very impressive and cool was Nagai’s appearance from move 122 onwards.

 

I was rather attracted by the way Nagai Oza was driven into a corner by the seriousness of the battle. (I am sorry.) If I had been in that situation, I would have screamed and knocked down the Shogi board, but both of them kept their civility as professionals in such a situation, and they were wonderful until the end. This is the kind of battle that cannot be seen in Shogi played by AI players, but only by humans, and in a good way, it was a fierce battle that will remain in history.

 

Also, the final scene of this game with the birth of the unprecedented Fujii 8-kan will definitely remain in my memory, and it was a great opportunity for me to see the 8-kan player while I am still alive.

 

Then again, like the Rugby World Cup the other day, I don’t have that many chances in my life to be as serious as they were in that way. That’s probably why I tend to think about the way they played the game last night, with all their patience, but I still think that I really can’t compete with LIVE… again last night.

 

 

I will see you all soon.

 

 

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大津絵、鬼の寒念仏とは(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2023.10.11

皆さまこんにちは。スタッフHでございます。

寒暖差の激しい今日この頃、くれぐれも体に気を付けてお過ごしください。

 

さて、こちらの小さな「根付」。上目遣いの目にぞくっとし、いつも目を逸らせていましたが、手に何を持っているのか不思議に思いじっくり眺めてみました。

 

 

 

 

持っているものは「奉加帳」(お寺への寄進者名簿)で、この鬼は「大津絵」の画題の一つ「鬼の寒念仏」を表しているようです。

大津絵とは江戸時代初期に東海道の大津追分あたりで、行き交う旅人や巡礼者を相手に、職人たちが荷物にならない土産物として売った民衆絵画です。

ユーモラスな絵の中に、多くの示唆を含んだ大津絵は、浮世絵と並ぶ江戸時代の二大民画といわれ、パブロ・ピカソのコレクションからも見つかっているそうです。

初めは礼拝用の仏画として売り出されましたが、次第に世俗画や戯画が増え、多くは風刺画の要素が強くなっていきました。120以上ある画題の中で鬼が多く登場し、大津絵に登場する鬼は剽軽で愛らしく、人間臭い滑稽な様相を呈し、人の愚かさや邪悪さを象徴した存在ともいわれています。

中でも「鬼の寒念仏」は、僧衣を着た鬼がお寺の再建のため募金活動をする姿を、無慈悲な者が形だけの善行を積む偽善の風刺として扱われています。

顔かたちは鬼のままで、衣装・小道具だけを僧侶にしても無駄だということらしいです。

恐ろしい鬼が、念仏を唱えて布施を乞いながら歩く姿のギャップが好評を博し、人気の画題となりました。通常鬼は胸に鉦(かね)を掛け、左手に寺の再建奉加帳、右手に撞木を持ち、片方の角が折れている姿で描かれています。

片方の角が折れているのは「我」を折って改心したことを表すと捉え、幾分の救いを示しているのだとか。こちらの根付の鬼もよく見ると片方の角が短いですね。

 

 

 

 

背中を丸めているせいか悲哀も感じさせます。

この丸みは服に引っかからないように角を丸める「根付」の特性だと理解していても、悪者にされて少し可哀想にも思えてきます。

根付はポケットのない和装の時代、小物などを持ち歩く際に使われてきました。巾着や印籠箱などの紐に取り付け、帯の下から上へ挟み込み、根付を帯の上から出すことで巾着などが落ちないような仕掛けとなっています。

根付の歴史は古く江戸時代にはすでに広く親しまれていました。やがて彫刻や絵などが施されていくうちに、職人たちが技術を競い、ついには「根付師」という職業も生まれるほど価値が高まりました。

その美しさと高い技術力から海外では日本のアートとして評価され、「Netsuke」として親しまれています。身に着ける道具であることから触って楽しむうちに「なれ」と呼ばれるまろやかな手触りが生まれ、更に価値を高めているそうです。

 

根付も大津絵と同じく単純な写実ではなく、伝説やことわざ、縁起物や魔除けになる図を表現しています。得体が知れないからと目を逸らしている場合ではありませんでした。不誠実を戒める教訓としてしっかり受け止めたいと思います。

 

 

 

 

それでは、またお会いしましょう。

 

 

Hello everyone. This is Staff H.

Please take care of yourself in these days of extreme temperature differences.

 

By the way, here is a small “netsuke”. I always looked away from it, but then I wondered what it was holding in its hand, so I took a closer look at it.

What he was holding was a “fukajo” (a list of donors to a temple), and this demon seemed to represent “Oni no kanenbutsu,” one of the subjects of “Otsu-e” (Otsu paintings).

Otsu-e were folk paintings sold by artisans in the Otsu Oiwake area of the Tokaido Highway in the early Edo period as souvenirs that would not be carried as luggage by travelers and pilgrims.

Otsu-e, which contain many suggestions in their humorous pictures, are said to be one of the two major folk paintings of the Edo period, along with ukiyoe, and have been found in the collection of Pablo Picasso.

Among the more than 120 subjects, ogres are frequently featured, and the ogres in Otsu-e are said to symbolize the foolishness and wickedness of human beings, with their wry, adorable, and humorously human-like appearance. They are also said to symbolize the foolishness and wickedness of human beings.

In “Oni no kanenbutsu” (Oni’s cold prayer), an ogre dressed in priest’s robes is seen raising funds to rebuild a temple, a satire of the hypocrisy of the heartless doing only token good deeds.

It is said that it is futile to dress up the ogre in monk’s clothes and props while keeping his face as an ogre.

