7月, 2024 - 風光舎 | 愛知・名古屋での骨董古美術買取 三重 岐阜 - Page 2

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FROMKYOTOOSAKA

【掛軸買取】尾張旭市のお客様より買取致しました。(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2024.07.25

 

尾張旭市のお客様より掛軸多数買取いたしました。

長年大切にされておりました御品をお譲りくださり、誠にありがとうございました。

 

只今、古美術風光舎では、ご家庭にございます骨董古美術品の買取も強化しております。

処分にお困りのお品などございましたらご相談ください。

なお、毎月18日の持込鑑定会では無料鑑定・買取・ご相談など、ご予約なしで承っております。

ご近所の皆さま、ご遠方のみなさまも、お気軽にお越しくださいませ。

 

 

*******************

 

 

ご実家の整理やお片付けなどをされている方のご相談などが多くございます。

お片付けなどくれぐれもご無理のないようになさってくださいませ。

風光舎では古美術品や骨董品の他にも絵画や宝石、趣味のお品など様々なジャンルのものを買受しております。

お片付けをされていて、こういうものでもいいのかしらと迷われているものでも、どうぞお気軽にご相談下さいませ。

また風光舎は、出張買取も強化しております。ご近所はもちろん、愛知県内、岐阜県、三重県その他の県へも出張いたします。

まずは、お電話お待ちしております。

 

 

愛知県名古屋市千種区姫池通

骨董 買取【古美術 風光舎 名古屋店】

TEL052(734)8444

10:00-18:00 OPEN

 

中国では人気のキャラクター?(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2024.07.24

皆さまこんにちは。スタッフHでございます。

今朝、出勤途中で見かけた沢山の日傘。最近は小さな子供から大人まで、また性別問わず日傘は必需品となっているようですね。様々な色や形のものを見かけました。サングラスに帽子、日焼け防止用マスクなど強い日差しに対するグッズがあふれていますが、パッと差すだけの日傘は中々手放せません。少し荷物にはなりますが…。

 

さて今、風光舎の入り口のウインドウには大きな中国の花入れが飾られています。交趾焼(こうちやき)と呼ばれるものです。

 

 

 

 

交趾とは現在のベトナム中部を指し、この地方から南方ルートを通り日本に来航した貿易船、「交趾船」によってもたらされたことから交趾焼と呼ばれるようになったとのこと。実際に制作されていた産地は明代後期の中国福建省南部の漳州(しょうしゅう)だとされています。

交趾焼は低火度で焼かれる鉛釉陶磁器で、緑(青)・黄・濃紫などの鮮やかな色彩と精緻な文様表現に特徴があります。現在は日本でも京都を中心に三彩の他にも瑠璃色や浅黄色など鮮やかな色彩のものがつくられています。

京都で交趾の生産が盛んに行われたのは江戸時代中期で、当時の中国清王朝の品が貿易船によって運び込まれ、京都の公家や僧侶、文人墨客と呼ばれる学者や茶人の興味を引き、愛用されました。

茶人が茶席で香合などとして使ったことにより、茶道の中心地である京都で陶工が交趾焼を作り始め、後に九谷など全国で作られるようになりました。現在は主に京都で作られており、陸や東アジアからもたらされた独特な色彩やデザインを今も引き継ぎ、京焼を代表する技法の一つともいわれています。

 

風光舎の交趾焼の花入れには四面に絵柄が描かれており、「猪八戒?」と思われる姿がまず目に留まりました。

もしやこの四面の絵は西遊記のメンバーかと思いきや、三蔵法師や孫悟空らしき姿は見あたりません。

猪八戒といえば子供の頃に観たTVドラマの「西遊記」の中で、常に何かを食べている食欲旺盛な姿が印象的で、そもそもどういうキャラクターなのかという疑問が湧いてきました。

猪八戒に関する言い伝えは様々あるようですが、もともとは天界の天の川の管理や大勢の水軍を指揮する天上の神様だったとか。しかしお酒好きで様々な悪事を繰り返し下界へ落とされました。ここまでで既に「えっ?」という感じの神様です。

下界で雌豚の体内に入り、太鼓腹、先のとがった耳、突き出た鼻の半人半豚の妖怪の姿で転生しました。西遊記ではその後三蔵法師と悟空に出会い天竺への旅を共にすることになっています。

日本ではあまり好意的に見られていない猪八戒ですが、欲望に正直で自由奔放な人間臭さが中国では人気で孫悟空人気を凌ぐほどだそうです。

猪八戒の名前には猪のもじが入っていますが、中国では猪は豚を意味し、十二支でも日本の猪は中国では豚で表されます。中国において豚は「多産」の象徴とされており、子だくさんになるという意味だけではなく「お金がお金を生んで裕福になる」という意味もあり縁起の良い動物とされています。

そういえば日本でも豚の形の貯金箱が昔は定番でしたね。豚の貯金箱からお金を取り出す時に、叩きつけて割るという、かなり荒っぽい方法がTVドラマなどで流れていました。一度やってみたかったのですが買ってもらえませんでした。今も売っているのでしょうか?

 

それでは、また次の機会に

 

 

Hello everyone. This is Staff H.

I saw many parasols on my way to work this morning. It seems that parasols have become a necessity for everyone these days, from small children to adults, regardless of gender. I saw many different colors and shapes. There are many goods to protect us from the strong sunlight, such as sunglasses, hats, and sun-protective masks, but a parasol that we can simply put on and off is something we can’t do without. It may be a bit cumbersome, but….

A large Chinese flower vase is displayed in the window at the entrance of the Fuhkosha. It is called “Kochi-yaki.

 

Kochi-yaki was brought to Japan by “Kochi-ship,” a trading ship that came to Japan from this region via the southern route. It is said that the actual production area was in Shouzhou in the southern part of Fujian Province in China in the late Ming Dynasty.

Koji ware is lead-glazed porcelain fired at low temperatures and characterized by vivid colors such as green (blue), yellow, and deep purple and exquisite patterns. Currently in Japan, especially in Kyoto, other vivid colors such as lapis lazuli and asagi are being produced in addition to sansai.

