9月, 2022 - 風光舎 | 愛知・名古屋での骨董古美術買取 三重 岐阜 - Page 3

お知らせ

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FROMKYOTOOSAKA

千種区のお客様より買受いたしました。(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2022.09.13

 

 

 

千種区のお客様より、ひな人形、花瓶、茶器など買受させていただきました。

 

大切にしておりました御品をお譲りくださいまして、誠にありがとうございました。

 

また、何かございましたら、古美術風光舎名古屋店をよろしくお願い申し上げます。

 

 

*********************

 

ご実家の整理やお片付けなどをされている方のご相談などが多くございます。朝晩少し涼しい季節となってまりましたが、でくれぐれもご無理のないようになさってくださいませ。風光舎では古美術品や骨董品の他にも絵画や宝石、趣味のお品など様々なジャンルのものを買受しております。

お片付けをされていて、こういうものでもいいのかしらと迷われているものでも、どうぞお気軽にご相談下さいませ。

また風光舎は、出張買取も強化しております。ご近所はもちろん、愛知県内、岐阜県、三重県その他の県へも出張いたします。

まずは、お電話お待ちしております。

愛知県名古屋市千種区

骨董 買取

『古美術 風光舎 名古屋店』

TEL052(734)8444

10:00-17:00 OPEN

稲村ケ崎(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎名古屋店)

2022.09.11

みなさまこんにちは、スタッフNでございます。

 

サンダルが大好きで、毎年ギリギリまでサンダルを履いております。

 

今年はどこまでいけるでしょうか。

 

知人から稲村ケ崎の写真が届きました。

 

 

 

夕日がグラデーションになっていて、とてもロマンティックですね。

 

稲村ケ崎と言えば、サザンオールスターズというイメージがあります。

 

「君こそスターだ」という曲の冒頭で「稲村ヶ崎は今日も雨~」と歌っておりますね。

 

子供のころに、友達の家族に付き添ってサザンオールスターズのコンサートに行ったことがあるのですが、まだピュアな子供だったNは、桑田佳祐の下ネタにとても驚いた記憶がございます。

 

そして、たくさんの大人たちが、子供みたいにこんなに楽しくはしゃぐのを初めて見たので、サザンオールスターズってすごい!!と感動しておりました。

 

実は、Nは鎌倉に行ったことがございません。

 

 

ずっと鎌倉に行ってみたいな~と思いながら、行けずにおります。

 

来年こそは行ってみたいです。

 

浮世絵などにも登場致します、稲村ケ崎について調べてみました。

 

稲村ヶ崎は、江ノ島電鉄稲村ヶ崎駅から徒歩5分、神奈川県鎌倉市南西部にある岬で、由比ヶ浜と七里ヶ浜の間にあたります。

 

 

通常、「稲村ヶ崎」の表記は歴史的用法や国の史跡の名称に使用し、地名としては住居表示に伴う町名変更で稲村ガ崎一丁目から稲村ガ崎五丁目となっております。

 

地名の由来は、稲穂を重ねたように見えるためだと言われております。

 

古来良質な砂鉄が採取できることで知られ、古代にはこの地で製鉄がおこなわれていたと考えられています。

 

奈良時代の鎌倉には「見越しの崎」あるいは「御輿の崎」「神輿の崎」と呼ばれる地名があったことが知られており、万葉集に、

鎌倉の 見越しの崎の 岩崩(いわくえ)の 君が悔ゆべき 心は持たじ— 万葉集 巻14-3365

と詠まれています。

 

この地名がどこを指すかについては、長谷の甘縄神社裏山という説と稲村ヶ崎という説があり、確定していないそうです。

 

しかし、岩崩の名所として知られていたならば、稲村ヶ崎説が有力となるそうです。

 

新田義貞による稲村ヶ崎突破の場面で、義貞が太刀を海に投げ入れると竜神の奇跡により潮が引き、そこから鎌倉を攻めたという伝説があります。

鎌倉時代末期の元弘3年(1333年)5月に上野国(群馬県)新田荘を本拠とする新田義貞が挙兵し、分倍河原の戦いと関戸の戦いで北条氏の軍に勝利して鎌倉に迫りました(鎌倉の戦い)。

 

5月18日、新田軍は極楽寺口より攻撃を加え、21日には義貞自ら稲村ヶ崎の海岸を渡ろうとしましたが、当時の波打ち際は切り立った崖となっており、石が高く、道が狭小なため軍勢が稲村ヶ崎を越えられませんでした。

 

そこで、義貞が潮が引くのを念じて剣を投じると、その後潮が引いて干潟となったので岬の南から鎌倉に攻め入ったという伝説が『太平記』に記されております。

 