The gap between the frightening ogre walking around chanting Buddhist prayers and begging for offerings was well received and became a popular subject for painting. Oni are usually depicted with a gong hanging from their chest, a temple rebuilding votive book in their left hand, and a wooden bell in their right hand, and one of their horns is broken.

The fact that one of its horns is broken is thought to indicate that the demon has reformed by breaking its “self” and thus shows some measure of salvation. If you look closely at this netsuke demon, you will see that one of its horns is also short.

 

The rounded back gives it a sense of sadness.

Even though I understand that this roundness is a characteristic of netsuke, which have rounded corners to prevent them from getting caught on clothes, I feel a little sorry for them because they are made to look bad.

Netsuke were used to carry small items in the era of kimono without pockets. Attached to the strings of a kinchaku or inro box, the netsuke was inserted from the bottom of the obi to the top, and then pulled out from the top of the obi to prevent the kinchaku or other items from falling off.

Netsuke have a long history and were already widely popular in the Edo period. As netsuke were carved and painted, craftsmen competed in their skills, and eventually their value grew to the point that the profession of “netsuke maker” was born.

The beauty and high level of skill of netsuke craftsmen made them highly regarded overseas as Japanese art, and they are now known as “netsuke. Since netsuke are tools to be worn, they develop a mellow texture called “nare” as they are touched and enjoyed, further increasing their value.

 

Netsuke, like Otsu-e, are not simply realistic, but depict legends, proverbs, good luck charms, and charms to ward off evil spirits. This was not the time to look away because of its mysteriousness. I would like to take this as a lesson against dishonesty.

So, I will see you again.

 

 

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「有言実行」の「不東」の旅でした。(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2023.10.10

みなさまこんにちは、スタッフYでございます。

 

 

 

 

本日は、先日からの奈良旅のつぶやきの続編であります。それはそうと、なぜ薬師寺に来たのか?という話に戻るのですが、事の発端は、このお軸の二文字。

 

 

 

 

 

先日、店舗にてかけありましたこの掛軸

 

「不東」

 

このお軸はかつての薬師寺管主、高田好胤管主の筆であります。

この言葉、意味をおさらい致しますと、これは玄奘三蔵(三蔵法師)の残した有名なお言葉でして

「目的地であるインドへたどり着かない限り東へ戻ることはない。」という不退の決意を表す意味であります。

 

かつて玄奘三蔵は、インドへ求法の旅へ出ます。これが皆様ご存じ「西遊記」の旅であるのですが、その後、インドへの修学の末、経論や舎利、仏像を供えて17年ぶりに帰国。持ち帰った経典や論琉などをたくさん翻訳致します。その中で最も知られている「般若心経」も、実は玄奘三蔵の翻訳によるものであります。知らなかったです…。

 

そんな玄奘三蔵の求法の旅の目的は「唯識」を教えを求めることでして、その教えは弟子である慈恵大師により「法相宗」として大成、飛鳥時代道昭僧都により日本に伝来いたします。現在「法相宗」の大本山はこの薬師寺と興福寺でありますが、いまも玄奘三蔵は「法相宗」の始祖として仰がれております。

 

そして始祖と仰がれる玄奘三蔵の遺徳顕影のため建立された「玄奘三蔵院伽藍」。そしてその二文字もこちらに。

 

 

 

 

 

 

 

こちらの伽藍は平成3年に建立されたものですが、ここには玄奘三蔵のご頂骨(頭部の遺骨)がお納めされております。ご頂骨は昭和17年に中国南京で発見されたようでして、その後日本にも分納され、さいたま市の慈恵寺に奉安されておりましたが、この度、ご分骨賜り、現在こちらにも奉安されているそうです。

 

 

 

 

あらためて

 

「不東」

 

先日の私の「有言実行」とは重みは全く違いますが、「不東」を「有言実行」したこの言葉の通り、しっかりと目的を果たし帰ってきた玄奘三蔵はいったいどんな気持だったのでしょう。その時の「不東」という言葉の意味をあらためてお聞きしたかったものですね。

 

「玄奘三蔵院伽藍」は、薬師寺の金堂や東塔西塔と少し離れた場所にございますのでこちらまで脚を伸ばす方はあまり。そんな伽藍に佇み、自分の「不東」と向き合う。とても静かな、そして気持ちの引き締まるひと時でもありました。

 

 

次回は、私の勝手に好きなお寺ランキング第一位のお寺へ参ります。ヒントは「天平の甍」でありますが。

 

それでは、ごきげんよう。

 

 

 

Hello everyone, this is Staff Y.

 

Today is a continuation of the tweets from our trip to Nara from the other day. So, why did we come to Yakushiji Temple? The reason is the two words on the scroll.

 

The other day, I saw this hanging scroll in a store.

“Non-dong” (meaning “not to go east”)

This scroll was written by Yoshitane Takada, the former abbot of Yakushiji Temple.

To review the meaning of this word, it is a famous word left by Genjo Sanzo (Sanzo Hoshi).

I will not return to the East unless I reach my destination in India. This is the meaning of his determination not to retreat.

 

Genjo Sanzo once set out on a journey to India in search of Buddhism. After that, he returned to Japan after 17 years with sutras, relics, and Buddhist statues after his study in India. I will translate many of the sutras and treatises that I brought back with me. The most well-known of these, the Heart Sutra, was actually translated by Genjo Sanzo. I didn’t know that.

 

The purpose of Genjo Sanzo’s journey was to seek for the teaching of “Yidai-kyo,” which was developed into the “Hosso sect” by his disciple, Jie Daishi, and introduced to Japan by the monk Dosho during the Asuka period (710-794). Today, Yakushiji Temple and Kofukuji Temple are the main temples of the Hosso sect, and Genjo Sanzo is still revered as the founder of the sect.