The production of kojiki in Kyoto flourished in the mid-Edo period (1603-1868), when items from the Qing Dynasty in China were brought in by trading ships and became the favorite of Kyoto’s court nobles, Buddhist monks, scholars called “literati” and “bokaku” (writers and artists), and tea masters.

Tea masters used them as incense containers at tea ceremonies, and potters in Kyoto, the center of the tea ceremony, began to make koji-yaki pottery, which later came to be made throughout Japan, including Kutani. Today, koji-yaki is mainly made in Kyoto, where it still retains the unique colors and designs brought from Riku and East Asia, and is considered one of the most representative techniques of Kyoyaki pottery.

Fumikosha’s koji-ware flower vases have designs painted on all four sides. The first thing that caught my eye was the figure of what appeared to be “Cho Hakkai,” or “The Eight Preceptors of Wild Boar.

I wondered if the four paintings were members of the Journey to the West, but I could not find any figures that looked like Sanzang-houshi or Sun Wukong.

Speaking of Cho Hakkai, the TV drama “Journey to the West,” which I watched as a child, left a strong impression of a man with a voracious appetite who was always eating something, which led me to wonder what kind of character he was.

There are various legends about Choha-kai. Originally, he was a heavenly god who managed the Milky Way in the heavenly realm and commanded a large navy. However, he loved to drink and repeatedly did various evil deeds, and was cast down to the lower realms. So far, he is already a “What? He is a god with a “what?” feeling.

In the lower world, he entered the body of a sow and was reincarnated as a half-human, half-pig demon with a drum belly, pointed ears, and a protruding nose. In the Journey to the West, he is supposed to meet Sanzo and Goku and travel with them to Jersey.

Although Choha-kai is not viewed favorably in Japan, his honesty with his desires and his free-spirited, human-like nature are said to be popular in China, even more so than Sun Wukong’s popularity.

Although his name contains the Chinese character for boar, in China boar means pig, and in the twelve signs of the Chinese zodiac, the Japanese boar is represented by the Chinese pig. In China, the pig is a symbol of “fertility” and is considered a lucky animal not only because it means to have many children, but also because it means “money begets money and makes you wealthy.

Come to think of it, pig-shaped piggy banks used to be a standard item in Japan as well. When taking money out of the piggy bank, I used to smash it and break it, which is a very rough way of taking money out. I wanted to try it once, but they did not buy it. Do they still sell them now?

Well, I’ll see you next time.

 

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ご実家の整理やお片付けなどをされている方のご相談などが多くございます。

お片付けなどくれぐれもご無理のないようになさってくださいませ。

風光舎では古美術品や骨董品の他にも絵画や宝石、趣味のお品など様々なジャンルのものを買受しております。

お片付けをされていて、こういうものでもいいのかしらと迷われているものでも、どうぞお気軽にご相談下さいませ。

また風光舎は、出張買取も強化しております。ご近所はもちろん、愛知県内、岐阜県、三重県その他の県へも出張いたします。

まずは、お電話お待ちしております。

 

愛知県名古屋市千種区姫池通

骨董 買取【古美術 風光舎 名古屋店】

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#出張買取#骨董#古美術#骨董品#絵画#版画#茶道具#刀剣#彫刻

 

 

【茶器・洋食器買取】名古屋市昭和区のお客様より買取致しました。(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2024.07.24

 

 

 

名古屋市昭和区のお客様より茶器と洋食器など買取いたしました。

長年大切にされておりました御品をお譲りくださり、誠にありがとうございました。

 

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愛知県名古屋市千種区姫池通

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涼しさを感じられる絵柄のお品です(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2024.07.23

皆さまこんにちは。スタッフHでございます。

朝から強い日差しが容赦なく照りつけていますね。

せめてもの癒しに涼しげなお品を紹介いたします。

こちら茶道における「茶箱点前」の道具の一つである「茶筅筒(ちゃせんづつ)」と呼ばれるものです。

江戸時代の品で、三日月や秋草の蒔絵が施されています。よく見ると小さな粒銀がちりばめられ、小さな茶筅筒の中に幻想的な世界が広がっています。

 

 

 

 

茶箱とは茶道で使われる長さ20cmほどの長方形の箱で、お茶を点てる道具が一式収まった携帯用の箱です。

その中で茶筅筒は茶筅を安定させるため、また他の道具の水濡れを避けるために茶筅を収納する筒です。竹でてきた柔らかい穂先が萎んで、この細い筒にすっぽりと収まります。

裏千家の茶箱点前には季節に応じて、花点前(春)、卯の花点前(夏)、月点前(秋)、雪点前(冬)があります。風光舎の茶筅筒は月点前で使われたのでしょうか。

 

茶箱の歴史は古く、千利休が野外でお茶を楽しむ野点に使ったり、旅先にお茶道具一式を入れて持ち運んだようです。

江戸時代後半、裏千家11代家元の玄々斎が利休形の茶箱を元に茶箱点前を創案したとされます。卯の花点前は雪月花のお点前を簡略化した茶箱のお稽古の最初に習うお点前で、13代円能斎が多少の改良を加え現在のお点前になったといわれています。

小箱から一つ一つ道具を取り出していき、終わりには綺麗に収まっていく様は流麗で無駄な動きがなく、見ているだけでも気持ちのいいお点前です。場所を選ばずに楽しめるのはいいですね。

 

ちなみに茶筅についてですが、日本国内で販売されている茶筅のうち国産のものは約3割。そしてそのほぼ全てが奈良の高山産だそうです。高山茶筅の歴史は室町時代後期まで遡ります。農業の傍ら茶筅づくりの技術を受け継ぎ、地名を「鷹山」から「高山」に改め茶筅づくりを続けてきました。高山茶筅を家業とするのは18軒だそうです。

茶筅づくりは一子相伝で伝えられてきたと言います。かなりの手先の器用さが求められる気がするのですが…。

薄茶を点てるなら、穂の数が多い「80~100本立」が綺麗な泡がたちやすいそうですが、穂先が早く摩耗しやすくなる側面もあるため、80本立がおすすめだそうです。

また少ないお湯で抹茶を練る濃茶では、ダマが残らずしっかり粘土を出すために、穂先がしっかりしている穂の数が50本以下の「荒穂」で点てます。

流派によっても使用する茶筅が変わるようで、裏千家や江戸千家では白竹でできた穂先が内側に曲がった形状のもの、表千家は赤茶色の煤竹、武者小路千家では紫竹で穂先がまっすぐな茶筅が使用されるなど素材や形状も様々なようです。

 

忙しい日々、静かにお茶をゆっくり点てる時間をあえて作るのもいいかもしれませんね。

 

それでは、また次の機会に。

 

Hello everyone. This is Staff H.