 

The Genjo Sanzoin Temple was built to commemorate the legacy of Genjo Sanzo, the founder of the Hosso sect. The two characters are also shown here.

 

This temple was built in 1991, and the remains of Genjo Sanzo’s head are enshrined here. The remains were discovered in Nanjing, China, in 1942, and were later moved to Japan and enshrined at Jikeiji Temple in Saitama City, but now they are enshrined here as well.

 

 

Once again, we would like to thank the following people for their kindness.

 

 

“Fudo” means “not to go east.

 

Although the meaning of the word “non-dong” is completely different from the meaning of the word “wujihatsu,” I wonder how Genjo Sanzo must have felt when he fulfilled his goal and returned to Japan. I would like to ask him again about the meaning of the word “Fudo” at that time.

The Genjo Sanzoin Temple Complex is located at a distance from the Kondo Hall and the East and West Pagodas of Yakushiji Temple, so not many people make the effort to visit it. Standing in such a temple complex, you will be confronted with your own “Fudo”. It was a very quiet and sobering moment for me.

 

 

Next time, I will visit the temple that ranks first on my list of favorite temples. The clue is “Tenpyo-no-iraka” (Tenpyo-no-iraka).

 

Have a good day.

 

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秋の有言実行の旅、行って参りました。(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2023.10.09

みなさまこんにちは、スタッフYでございます。

 

本日は三連休最終日。皆様いかがおすごしでしょうか。

ここ名古屋はあいにくの空模様。今日は自宅で先日のラグビーワールドカップの復習や余韻に浸っている方もいるのではないでしょうか。日本チーム本当に残念な結果ではありましたが、誰しもが彼らには素晴らしい試合をありがとう!と称賛のエールを送りたくなる本当にいい試合でした。

また、このところ個人的にラグビーが大好きでして、いつかワールドカップを現地で応援するのが私の夢なのですが、今回もさらにその気持ちをふつふつと湧きたたせたワールドカップでもありました。日本チーム、本当にお疲れさまでした。

 

 

さてさて、そんな連休の最中、先日、薬師寺の国宝「東塔」落慶のつぶやきをし、いつか行ってみたいと言った薬師寺へ、なんと速攻有言実行の旅、行って参りました。また、折角訪れた奈良でしたので、その日は夜まで日帰り弾丸ドライブでいろいろ行って参りましたので、今週はその模様を続編にてお届けいたします。どうかお付き合いくださいませ。

 

 

連休初日、やはり渋滞をおしてようやっと到着。

 

 

 

 

「薬師寺」ですが境内が広すぎて、全景がなかなか写せませんでして。

 

 

 

 

左の赤い塔が西塔、左の茶色の塔が東。12年の歳月をかけて解体大修理を終え、令和5年4月に慶塔いたしました。

薬師寺は1300年の歴史の中でも幾度も火災や地震、台風により多くのお堂が失われてきたのですが、このなかで東塔は、薬師寺創建当初からの唯一現存する平城京最古の建造物。

 

東塔は屋根が6つあるのですが内部は実は三層の三重塔。下から1,3,5番目の小さな屋根は裳階(もこし)と呼ばれれる飾り屋根でして、各層に裳階が付けられてた塔は薬師寺だけであります。屋根の大小がおりなすバランスはとても美しく、「凍れる音楽」とも称されているようであります。

 

 

 

 

東塔は、これまでに何度が部分的な工事は行っているのですが、平成21年(2009)より史上初の全面解体修理に着手し、令和3年2月に竣工いたしました。そして、今回の大改修工事において新たに文化勲章受章者の中村晋也氏による「釈迦八相像」のうちの因相の四相が祀られております。

 

「薬師寺縁起」によりますと、創建時の東塔と西塔の内部には、お釈迦様の生涯をあらわした「釈迦八相像」が祀られていたとか。それらは粘土で作れていたようでして、当初の「釈迦八相像」の多くは破損していまったようですが、残った残欠や記録から岩窟や山川を背景に押し釈迦様をはじめ多くの仏像が祀られていたことが伺えます。釈迦八相とは、お釈迦様の生涯の中でとても重要な8つの場面を再現したものをいいますが。こちらの東塔では、お釈迦様が釈迦国の王子として生まれながらも出家し悟りに至る前半生が表現されておりました。

 

 

 

 

東塔西塔、どちらも中はもちろん撮影が禁止されておりましたので、実物のお写真はございませんが、塔の4面をそれぞれ辿りながらお釈迦様の生涯を辿っていくのですが、その流れるような表現に知らず知らず引き込まれるように足をすすめておりました。

 

 

 

 

そして広い境内へででますと、そこには広い空が。この塔もお堂もこの青空も、1300年の前もこの同じ風景なのだな…。なんて思いますと、移り変わっているのは自分たちだけであって、この空間中で自分が1300年前に引き戻っていくような感覚が一瞬よぎりました。不思議な感覚ですね。

 

 

 

 

そんな1300年前の感覚のようなものを呼び起こしながら、薬師寺を後に。奈良の旅は続きます。

 

それではごきげんよう。

 

 

 

 

 

Hello everyone, this is Staff Y.

 

Today is the last day of a three-day weekend. How is everyone doing?

Unfortunately, the weather here in Nagoya is not so good. Today, some of you may be at home reviewing the recent Rugby World Cup or immersing yourself in the aftermath of the event. Although the result of the Japanese team was really disappointing, everyone would like to send a shout of praise to them, saying, “Thank you for a great game! It was a really good game, and everyone wants to send a shout of praise to them. I have been a big fan of rugby for a while now, and it is my dream to be there to support the World Cup someday. I would like to thank the Japanese team for their hard work.

 

Well, in the midst of such consecutive holidays, I tweeted the other day about the inauguration of the national treasure “East Pagoda” at Yakushiji Temple, and I said that I would like to visit the temple someday. To my surprise, I visited Yakushiji Temple the other day. Since I visited Nara on a special occasion, I went on a day-trip to the temple for a bullet-free night drive.

 

 

On the first day of the consecutive holidays, we finally arrived at Yakushiji Temple, which is located in the precincts of the temple.

 

The Yakushiji Temple is so large that it was difficult to get a full view of the temple.

 

 

The red pagoda on the left is the West Pagoda and the brown pagoda on the left is the East Pagoda, which was completed in April 2023 after 12 years of dismantling and major repairs.

In the 1300-year history of Yakushiji Temple, many buildings have been lost to fire, earthquakes, and typhoons, but the East Pagoda is the only remaining structure from the original construction of Yakushiji Temple and is the oldest structure in the Heijo-kyo Capital.

The East Pagoda has six roofs, but the interior is actually a three-story pagoda. The smallest roofs (the first, third, and fifth from the bottom) are called “mokoshi,” which are decorative roofs, and Yakushiji Temple is the only pagoda that had a mokoshi roof on each level. The balance of the large and small roofs is so beautiful that it is said to be “frozen music.

 

Although the east pagoda has undergone partial renovation several times, it was completely dismantled and repaired for the first time in its history in 2009, and the work was completed in February 2021. During this major renovation work, the four phases of the “Eight Phases of the Buddha” by Shinya Nakamura, a recipient of the Order of Cultural Merit, were newly enshrined in the temple.

 

According to the “Yakushiji Temple Engi,” the “Eight Phases of Shakyamuni” statues representing the life of Shakyamuni Buddha were enshrined in the east and west pagodas when the temple was built. They were made of clay, and many of the original “eight-phase Shakyamuni statues” were damaged, but the remaining fragments and records indicate that many statues of Buddha, including Shakyamuni, were enshrined against the backdrop of rocky caves and mountains and rivers. The eight phases of the Buddha’s life are reproductions of eight very important scenes in the Buddha’s life. In the East Pagoda, the first half of the Buddha’s life, from his birth as a prince in the Kingdom of Shakyamuni to his ordination and enlightenment, was reproduced.

 

Photography was prohibited inside both the East and West Pagodas, so I do not have any photos of the actual pagodas, but the visitors could trace the life of Lord Buddha by tracing each of the four sides of the pagodas.

Evoking such a feeling of 1,300 years ago, we left Yakushiji Temple and continued our journey in Nara.

 

Have a good day.

 

 

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スポーツの日何をしますか(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2023.10.08

皆さまこんにちは。スタッフTでございます。

 

 

残念ながら、今日からお天気崩れてしまうようですが、3連休いかがお過ごしでしょうか。今日は近くの小学校から運動会でしょうか、元気な声が聞こえてきました。明日はスポーツの日ですね。

 

 

1966年(昭和41年)もともと「体育の日」と呼ばれていた「スポーツの日」が、国民の祝日となりました。「スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう日」として制定された祝日です。現在の「スポーツの日(体育の日)」は、2000年(平成12年)から「ハッピーマンデー制度」が適用され、「10月の第2月曜日」と定められています。

しかし、皆さんご存じのこととは思いますが、「体育の日」が制定された当初は、「10月10日」に定められていました。では、何故「体育の日」は、1966年の10月10日なのでしょうか? これは、1964年の東京オリンピック開催に由来しています。

1964年に開催された東京五輪の開会式が10月10日だったため、これを記念して定められました。そこで、また「何故に開会式を10月10日にしたのか?」という疑問が湧いてきます。そこには「10月10日が晴れの特異日」であったことから開会式に決まったという話があるようです。

さらに歴史を遡ると、「体育の日」が「国民の祝日」となる以前にも「スポーツの日」というものが定められていた時期があるようです。

この「スポーツの日」は、1961年に定められた「スポーツ振興法」に基づくもので、第五条に「国民の間に広くスポーツについての理解と関心を深めるとともに積極的にスポーツをする意欲を高揚するため、スポーツの日を設ける」とのこと。

この時の「スポーツの日」は、10月の第1土曜日に定められていたものの「国民の祝日」ではありませんでした。1964年以前にあった「スポーツの日」と日付も近かったため「体育の日」と制定されたのかもしれません。

 

 

1964年の東京五輪の開会日が10月10日になったのは、「晴れの特異日」だったからというのは、本当でしょうか?

「特異日」とは、過去数十年の天気の結果から、「晴れ」などの特定の天気が現われる割合が、その前後の日と比べてとても多かった日のことをさして使われるようです。東京五輪開催が決定した1959年(昭和34年)発行の「気象学ハンドブック」では、10月14日と11月3日が晴れの特異日にあげられていたようですが、10月10日はあげられていなたったとのこと。しかし、天候に考慮したのは事実で、気象庁の統計や専門家の意見などから、東京から台風や秋雨前線が過ぎる頃で、晴れる確率がとても高く、土曜日にあたる10月10日が選ばれたようです。

実際にどうなったかというと、台風の影響で開会式前日まではぐずついた天気だったようですが、当日は一転して快晴。「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような、素晴らしい秋日和でございます」 というアナウンサーの言葉は、語り継がれている名言ですね。

 

 

「体育の日」の時期は、運動会シーズン。最近は、春に実施する学校が増えていますが、運動会は秋の風物詩のひとつでもありますね。また、毎年10月第2月曜日は3連休なのも嬉しいことのひとつです。気候もよく、体を動かすにはうってつけですので、スポーツに親しみ、健康を考えるきっかけにしようかなと思います。

ではでは、また

 

 

 

Hello everyone. This is Staff T.