The strong sunlight has been shining on us mercilessly since this morning.

I would like to introduce a cool item to soothe you at least.

This is a chasen tsuzutsu, one of the utensils used in the tea ceremony.

It was made in the Edo period and is decorated with maki-e lacquer of crescent moons and autumn grasses. If you look closely, you can see small grains of silver scattered throughout the small tea whisk barrel, creating a fantastical world inside.

 

A tea box is a rectangular box about 20cm long used in the tea ceremony and is a portable box that contains a set of utensils for making tea.

The Chasen tsuzumi is a tube that holds the Chasen in order to stabilize it and to prevent other utensils from getting wet. The soft tip of the bamboo whisk fades and fits completely into this narrow tube.

Urasenke’s tea box tea ceremony includes Hana-temae(spring), Unohana-temae (summer), Tsuki-temae (autumn), and Yuki-temae (winter) according to the season. Was Fukosha’s Chasen-temae for Tsuki-temae?

 

The history of the tea box is long, and it seems that Sen no Rikyu used it for nodate (tea ceremony in the open air) and carried a set of tea utensils with him when he traveled.

In the latter half of the Edo period (1603-1867), the 11th Iemoto of the Urasenke School, Gentzai, is said to have invented the tea box tea ceremony based on the Rikyu-shaped tea box. Unohana-temmae is said to be a simplified version of the Setsugetsuka-temae, which is learned at the beginning of tea box practice, and was slightly modified by the 13th Ennosai to become the current style.

It is said that Ennosai the 13th added some improvements to it and made it into what it is today. It is nice to be able to enjoy it in any place.

 

By the way, about 30% of all tea whisks sold in Japan are made in Japan. And almost all of them are made in Takayama, Nara. The history of Takayama Chasen goes back to the late Muromachi period. The family inherited the technique of making tea whisks while farming, changed the name of the place from “Takayama” to “Takayama” and has continued to make tea whisks. It is said that there are only 18 families that make Takayama Chasen as their family business.

It is said that the art of making tea whisks has been handed down from one generation to the next. I have a feeling that it requires a great deal of dexterity.

If you want to make thin tea, it is said that “80 to 100 whisks” with a large number of whisks will produce beautiful froth, but the whisk with 80 whisks is recommended because the whisk tips tend to wear out quickly.

For Koicha (thick tea), in which matcha is kneaded with less hot water, “Araho” whisks with less than 50 tips are used in order to produce a firm clay without lumps.

The material and shape of the tea whisk seem to vary depending on the school, with Urasenke and Edo Senke using white bamboo with the tip bent inward, Omotesenke using reddish brown sooty bamboo, and Mushakoji Senke using purple bamboo with a straight tip.

 

In our busy days, it might be a good idea to make time for a quiet and leisurely tea ceremony.

 

See you next time.

 

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風光舎では古美術品や骨董品の他にも絵画や宝石、趣味のお品など様々なジャンルのものを買受しております。

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#出張買取#骨董#古美術#骨董品#絵画#版画#茶道具#刀剣#彫刻

 

 

【オメガの時計・煎茶道具・輪島塗の椀買取】名古屋市千種区のお客様より買取致しました。(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2024.07.23

 

 

 

名古屋市千種区のお客様よりオメガの時計、煎茶道具、輪島塗の椀を買取いたしました。

長年大切にされておりました御品をお譲りくださり、誠にありがとうございました。

 

只今、古美術風光舎では、ご家庭にございます骨董古美術品の買取も強化しております。

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風光舎では古美術品や骨董品の他にも絵画や宝石、趣味のお品など様々なジャンルのものを買受しております。

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お祝いごとを彩ってきた銀製品(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2024.07.21

皆さまこんにちは。スタッフHでございます。

銀にまつわる色々なお話をさせていただきましたが、本日は銀製品の中でも、お祝いや記念品として贈られることの多い銀杯とボンボニエールについて。

 

 

 

 

〈銀杯〉

日本では銀杯は伝統的な茶道具や祝い事の贈り物として用いられてきました。銀は魔除けの効果があるといわれ、江戸時代には将軍や大名への贈り物として、また結婚や出産などの慶事において用いられました。

銀杯と聞くと日本では100歳の長寿の祝いに内閣総理大臣から送られるものを思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。1963年の老人福祉法制定により9月15日を「敬老の日」に定めて以降、100歳を迎える高齢者には記念としてお祝いの杯を贈る制度が開始されました。当初は木杯でしたが数年後に銀杯に変わり、杯の中央に「寿」の文字と裏面に「内閣総理大臣」の文字が刻まれています。

長年、純銀製のものが贈られていましたが、2016年からは銅、亜鉛、ニッケルの合金に銀メッキしたものに変更されています。

 

銀杯は古代ギリシャやローマでも儀式やお祝いの場で使用されました。中世ヨーローッパの頃は貴族たちが祝宴の席で使用し、銀杯は地位や権力、栄光の象徴とされてきました。教会では聖杯としてキリスト教の聖体拝領の儀式で用いられ、銀細工職人たちは緻密なデザインを施した銀杯を制作し芸術的な価値を高めていきました。

 

〈ボンボニエール〉

フランス語の響きが優雅で可愛らしい「ボンボニエール」。もともとはヨーロッパで子供の誕生や結婚式などのお祝い事の際にボンボン(bonbon)と呼ばれる砂糖菓子が配られ、その菓子を入れる容器をボンボニエールと呼びました。その形式が明治時代に皇室に取り入れられ、素材として銀製のものが多いことから「銀のボンボニエール」と呼ばれています。大正時代から昭和時代にかけて流行し、皇室以外でも制作されるようになりました。