 

 

Unfortunately, the weather is going to break from today, but how are you doing over the three-day weekend? Today, I could hear the cheerful voices of students at a nearby elementary school, as if they were on a field day. Tomorrow is Sports Day.

 

 

 

In 1966, “Sports Day,” originally called “Sports Day,” became a national holiday. It was established as “a day to engage in sports and promote a healthy mind and body. The current “Sports Day (Sports Day)” has been designated as “the second Monday in October” since 2000 (Heisei 12), when the “Happy Monday System” was applied.

However, as you are probably aware, when “Sports Day” was first established, it was set on October 10. Then, why was “Physical Education Day” set on October 10, 1966? This is because of the 1964 Tokyo Olympics.

It was established to commemorate the opening ceremony of the 1964 Tokyo Olympics, which was held on October 10. So, again, the question arises, “Why did you choose October 10 for the opening ceremony?” The question arises again, “Why was the opening ceremony held on October 10? There is a story that the opening ceremony was decided because October 10 was a “special day with clear skies.

Going further back in history, there was a time before “Sports Day” became a national holiday.

This “Sports Day” was based on the “Sports Promotion Law” established in 1961, and Article 5 states that “Sports Day is established to promote understanding and interest in sports among the public at large and to encourage people to actively engage in sports.

Sports Day” at that time was not a “national holiday” although it was set on the first Saturday in October; it may have been established as “Sports Day” because the date was also close to the “Sports Day” that existed before 1964.

 

 

 

Is it true that the opening day of the 1964 Tokyo Olympics was set on October 10 because it was a “special day with clear skies”?

 

The term “singular day” is used to refer to a day when a specific type of weather, such as “clear skies,” appeared more frequently than on the days preceding and following it, based on the results of weather conditions over the past several decades. In the “Handbook of Meteorology” published in 1959, the year the Tokyo Olympics were decided to be held, October 14 and November 3 were listed as specific days with clear skies, but October 10 was not listed. However, it is true that the weather was taken into consideration, and based on statistics from the Japan Meteorological Agency and the opinions of experts, October 10 was chosen as a Saturday with a very high probability of clear skies, around the time when typhoons and autumn rain fronts pass from Tokyo.

The typhoon had made the weather a little sluggish until the day before the opening ceremony, but on the day of the opening ceremony, the weather turned around and the skies were clear. The announcer said, “It’s a beautiful autumn day, as if we brought all the blue skies of the world to Tokyo,” which is a quote that has been passed down from generation to generation.

 

 

 

 

 

 

The “Sports Day” season is the season of athletic meets. Recently, more and more schools hold their athletic meets in the spring, but I think that athletic meets are one of the most popular autumn traditions. Another nice thing is that the second Monday of October is a three-day weekend every year. The weather is nice and perfect for physical exercise, so I think I will take this opportunity to become familiar with sports and think about my health.

See you soon!

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古伊万里の双龍 現代にもつながるデザイン(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2023.10.07

皆さまこんにちは。スタッフHでございます。

連日W杯やアジア大会などの様々な競技をTVで観戦することができ、どれを観ようか迷うほどです。まさにスポーツの秋ですね。

次回のアジア大会は2026年秋、ここ愛知県で開催されるそうです。今から楽しみです。

 

さて本日は古伊万里の染付皿に見入っています。約300年前とは思えないモダンなデザインに目を奪われます。

 

 

 

 

 

双龍が描かれていますが、緻密な絵というよりは一筆書きで描いたようなシンプルさです。ユーモラスな表情は一見すると人間の顔にも見えてきます。真ん中にどっしりと描かれた円は「月」でしょうか、それとも双龍とよくセットで描かれるという「宝珠」でしょうか。昇り龍と下り龍が宝珠を巡って争っているとも、守っているとも言われています。まさにドラゴンボール?といったところでしょうか。

しかし私の第一印象は陰陽思想を表す太陰太極図(陰陽太極図)でした。色も形も正確には違いますが、ぐるぐる回っているような印象があるからです。

 

 

 

 

調べてみると双龍自体が陰と陽を司っており、陰陽のバランスを調和し、成長や発展の運気を高める縁起物の文様となっていました。ちなみに陰陽とは中国で生まれた思想で、森羅万象、宇宙のあらゆる事物を陰と陽の二つに分類するというもの。太陽のように輝きを放ち外に向かって発展させていくものと、陰にはなるけれども内に向かって充実させていくものから成り立っているということです。両者は対立する存在ではなく、互いを補いながら同時に一つの物事を形つくっているといいます。お互いに引き立て合いながら、陰は行き着くとやがて陽に、陽は行き着くとやがて陰になり、どちらかが欠けてしまえば大きくバランスが崩れてしまうものなのだそうです。

日々の生活の中に取り込むと色々と頭が整理できるかもしれません。

 

また龍の周りには不思議な形の雲のようなものが浮いています。

中国古代の書物(易経)には「雲従龍風従虎」(雲は龍に従い、風は虎に従う)という禅語があるそうです。龍が現れると自然と雲が沸き上がり、虎は風を従えることによって早さと威を増す。立派な君主には自然と有能な臣下が集まることのたとえとされています。

それにしても描かれているのが雲なのだとしたらユニークな形です。なぜか以前綴ったアンリ・マティスの切り絵を思い起こさせます。器の中の世界がぐるぐると永遠に回り続けているようで、見れば見るほど不思議な感覚に襲われます。

 

双龍は京都建仁寺の天井画でも有名ですね。現在も様々な製品のモチーフとして使用され、若者にも人気だそうです。超ロングセラーのデザインといえますね。

 

 

 

 

それでは、またお会いしましょう。

 

 

Hello everyone. This is Staff H.

Every day we are able to watch the World Cup, Asian Games, and various other competitions on TV, and it is hard to decide which one to watch. It is truly the season of sports, isn’t it?

The next Asian Games will be held here in Aichi Prefecture in the fall of 2026. I am looking forward to it.

 

Today, I am looking at an old Imari plate. The modern design which is hard to believe that it is about 300 years old attracts my eyes.

It is simple as if it was drawn by one stroke rather than a precise picture. At first glance, the humorous expression on the face looks like a human face. Is the circle in the center of the painting a “moon” or a “jewel,” which is often depicted as a set with the twin dragons? It is said that the ascending and descending dragons are either fighting over the jewel or protecting it. Dragon Ball? Dragon Ball?

My first impression, however, was that it was a taiyin taiji diagram (yin-yang taiji diagram), which represents the concept of yin and yang. The color and shape are not exactly the same, but it gives the impression of going around in a circle.

 

When I looked into it, I found that the twin dragons themselves represent yin and yang, and the design was a lucky charm that harmonizes the balance of yin and yang and enhances the luck of growth and development. Incidentally, yin-yang is an idea born in China that classifies all things in the universe into two categories, yin and yang. The yin and the yang are composed of things that shine like the sun and develop outwardly, and things that are inwardly fulfilling, although they are yin. They are not in opposition to each other, but complement each other and form one thing at the same time. While complementing each other, yin eventually becomes yang, and yang eventually becomes yin, and if either one is lacking, the balance will be greatly disrupted.

If you incorporate this into your daily life, you may be able to clear your mind in various ways.

There is also a mysterious cloud-like shape floating around the dragon.

In an ancient Chinese book (I Ching), there is a Zen phrase “cloud follows dragon, wind follows tiger” (cloud follows dragon, wind follows tiger). When a dragon appears, clouds naturally boil up, and a tiger follows the wind to increase its speed and authority. It is said to be a metaphor for the fact that a worthy monarch naturally attracts capable subjects.

If it is a cloud that is depicted in the painting, it is a unique shape. For some reason, it reminds me of Henri Matisse’s paper cutouts, which I wrote about earlier. The more I look at it, the more I am struck with a sense of wonder.

The twin dragons are also famous for the ceiling painting of Kenninji temple in Kyoto. It is still used as a motif on various products and is popular among young people. It can be said to be a very long-selling design.

 

Well, I will see you again soon.

 

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どんな手帳がいいでしょうか(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2023.10.06

皆さまこんにちは、スタッフTでございます。

 

本日、名古屋は快晴。お日様の下では、まだ少し日差しが強いなと感じますが、木陰で過ごすには上着が一枚無いと肌寒く感じるほどです。つい最近まで30度を超えた気温だったなんて信じられないくらい、一気に秋が深まっていっていますね。

 

 

 

秋も深まるこの季節は、手帳選びのシーズンでもあります。皆さま、普段のスケジュール管理などに手帳はお使いですか?

 

気づけば2023年もあと3か月。早い方はもう新しい年に向けて準備を始めていらっしゃるのではないでしょうか。

文具店や書店には、専門のコーナーを設けて様々な種類の手帳が並べられていますね。定番のビジネス手帳をはじめ、思わず手に取りたくなるような可愛いイラストの手帳や、キラリと個性が光って見えるような手帳など様々。どれにしようか悩んでしまいますね。

 

 

そもそも手帳のはじまりはいつなのでしょうか。

「手帳」の原型となったのは、イギリスのレッツ社と言われています。

1976年、レッツ社の創業者であるジョン・レッツはロンドンで文具を扱う店を始めました。顧客から何かいろいろ記録できるようなものが欲しいとの要望があり、これに応える形で1812年、手帳(ダイアリー)を作ったとされています。
これが世界で初めての手帳と言われています。現在でもレッツ社の手帳は世界各国で多くの方に使用されているようです。

 

日本で初めて手帳を使った人は、皆さまご存じの「福沢諭吉」だそうです。

文久2(1862)年、欧州使節団の一行に加わった福沢諭吉(ふくざわゆきち)がパリで購入して持ち帰った『西航手帳』が、日本に手帳がもたらされたルーツだと言われています。
『西航手帳』あるいは『西航記』とも呼ばれるこの手帳は、フランス・パリのポルタン文具店で購入したもので、縦17㎝、横7㎝くらいの細長い黒革の表紙で、中は無地、見返しと三方の小口がマーブル模様が入っていたそうです。お洒落ですね。

 

 

日本の民間に初めて手帳が登場したのは明治13年(1880)。当時の住友銀行が、横浜にあった文具店・文寿堂(ぶんじゅどう)に依頼して作製した社名入りのものがそれのようです。

この手帳は、企業が年末年始に配る「としだま」としての手帳で、「年玉(ねんぎょく)手帳」とも言われ、社名が刻印され、社是・社訓のほか、年齢早見表や度量衡(どりょうこう)一覧などの情報が掲載されており、企業への帰属意識を高める役割も果たしていたようです。

日本で初めて本格的なビジネス手帳が作られたのは、戦後になってからのようで、昭和24年(1949)、日本能率協会の理事(当時)であった大野巌(おおのいわお)が、「時間目盛り」が付いた手帳を誕生させました。このタイムマネジメントが行える日本の最初の手帳が、「能率手帳」なのだそうです。

初年度に3,000冊を法人会員に配布したのが評判となり、昭和28年(1958)からは市販されるようになりました。
「能率手帳」を原型として、ビジネス手帳が普及していったようです。

 

これまで手帳の必要性を感じていなかった私ではありますが、ひとまず、自分好みのデザインの手帳を探してみたいと思っております。そして願わくば、三日坊主とならないように続けることを目標にしたいと思っております。

 

ではでは、また

 

 

Hello everyone, this is Staff T.