日本で初めてボンボニエールが登場するのは明治22年2月11日、大日本帝国憲法発布式にともなう宮中晩餐会だとされています。その後外国からの賓客を招いた宮中晩餐会や、皇室の儀式である、御誕生、御着袴、成年式、立太子、御結婚、御即位、銀婚式などで引き出物として配られました。日本の吉祥文様や皇室の紋章、皇族が個々に持つ「御印」を基にしたデザインなどが施されています。中には金平糖が入っていることが多いようで、手のひらに載るほどの愛らしい菓子器は皇室の御慶事を彩る品とし受け継がれています。

形式は西洋様式ですが、日本のボンボニエールはデザインなど独自の発展を遂げました。

明治時代の廃刀令で刀職人たちが職を失ったことから、職人の生活支援と受け継がれてきた高度な技を維持するという理由で刀職人たちがボンボニエールの製作に携わったようです。兜や和船形などの日本の伝統的なものを模したデザインのボンボニエールも数多く作られ、金属工芸品として外国で称賛され、日本の伝統文化を伝える媒体としての役割も果たしました。

 

銀製品は食器やカトラリー、ジュエリー、茶道具、酒器、仏具など様々ありますが、美術品や骨董品としての価値により銀そのものの値段よりも査定額が高くなる場合もあります。銀の純度や重さの他にも保存状態や制作者の名声、デザインの希少性などが付加価値となることもあり、作品が入っていた箱や証明書がある場合も査定額が上がる要因となります。

ご自宅に眠っている銀製品など、価値が分かりにくいお品がございましたらご相談ください。

 

それでは、また次の機会に。

 

 

Hello everyone. This is Staff H.

Today, I would like to talk about silver cups and bonbonnieres, which are often given as gifts for celebrations and souvenirs.

 

Silver cups

In Japan, silver cups have been used as traditional tea utensils and gifts for celebratory occasions. Silver is said to ward off evil spirits, and in the Edo period (1603-1867), it was used as a gift for shoguns and feudal lords, and for celebratory occasions such as marriages and births.

In Japan, the word “silver cup” may remind many people of the cup sent by the prime minister to celebrate the 100th birthday of a person who has reached 100 years of age. Initially, the cups were made of wood, but a few years later they were replaced by silver cups with the word “Kotobuki” (longevity) engraved in the center of the cup and the words “Prime Minister” on the reverse side.

For many years, the cup was presented in sterling silver, but since 2016 it has been replaced by a silver plated alloy of copper, zinc, and nickel.

 

Silver cups were also used in ancient Greece and Rome for ceremonies and celebrations. In medieval Europe, it was used by the nobility at festive banquets, and silver cups were considered a symbol of status, power, and glory. In churches, it was used as a chalice in Christian communion ceremonies, and silversmiths produced silver cups with intricate designs, enhancing their artistic value.

 

Bonbonnier.

The French word “bonbonniere” has an elegant and lovely sound. Originally, sugar confections called “bonbons” were distributed at celebrations such as births and weddings in Europe, and the containers for these confections were called “bonbonnières. This form was adopted by the imperial family during the Meiji period (1868-1912) and is called a “silver bonbonniere” because it is often made of silver. It became popular from the Taisho period to the Showa period, and was also produced outside the imperial household.

Bonbonnieres first appeared in Japan on February 11, 1889, at the Imperial banquet held in conjunction with the promulgation of the Constitution of the Empire of Japan. After that, bonbonniere were distributed as gifts at court banquets to which foreign guests were invited, and at imperial ceremonies such as births, ceremonial hakama, coming-of-age ceremonies, coronation ceremonies, marriages, coronation ceremonies, and silver wedding ceremonies. They are decorated with Japanese auspicious patterns, the imperial family crest, and designs based on the “goin” seals that each member of the imperial family holds individually. The bowls are often filled with kompeito (kompeito sugar), and these adorable confectionery vessels, which are small enough to fit in the palm of the hand, have been passed down through the generations as items that add color to the Imperial family’s celebrations.

Although the form is Western in style, Japanese bonbonnieres have developed in their own unique way, including design.

Since swordsmiths lost their jobs during the Meiji period (1868-1912) when the Sword Law was abolished, swordsmiths were involved in the production of bonbonnieres in order to support their craftsmen and maintain the advanced skills that had been passed down from generation to generation. Many bonbonnieres were designed to resemble traditional Japanese objects such as helmets and wafune shapes, and were praised in foreign countries as metal crafts, serving as a medium for communicating traditional Japanese culture.

 

Silver products include tableware, cutlery, jewelry, tea ceremony utensils, sake cups, Buddhist ritual utensils, etc. In some cases, the appraisal value is higher than the price of the silver itself due to its value as art or antique. In addition to the purity and weight of the silver, the condition of preservation, fame of the creator, and rarity of the design may also add value.

Please contact us if you have any silver items at home whose value is difficult to be determined.

 

See you next time.

 

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ご実家の整理やお片付けなどをされている方のご相談などが多くございます。

お片付けなどくれぐれもご無理のないようになさってくださいませ。

風光舎では古美術品や骨董品の他にも絵画や宝石、趣味のお品など様々なジャンルのものを買受しております。

お片付けをされていて、こういうものでもいいのかしらと迷われているものでも、どうぞお気軽にご相談下さいませ。

また風光舎は、出張買取も強化しております。ご近所はもちろん、愛知県内、岐阜県、三重県その他の県へも出張いたします。

まずは、お電話お待ちしております。

 

愛知県名古屋市千種区姫池通

骨董 買取【古美術 風光舎 名古屋店】

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10:00-18:00 OPEN

#出張買取#骨董#古美術#骨董品#絵画#版画#茶道具#刀剣#彫刻

 

 

エッシャー展へいってきました。(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2024.07.20

皆さまこんにちは、スタッフYでございます。

 

先日、豊田市美術館にて開催されております「エッシャー展」行って参りました。詳細は後ほどお伝えするといたしまして、早速いってみましょう。

 

 

 

 

エッシャーといえば数々のだまし絵が有名ですよね。かつての美術の教科書などで見たことを思い出して、あぁ!と思い出す方もいらしゃるのではないでしょうか。そんな彼の技法やデザインもそうなのですが、木版画そのものの精巧さの進化にも驚かされる展覧会でありました。

 

 

球体の中には彼の姿が

 