 

It is a beautiful sunny day here in Nagoya today. Under the sun, it still feels a little bit sunny, but it feels chilly without a jacket to spend time in the shade of a tree. It is hard to believe that the temperature was over 30 degrees Celsius just recently.

 

 

 

As autumn deepens, it is also the season for choosing a notebook. Do you use a notebook to keep track of your daily schedule?

I have just realized that there are only three months left in the year 2023. Some of you may have already started preparing for the new year.

Stationery stores and bookstores have special sections with a wide variety of organizers on display. There are notebooks with cute illustrations that make you want to pick one up, or notebooks that make your personality shine through. It is hard to decide which one to choose.

 

When did the organizer begin?

The original organizer is said to have been created by Let’s, a British company.

In 1976, John Letts, the founder of Letts, opened a stationery store in London. In 1812, in response to a request from a customer for something to keep track of various things, he created a diary.
This is said to be the world’s first diary. Today, LET’s diaries are still used by many people around the world.

 

The first person in Japan to use a diary was Yukichi Fukuzawa, who is well known to everyone.

In 1862, Yukichi Fukuzawa, who was a member of a delegation to Europe, bought a “West Passage Notebook” in Paris and brought it back to Japan, which is said to be the origin of the pocketbook in Japan.
The notebook, also called “Seikou Techo” or “Seikouki,” was purchased at the Portin stationery store in Paris, France, and had a long, narrow black leather cover measuring about 17 cm in length and 7 cm in width. Stylish.

 

 

 

The first pocketbook appeared in the Japanese private sector in 1880. The Sumitomo Bank of that time commissioned Bunjyudo, a stationery store in Yokohama, to produce a pocketbook with the company’s name on it.

This pocketbook, also known as a “Nengyoku Pocketbook,” was distributed by companies during the year-end and New Year holidays and was engraved with the company name and contained information such as the company creed, company precepts, an age chart, a list of weights and measures, etc., and apparently served to enhance a sense of belonging to the company.

The first full-fledged business notebook in Japan seems to have been created after World War II, and in 1949, Iwao Ohno, then director of the Japan Management Association, created a notebook with a “time scale”. The first organizer in Japan that enabled time management was the “Management Notebook.

In the first year, 3,000 copies were distributed to corporate members, which was well received, and in 1953, the organizer was put on the market.
The “Noukatsu Techo” was the prototype for business diaries, and it seems that business diaries became widespread.

 

 

 

 

Although I have never felt the need for a notebook before, I would like to start looking for a notebook with a design I like. And hopefully, I will make it my goal to keep on with it so that I don’t become a three-day monk.

 

 

See you soon!

 

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家康が本当に使用していたのか、気になります。(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2023.10.05

みなさまこにちは、スタッフYでございます。

 

先週までの暑さとは打って変わって、このところの朝は少々肌寒く感じたり、でも日中は暑かったりと、この寒暖差はさすがにしんどい。注意しておりませんと体調を崩されている方もおりますので、私も寝る時の寝具などは多種揃えて置いたりと(お見せできませんが)現在、寝床が大変なことになっておりますが、体調管理気を付けたいものですね。さ、本日も呟いていきますよ!。

 

ところで、先々週のNHK大河ドラマ「どうする家康」を見ておりますと、側室・於万の方とのやりとりのシーンにおいて、家康が薬を調合するシーンが登場しておりました。丸い車輪のようなものを両手でゆっくりまわしながら、漢方なるものの材料を調合し、すりつぶす「あれ」です。家康の人柄や趣味などがわかるよくあるシーンなのですが、今回の私の印象はちょっと違っておりました。

 

なぜなら、先日訪れた徳川美術館にてその実物と思われるものを拝見することが出来たからであります。前回の「らんまん」のドラマセットではないですが、実物を拝見しますと、ドラマでのその使い方やその再現度が妙に気になってしまい、TVの画面至近距離にて観察。それにしてもとても忠実に再現されているなぁと感心しながらも、先日拝見した実物とドラマセットのものを、勝手に脳内ですり替えて楽しんだりしておりました。

 

そんな家康のお馴染みのあの創薬の器具。

「薬研」というようですが、私が徳川美術館で拝見しました薬研は御銘がございまして。

正式には、「鉄線唐草蒔絵鉄薬研」と、言うそうです。

 

 

 

 

薬研は薬種を細かく粉状にすりつぶす道具なのですが、こちらの薬研、台の木口などに金の沃懸地を施し、脚には葵紋を透かし彫りにする他、輪鉄にも鉄線唐草の金蒔絵を施すなど、大名調度に相応しい豪華な薬研。家康は薬種調合を独自に行っていたようでして、家康の遺産「駿府御分物」にも大量の薬種や薬種道具が含まれております。

 

こちらの薬研は「駿府御分物」との確証は無いのですが、江戸時代後期には「駿府御分物」の「似寄品」と見なされ大切に保管されたお道具であります。どうやら様々な情報が一致するようでして、家康が本当に使用していたものではないかと言われております。それにても金蒔絵をふんだんに施し、それはそれは豪華でありました。

といいますか、実際に拝見しますとドラマセットの物より意外と大きい印象です。

 

そんな、家康の薬オタクの話は有名ですよね。

 

そのおかげでしょうか家康は75歳の天寿(当時の平均寿命では抜群の長寿)を全うしたようですが、その陰には家康流健康法が大いに貢献したのではないかと言われております。今でこそ、健康ブームとかセルフメディケーションの時代といわれておりますが、家康はその先駆者だったようです。

 

その一つ「医薬」では家康は大家であったようでして、3代将軍家光が3歳のおり大病を患い医者も匙を投げたのですが、家康が自家製の紫雪(しせつ:硝石など鉱物性生薬を主とする)という薬で救ったことは、春日局が日光東照宮に奉納した「東照大権現祝詞」に記載されております。また、出陣にあたり、生薬を配合した「御笠間薬」を笠のうらに隠して持ち歩き、陣中薬の先鞭をつけたのも家康のようです。

 

そして、李時珍の「本草綱目」を入手するために、わざわざ林羅山を長崎までつかわせたり、製薬器具の薬研(やげん)、乳鉢・乳棒などを身の回りに置いたり、宋の陳師文らが著わし、室町から江戸初期にかけての我が国の医学に大きな影響を与えた処方集『和剤局方』を熟読したり、薬草・薬木を栽培させたり(後の駿府御薬園)・・・とにかく医薬に対する熱意は半端でなく、また豊富な知識をもつ「オタク」失礼、「大家」だった話は尽きません。

 

そういえば、家康は大阪夏の陣のたしか二年後に亡くなっており、一生涯を戦いに明け暮れた、まさに戦国武将。想像を絶するそれはそれはストレスフルな一生だったのでとは思います。そう考えますとそのような状況下で長生きをした家康に、この創薬や健康法の貢献は間違いなく大きいと思えてきます。

また、「御笠間薬」を笠のうらに隠して持ち歩いたりしたなどと聞きますと、戦場において、戦いほのかにも生きるか死ぬかのまた違った戦いがあったのでしょうね。

 

それにしても、寒暖差に体調があーだこーだ呟いていた自分がだんだん恥ずかしくなってきましたので、この辺りで終わりといたします。

 

それでは、ごきげんよう。

 

 

 

Hello everyone, this is Staff Y.

 

The temperature difference between hot and cold is indeed very hard to bear. I have also put together a wide variety of bedding for sleeping (I can’t show it to you), and now my bed is in trouble, but I want to take care of myself. I’m going to start tweeting today, too!

 

By the way, while watching NHK’s historical drama “Dousuru Ieyasu” last week, there was a scene in which Ieyasu was mixing a medicine with his wife, Oman no Mata. In this scene, Ieyasu mixes and grinds ingredients for Chinese herbal medicine while slowly turning a round wheel-like object with both hands. This is a common scene that shows Ieyasu’s personality and hobbies, but my impression of the scene this time was a little different.

 

This time, however, my impression was a little different, because I was able to see what I believe to be the actual set at the Tokugawa Art Museum that I visited the other day. It was not the drama set of the previous “Ranman,” but when I saw the real thing, I became strangely interested in how it was used in the drama and how well it was reproduced, so I observed it at close range on the TV screen. I was impressed by the faithful reproduction of the actual set and the one I saw the other day in the drama set, and I was enjoying myself by switching them in my mind.

 

I was also amused by Ieyasu’s well-known device for drug discovery, which seems to be called a “yakken.

The Yakken I saw at the Tokugawa Art Museum has a special name. Officially, it is called “Tetsuyakken” (iron hammer with iron wire and arabesque design in maki-e lacquer).

 

This Yakken is a tool to grind medicinal seeds into a fine powder, and it is a gorgeous Yakken suitable for a feudal load, with gold iokagake-ji on the base, openwork carving of a hollyhock crest on the legs, and gold maki-e of an iron wire arabesque on the rim. Ieyasu seems to have been engaged in his own medicine preparation, and Ieyasu’s legacy “Sunpu Gobunmono” includes a large amount of medicinal seeds and tools.

Although there is no proof that this YAKUGEN is a “Sunpu Gobunmono,” it was considered a “likeness” of the Sunpu Gobunmono and was carefully preserved in the late Edo period. It is said to be the one that Ieyasu really used, as various information seems to be in agreement.

The gold maki-e on the box was also gorgeous, and it was unexpectedly larger than the one shown in the drama set.

 

Ieyasu is famous for his geekiness for medicines, isn’t he?

Ieyasu lived to be 75 years old (an outstandingly long life for the average life expectancy at that time), and it is said that Ieyasu’s health regimen may have contributed greatly to his longevity. Ieyasu was a pioneer in what is now known as the health boom and the age of self-medication.

 

 

He also had Lin Razan travel all the way to Nagasaki to obtain a copy of “Honzo Tsunome” by Ri Shichin, had a yagen, mortar and pestle, and other pharmaceutical tools around him, and carefully read “Wajaku Kyoho,” a collection of prescriptions written by Chen Shiwen and others in the Song Dynasty that greatly influenced Japanese medicine from Muromachi to early Edo period (1603-1867), He also had medicinal herbs and trees cultivated (in what would become Sunpu Goyakuen)… In any case, his enthusiasm for medicine was unbounded, and there are endless stories of his being a “nerd,” rude, and a “landlord” with a wealth of knowledge.

 

 

 

Ieyasu, by the way, died two years after the Osaka Summer Battle, and he was a true warlord who spent his entire life fighting in the war. I am sure that Ieyasu’s life was full of unimaginable stresses, but when you think about it, the contribution of these medicines and health methods to Ieyasu’s long life under such circumstances seems certain to be significant. I also heard that he carried “Mikasa-mayaku” hidden under his hat, so he must have had a different kind of battle, one in which he lived and died in the battlefield.

 

I am beginning to feel ashamed of myself for muttering about my health condition due to the difference in temperature…. So, I’ll end here.

 

Have a good day.

 

 

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