エッシャーについて少しご説明いたしますと、

正式名は、 マウリッツ・コルネリス・エッシャー。1898‒1972年オランダ生まれでありまして、みる人に驚きと発見を与え数学者やアーティストから子どもたちにまで世界的に人気の高い版画家であります。

 

ある形で平面をくまなく覆い尽くす「テセレーション(敷き詰め)」、一つの形が次第に別の形へと変形する「メタモルフォーゼ(変容)」など、人間の視覚や錯覚を利用した緻密で幾何学的な画風が特徴的でして、今回の展示は、オランダのエッシャー財団の全面的協力のもと、初期のイタリアの風景から「だまし絵」的な代表作まで約160点を一堂に展示。かつてどこかで見たことのあるだまし絵も多数展示されておりました。

 

写真撮影可能ということで、お写真多めでご紹介いたしましょう。

 

まずお気づきかと思いますが、これらはすべて木版画という手法で表現されていることに驚かされます。エッシャーはその生涯に400点以上の作品を残しているのですがすべてが版画であり、驚くことに水彩画や油彩画はありません。

 

版画というジャンルにこだわり続け、あらゆる技法に精通し使いこなしたこと、そして納得のいくものができるまで妥協しない姿勢と粘り強さ、それらを考えても、エッシャーの在り方はひとつの分野に専心する「職人」に近いのでしょうか。近くで鑑賞しますとその精巧さと様々なチャレンジに引き込まれていきます。

 

 

「蔵書票」

およそ10センチ四方ほどの作品でしたが、線の表現が異次元ですね。(うまく表現ができませんが笑)

 

 

 

「物見の塔」 1958年 リトグラフ

 

ご存じの方もおいででは。一見普通の建物に見えますが、しばらく見ておりますと柱や階段があれあれ?どうなっているんだ…。と、解決のつかぬまま見続けてしまいます。

 

 

「相対性」 1953年 リトグラフ

 

こちらも。もはや自分が立っているのか、わからなくなります。

 

 

「バベルの塔」 1928年 木版

 

そして、そんな彼のもう一つの試みが、ある形で平面をくまなく覆い尽くす「テセレーション(敷き詰め)」、一つの形が次第に別の形へと変形する「メタモルフォーゼ(変容)」。こちらはテセレーションを表現した作品の拡大した展示物。

 

 

「太陽と月」 1948年 木版(こちらは、拡大した展示)

 

 

エッシャーにとって重要な意味を持っている経験がスペインのアルハンブラ宮殿訪問でして、彼は二回アルハンブラ宮殿を訪れております。

教義によって偶像が禁止されているイスラム教では、動物や人間のイメージの代わりに抽象的な文様が発展してあおり、そのアルハンブラの壁を飾る幾何学文様もそのひとつ。その緻密な計算に基づいた「無限に続くパターンがつくり出す美」にエッシャーに強い感銘を受け、それは「太陽と月」のような「テセレーション(敷き詰め)」を表現した作品として生まれていきます。

 

そして、もう一つの表現「メタモルフォーゼ(変容)」の代表作。

 

 

メタモルフォーゼⅡ 1939-40年

 

 

それにしても、エッシャーの画歴を見渡してると、「粘り強さ」「試行」「精巧」などなど作品のすばらしさの他にたくさんの言葉が浮んできますし、どの年代の作品もチャレンジが尽きない。

 

また、共に版画という技法を何故選んだのか、そこも気になってきます。原画から版板、紙へと転写する過程で変化・進化しうるし、また版板や紙の状態や木目などがもたらす影響も予測できない手のかかる版画の技法を選んだことも、彼にとってはまた一つのチャレンジだったのでしょうか。

 

実際に、エッシャーは自分のことを「芸術家」ではなく「版画家」と考えていたようで、この事からも、エッシャーの「版画」に対する誇りと思いや彼自身そうありたいと願っていたであろう姿が伝わってきますね。

 

色々な作品を鑑賞しましたが、実に興味の尽きない展覧会でした。

それにしても、デジタル社会を生きる私たちが今の時代とは真っ向違うアナログな版画という手法で想像力豊かなエッシャーの作品を観ていますと、作品のから伝わる迫力も相まってでしょうか、現在のデジタルをも超越しているような錯覚を自分は感じました。敵わないな…。

 

百聞は一見に如かず。

是非足を運んで、エッシャーの世界にふれてみてください。

ご一読ありがとうございました。

 

それでは、ごきげんよう。

 

企画展「エッシャー 不思議のヒミツ」
会期:2024年7月13日(土)〜9月23日(月・祝)
会場:豊田市美術館 展示室6・7・8
住所:愛知県豊田市小坂本町8-5-1
開館時間:10:00〜17:30(入場は17:00まで)

 

 

Hello everyone, this is Staff Y.

The other day, I visited the “Escher Exhibition” at the Toyota Municipal Museum of Art. I will tell you the details later, but let’s get started.

 

Escher is famous for his numerous trompe l’oeil paintings. Some of you may remember seeing his works in your art textbooks in the past! You may remember his techniques and designs. The exhibition was a surprise not only for his techniques and designs, but also for the evolution of the sophistication of the woodblock prints themselves.

 

Let me explain a little about Escher,

Maurits Cornelis Escher, born in the Netherlands between 1898 and 1972, is a printmaker who is popular worldwide among mathematicians, artists, and children alike for his ability to inspire wonder and discovery.

 

His works are characterized by a precise and geometric style that makes use of human vision and optical illusions, such as “tessellations,” in which one shape covers an entire flat surface, and “metamorphoses,” in which one shape gradually transforms into another. This exhibition, with the full cooperation of the Escher Foundation in the Netherlands, brings together approximately 160 works, ranging from early Italian landscapes to representative “trompe l’oeil” style paintings. Many trompe l’oeil paintings that we have seen somewhere before were also on display.

 

Since photography was allowed, I will introduce them here with many photos.

 

First of all, as you may have noticed, you may be surprised to know that all of these works are expressed by the technique of woodblock prints. In his lifetime, Escher left more than 400 works, all of which are prints, and surprisingly, none of them are watercolors or oil paintings.

Considering his persistence in the genre of printmaking, his mastery and mastery of all techniques, and his uncompromising attitude and tenacity until he was satisfied with his work, it would seem that Escher was more like a “craftsman” dedicated to a single field. When viewed up close, the exquisiteness of his work and the various challenges he undertakes will draw you in.

 

Some of you may know this tower. At first glance, it looks like an ordinary building, but after looking at it for a while, you may wonder what is going on with the pillars and stairs. What is going on? You will keep looking at it without finding a solution.

 

This one, too. I no longer know whether I am standing or not.

Another of his attempts is “tessellation,” in which a certain shape covers the entire plane, and “metamorphosis,” in which one shape gradually transforms into another. This is an enlarged version of a tessellation work.

 

An experience of great significance to Escher was his visit to the Alhambra Palace in Spain, which he visited twice.

 

In Islam, where idols are forbidden by doctrine, abstract patterns have developed in place of animal and human images, including the geometric patterns that adorn the walls of the Alhambra. The geometric patterns that adorn the walls of the Alhambra are one such example. Escher was strongly impressed by the “beauty created by endless patterns” based on precise calculations, and these patterns were born as works expressing “tessellations” (paving) such as the “sun and moon”.

 

Looking over the history of Escher’s art, words such as “tenacity,” “trial,” and “elaborate” come to mind in addition to the wonder of his works, and there is no end to the challenges in his works from any age.

 

I am also curious as to why both artists chose printmaking as their medium of choice. Was it a challenge for him to choose printmaking, which is a difficult and unpredictable technique that can change and evolve in the process of transferring the original to plate and paper, as well as the effects of the condition of the plate and paper and the grain of the wood?

 

In fact, it seems that Escher considered himself a “printmaker” rather than an “artist,” which shows his pride and passion for “printmaking” and his wish to be one.

 

I saw a variety of works and found the exhibition to be very interesting.

However, as we live in a digital society, looking at Escher’s richly imaginative works using analog printmaking, a technique that is completely different from the current era, I felt the illusion of transcending the current digital world, perhaps due in part to the power of the works themselves. I felt as if the works transcended even today’s digital technology, which is something I cannot compete with.

 

Seeing is believing. I highly recommend you to see the exhibition in person. Thank you for reading.

 

Have a good day.

 

Special Exhibition “Escher: The Secret of Wonder
Dates: July 13, 2024 (Sat) – September 23, 2024 (Mon)
Venue: Toyota Municipal Museum of Art, Exhibition Room 6, 7, 8
Address: 8-5-1 Kosakamoto-cho, Toyota City, Aichi Prefecture
Hours: 10:00 – 17:30 (Admission until 17:00)

 

 

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いよいよ夏本番です(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2024.07.19

皆さまこんにちは。スタッフTでございます。

昨日はお暑い中、鑑定会にご来店いただきまして、ありがとうございました。

 

こちら東海地方も梅雨明けしまして、いよいよ夏本番です。まとまらない髪のうねりとおさらばし、猛烈な日差しと闘う日々がやってまいります。これまで控えめに鳴いていたような気がするセミの鳴き声もこれから力強さを増してくることでしょう。

 

 

それにしても、あれだけ大きな鳴き声を響かせるセミですが、その生き様は短く、儚いことは小学生でも知っているところ。道端でひっくり返り、儚い一生を終えたセミの姿を、夏になるとよく見かけますが、もしかして「セミの一生は長い」ので儚くないのでは?

 

ちなみに、日本には全部で34種類ほどのセミが生息しているのだそう。名古屋の地域で鳴き声をよく聞くクマゼミ、羽が茶色いアブラゼミ。夏の終わりになくツクツクボウシなど。

セミも大型・小型に分かれるそうで、たとえば、大型に属するアブラゼミ。油で何かを揚げているような鳴き声だからアブラゼミという名がついたと言われていますが、夏の成虫の間に木の幹に卵を産みます。その卵が孵化するのは翌年の梅雨どき。
孵化した幼虫は土の中へ潜っていき、セミの一生の大半は土の中で過ごすことになります。

 

この潜る時の土の固さ(保水率)の違いが、種類によって生息地が違う理由の一つなのだそう。孵化した幼虫が土の中に潜る時、地面が固ければ幼虫が土にもぐるときに力が必要なので、大きな力が必要になります。

逆に地面がやわらかければ力は弱くても大丈夫です。そういった点から、地面が固い地域は大型のセミ、地面がやわらかい地域は小型のセミが見つかるという違いになるようです。

都市部では大型のセミを見やすいというのは、土が固いからなんですね。

 

その土の中にいる時間は、なんと3~17年にもおよびます。 セミの種類にもよりますが、3年以上も土の中(暗黒の地下生活)にいるとは驚きです。地中で長い時期を成虫になるために過ごすことはよく知られていますが、地上に出てきてからのセミの寿命は、1週間から1カ月の場合も。

セミが成虫になってからは、1週間くらいの寿命といわれていますが、環境さえ整えば1カ月くらいは生きられるともいわれています。とはいえ、人間をはじめ、外敵&天敵が多いため外で長期間生きるのはセミにとって、かなり難しいことのようです。例えば外敵&天敵には、人間、カラス、猫、鳥、肉食の蜂・蟻とさまざま。セミにとって、地上で生きるのって大変なんです。

 

ちなみに鳴き声を発することができるのはオスのみ。メスに合図を出すために、オスはあのような鳴き声を発しているのです。あの鳴き声のおかげで、他の昆虫に比べてオスとメスが出会う確率が高いといわれています。子孫繁栄のために、生きているわずかの時間で自らの使命を果たすのですから、これが、儚い一生と捉えられる所以なのですね。

 

またセミは種類によって、出てくる時期、鳴く時間が違います。ずっと鳴いているかと思いきや、鳴いている時間と鳴いていない時間があるんですね。

クマゼミは午前中。数が多い時期は一日中。

アブラゼミは早朝鳴き、一旦お休みして午後から。

ミンミンゼミは気温が高くなる日中。

ツクツクボウシとニイニイゼミは終日。

ヒグラシは朝夕という感じです。

理由の一つとして、同じ時間に鳴くとメスが迷ってしまうからとも言われています。

 

ちなみに、セミがもし人間と同じ大きさだとして、東京タワーにとまったとしたらどこまで声が届くと思いますか?

答えは鹿児島県までだそうです。

すごくないですか?しかも、樹液という低カロリーな食べ物であれだけの大きな声を出して鳴けるなんて。

私たちが目に触れる期間はわずかですが、満を持して地上に登場してくるセミ。短命どころか、よくよく考えますと長寿でした。儚くみえますが、実は強くたくましい一生といえるかもしれません。

 

ではでは、また。

 

Hello everyone. This is Staff T.

Thank you very much for coming to the appraisal session yesterday in the heat of the day.

The rainy season has ended here in the Tokai area, and summer is finally in full swing. The days are coming when we will have to put aside the unruly swell of our hair and fight against the intense sunlight. The cicadas, which until now seemed to be chirping subduedly, will be singing with increasing intensity.

 

Even elementary school students know that the life of the cicada is short and ephemeral, despite its loud chirping. Cicadas are often seen on the side of the road in the summer after their fleeting lives, but perhaps they are not fleeting because “the life of a cicada is long.

 

Incidentally, there are about 34 species of cicadas in Japan in total. The kuma-zemi, whose chirping is often heard in the Nagoya area, and the abura-zemi, whose wings are brown. The tsukutsukuboushi, which is a species of cicada that appears at the end of summer, is one of the most common cicadas.

Cicadas are also divided into large and small ones, such as the abrazemi, which belongs to the large category. It is said that the name “abrazemi” comes from the sound it makes as if it is frying something in oil, and it lays its eggs on tree trunks during the adult summer season. The eggs hatch during the rainy season of the following year.
The hatched larvae burrow into the soil, where they spend most of their lives.

 

The difference in soil hardness (water retention rate) when they burrow into the soil is one of the reasons why different species live in different habitats. When the hatched larvae burrow into the soil, if the ground is hard, the larvae need a lot of force to burrow into the soil.

On the other hand, if the ground is soft, less force is needed. From this point of view, it seems that the difference is that large cicadas are found in areas where the ground is hard, and small cicadas are found in areas where the ground is soft.

The reason why it is easier to see large cicadas in urban areas is because the soil is hard.

 

Cicadas spend from 3 to 17 years in the soil. Depending on the type of cicada, it is surprising that they spend more than three years in the soil (dark underground life). While it is well known that cicadas spend long periods of time underground to become adults, the lifespan of a cicada once it emerges from the ground can range from one week to one month.

Once a cicada becomes an adult, its life span is said to be about one week, but it is also said that it can live for about one month if the environment is suitable. However, it seems to be quite difficult for cicadas to live outside for a long period of time because of the many external and natural enemies, including humans. For example, the cicada’s natural enemies include humans, crows, cats, birds, carnivorous bees and ants, and many others. It is very difficult for cicadas to survive on the ground.

 

Incidentally, only the male cicada can emit a call. The male cicada emits such a cry in order to signal the female. Because of this, it is said that males and females have a higher chance of meeting than in other insects. This is the reason why they are considered to have a fleeting life span, as they fulfill their mission in the little time they have to live in order to procreate.

 

Cicadas also differ in the time of their appearance and the duration of their chirping, depending on the species. Cicadas have different times of the day and different times of the day when they are singing.

The kuma-zemi sings in the morning. When there are a lot of them, they sing all day long.

Abura-zemi chirps early in the morning, then takes a break and chirps in the afternoon.

Minminzemisemisemi sing during the day when the temperature is higher.

Tukutukuboshi and Ninii Zemi are all day long.

The brown-headed cowbirds sing in the morning and evening.

One of the reasons for this is that cicadas chirp at the same time of the day, which makes the female cicadas lose their way.

 

By the way, if a cicada were the same size as a human and perched on Tokyo Tower, how far do you think its voice would reach?

The answer is as far as Kagoshima Prefecture.

Isn’t that amazing? And how can a cicada make such a loud cry with such a low-calorie food source as sap?

Cicadas are only visible to us for a short period of time, but they appear on the ground with their full potential. Not only are they short-lived, they are also long-lived when you think about it. It may seem ephemeral, but in fact, it may be said that it has a strong and vigorous life.

 

See you soon.

 

 

 

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日進市白山宮足王社の社殿がとても進化系でした。(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2024.07.18

みなさまこんにちは、スタッフYでございます。

 

暑い日が続いておりますが、そうはいっても友人とどこか出かけてみようという話になりまして。先日気になっていました愛知県日進市の「白山宮」へ行って参りました。

 

なんだ、いつもの神社巡りなのか笑…と、思いきやそこはちょっと違うんですよ。

百聞は一見に如かず。とりあえず画像をみてみましょうか。

 

 

 

 

 

 

 

日進市白山宮の中にあります足王社であります。

 

白山宮の創立年代は不詳なのですが、境内に古墳があることから古い年代に求めることができ、加賀国白山のご分霊を勧請した近郷無双の古社であります。また、大永3年(1523)本郷城主、丹羽若狭守氏清(天文7年岩崎へ移城)が始めて祭祀を司ったとの記述も残っております。

近年では、夏の茅ノ輪祭をはじめ多くの祭礼に年間を通じ数万人の参拝者が訪れ、地元の方に愛される神社といったところでしょうか。

 

 

 

 

その白山宮の中にある足王社なのですが、ここには「痛みとり石」この石を手でさすり、痛みのある患部を撫でると痛みがとれたとの言い伝えがのこる伝説の石がまつられております。

 

 

 

 

昔、飯田街道の裏街道と呼ばれた街道が日進市藤島町にあり、商人や旅人達が道中の足の安全を祈願する足名椎神をお祀りするほこらがあり、時代の流れと共に街道を行き交う人々も少なくなり、 街道隣接(藤島町大根)の山本邸に祀られていたものを終戦前後に当宮に勧請したのが起源とされるようになり、「足腰の神様」として有名になりました。

 

こちらの社殿の裏側、足王社の本殿内部の中央の神様の真下に「痛みとり石」は鎮座しておりますが、足腰の神様ということで「サッカー神社」とも呼ばれるようになり、日本代表のエンブレムがはいった御守、絵馬も授与され全国よりサポーターも参拝されているそうです。

 

それにしてもこの社殿は斬新ですね。社殿の屋根と一体化した回廊がうねうねと波うち、その空間中から社殿の奥の緑と清々しい風を感じ取れます。2017年に建造された社殿ですが設計の観点から読み取りますと…。

 

社殿の基本となる軸は南北に取り、参拝者がたどる経路は一方的な直線ではなく、多様で回遊的なものとています。社は細い木を組み合わせてつくられ、木の隙間から漏れる光や杜からの風を感じながら誘われ礼拝するようになっています。御神体の背後に光と木の柔らかな曲線に満たされた「洞の参道」に歩み入り、痛みとり石に触れ、帰途につくとき、杜と一体であることを実感できることを意図して設計されているそうです。

 

 

 

 

御神体の背後には光と木の柔らかな曲線に満たされた「洞の参道」があるのですが、そこに歩み入り「痛みとり石」に触れ(現在は手で触れてることはできません)帰途につくと、杜と一体であることを実感しながら通り抜けます。この社殿は遠くからただ拝むのでなく、杜の一部として神様を身近な存在の触れまた歩み出すような一連のかかわりを願ってこのような様式になっているのですが、まずは設計の意図など知らない状態で参拝をいたしました。

 

そして、後からその設計の意図を知りますと、なるほど。そのとおりでして、知らぬ間に参拝をして「洞の参道」にて「痛みとり石」に触れ(実際には触れていませんが)、より身近に、そして流れるような一連の参拝でありました。そして、拝殿から遠ざかったとしても、その印象的な景色がいつまでも脳裏に残ります。また、斬新な意匠ではあるのですがすっかり社に馴染んでいることにも気づきます。

 

ところで、神社の建築様式も神明造、大社造などなどありますが、その建築様式が必ず決まったものでなくてもよいとことにも驚いたのですが、ありなんですね。

とても斬新な足王社ですがその設計の意図がわかりますと、神様を大切に祀り心地よく参拝してもらいたい気持ちはどんな社殿においても同じ気持ちなのだということもわかりました。

そんな斬新な社殿にて足腰の健康を祈願し、清々しい気持ちと共に白山宮足王社を後に致しました。

 

それではごきげんよう。

 

 

 

Hello everyone, this is Staff Y.

 

It has been a hot day, but even so, my friends and I decided to go out somewhere. The other day, I went to “Hakusan Shrine” in Nisshin City, Aichi Prefecture, which I had been curious about.

 

What a surprise…it was just the usual shrine tour…but it was a little different.

Seeing is believing. Let’s take a look at the pictures for now.

 

This is Ashio Shrine in Hakusan Shrine in Nisshin City.

 

The date of establishment of Hakusan Shrine is unknown, but the presence of an ancient burial mound in the shrine’s precincts suggests an early date. It is said that Ujikiyo Niwa Wakasa no Mamoru, the lord of Hongo Castle (moved to Iwasaki in 1523), first performed rituals at the shrine.

In recent years, the shrine has been visited by tens of thousands of worshippers throughout the year for many festivals, including the summer Kayanowa Festival.

 

The Ashio Shrine is located in the Hakusan Shrine, where a legendary stone is enshrined that if one rubs the stone with one’s hand and caresses the affected part, the pain will be gone.

 

In the old days, there was a road called “Ura-Kaido” in Fujishima-cho, Nisshin City, where merchants and travelers prayed for the safety of their feet along the way. It is said that the shrine became famous as the “God of Legs and Backs.

 

The “pain relief stone” is located behind this shrine pavilion, directly under the central deity in the main hall of Ashio Shrine.

 

The shrine pavilion is very innovative. The corridor, which is integrated with the roof of the shrine building, undulates in waves, and from within this space, one can feel the greenery behind the shrine building and the refreshing breeze.

 

The basic axis of the shrine is north-south, and the path taken by visitors is not a one-way straight line, but a diverse and circuitous one. The shrine is made of a combination of thin trees, and visitors are invited to worship while feeling the light leaking through the gaps between the trees and the breeze from the forest. The shrine was designed with the intention that visitors will feel at one with the forest when they walk into the “Cave Approach,” filled with light and the soft curves of the trees behind the sacred body, touch the pain-taking stones, and return home.

 

Behind the sacred body is a “cave path” filled with light and soft curves of wood, and when you enter the path, touch the “pain-relieving stone” (currently not accessible by hand), and return home, you will feel at one with the forest. This shrine pavilion is designed in such a way that you do not just worship from a distance, but rather, as a part of the forest, you touch God as if you are close to Him, and you hope that you will be able to step forward to experience His presence again.

 

I first visited the shrine without knowing the intent of the design, and when I later learned the intent of the design, I realized that it was exactly as I had expected. I was right. I visited the shrine without realizing it and touched the “pain-relieving stone” on the “cave path” (although I did not actually touch it), which made me feel closer to the shrine and made my visit to the shrine more fluid. And even if you move away from the worship hall, the view will forever remain as an impression.

 

I was also surprised to see that the architectural style of the shrine, whether Shinmei-zukuri or Taisha-zukuri, does not always have to be a specific one.

The Ashio Shrine is very innovative, but I am sure that the desire to worship the gods with care and comfort is the same in any shrine building. Today, I prayed for the health of my legs and feet, and left Hakusangu Ashio Shrine with a fresh and innovative feeling.

 

I wish you all the best.

 

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毎月18日鑑定会いたしております。今月は7月18日(木)開催です。(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董品買取 古美術風光舎

2024.07.17

古美術風光舎では、毎月18日鑑定会を行っております。

今月は、7月18日(木)10:00~となっております。

 

 

 

 

事前のご連絡はご不要ですので、ご都合の良いお時間にお立ち寄りください。

ご自宅やご実家で「どのくらい価値のあるものなのだろう」と疑問に思うお品などがあれば、査定だけでも構いませんのでお持ちください。大きなお品など持ち込みが難しいお品は写真でも査定させていただきます。

ご来店を心よりお待ちしております。

 

FUKOSHA holds an appraisal session on the 18th of every month.

This month, it will be held on Thursday, July 18, from 10:00 am.

 

No prior notice is required, so please drop by at your convenience.

If you have any items at home or at your parents’ house that you wonder how much they are worth, please bring them in for evaluation only. If you have large items that are difficult to bring in, we will be happy to assess them by photo.

We look forward to seeing you at our store.

 

 

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