ただし、近年において天文計算により、稲村ヶ崎の潮が引いたのは18日のことであったことが明らかになり、『太平記』の日付には誤りがあると考えられているそうです。

1333年(元弘3年5月)の新田義貞の鎌倉幕府攻めの際、通行困難だったが義貞徒渉の際には干潟となって容易に進軍できたという伝説より、「稲村ヶ崎(新田義貞徒渉伝説地)」として、 1934年(昭和9年)3月13日、国の史跡に指定されました。

 

幕末には外国船監視のための台場が置かれ、長州藩が防衛にあたった。

 

1928年(昭和3年)、県道片瀬鎌倉線(後の国道134号)の開削工事が行われ稲村ヶ崎の丘陵が分断されて切り通しが開かれました。

 

また、第二次世界大戦中には伏龍隊の地下基地がありました。

 

1960年代から付近の丘陵地が大規模住宅地として開発され、1969年には住居表示実施に伴う町名変更で旧大字極楽寺から分離され、稲村ガ崎一-五丁目となりました。

現在は鎌倉海浜公園として整備されていて、園内には逗子開成中学校ボート部七里ヶ浜沖遭難事件(1910年)の慰霊碑(『真白き富士の根』の歌詞を刻む)、コッホ博士記念碑などもございます。

 

サーフィンのメッカとして有名であると同時に、海水浴場としても使用されてきましたが、近年、砂の流出が進み、2003年(平成15年)からは海水浴場としての使用は行われなくなりました。

2000年に温泉が発見され、後に「稲村ヶ崎温泉」となります。

 

 

古美術風光舎では、稲村ケ崎の浮世絵や絵画なども買取しております。

 

ではでは

 

 

Hello everyone, this is Staff N.

 

I love sandals and wear them every year until the last minute.

 

How far can we go this year?

 

I received a photo of Inamuragasaki from an acquaintance.

 

 

 

 

The setting sun has a gradation and is very romantic.

 

Speaking of Inamuragasaki, there is an image of Southern All Stars.

 

At the beginning of the song “Kimi wa Star Da”, you sang “Inamuragasaki is raining again today~”.

 

When I was a child, I went to a Southern All Stars concert with my friend’s family.

 

And I’ve never seen so many adults having fun like children, so Southern All Stars is amazing! ! I was impressed.

 

Actually, N has never been to Kamakura.

 

 

 

I’ve always wanted to go to Kamakura, but I haven’t been able to.

 

I would like to go there next year.

 

I researched about Inamuragasaki, which also appears in ukiyo-e.

 

Inamuragasaki is a cape located in the southwestern part of Kamakura City, Kanagawa Prefecture, a 5-minute walk from Inamuragasaki Station on the Enoshima Electric Railway, between Yuigahama and Shichirigahama.

 

 

 

Usually, the notation of “Inamuragasaki” is used for historical usage and names of national historic sites, and as a place name, the town name was changed from Inamuragasaki 1-chome to Inamuragasaki 5-chome due to a change in the name of the town along with the indication of the residential address.

 

It is said that the origin of the place name is because it looks like ears of rice are piled up.

 

It has been known since ancient times for its ability to extract high-quality iron sand, and it is believed that iron manufacturing was carried out in this area in ancient times.

 

It is known that Kamakura in the Nara period had place names called ‘Mikoshi no saki’, ‘Mikoshi no saki’ or ‘Mikoshi no saki’, and in the Manyoshu,

Kamakura’s Mikoshi-no-zaki Iwakue You have a heart that you should regret—Manyoshu Vol. 14-3365

It is said.

 

Regarding where this place name refers to, there are two theories: the mountain behind Amanawa Shrine in Hase, and the theory that it is Inamuragasaki.

 

However, if it was known as a famous spot for rock collapses, the theory of Inamuragasaki would be more convincing.

 

 

 

 

There is a legend that when Yoshisada Nitta threw his sword into the sea, the tide receded due to a miracle of the dragon god, and he attacked Kamakura from there.

 

At the end of the Kamakura period, in May 1333, Yoshisada NITTA, based in Nitaso in Ueno Province (Gunma Prefecture), raised an army and defeated the Hojo clan’s army in the Battle of Bubaigawara and the Battle of Sekido. and approached Kamakura (Battle of Kamakura).

 

On May 18, Nitta’s army attacked from Gokurakujiguchi, and on May 21, Yoshisada himself tried to cross the coast of Inamuragasaki, but at that time the beach was a sheer cliff and the stones were high. The road was so narrow that the army could not cross Inamuragasaki.

 

There is a legend in the “Taiheiki” that says that when Yoshisada threw his sword in anticipation of the ebb of the tide, the tide would recede and the tidal flats would form, so Yoshisada attacked Kamakura from the south of the cape. .

 

However, in recent years, astronomical calculations have revealed that the tide at Inamuragasaki receded on the 18th, and it is believed that the date in the “Taiheiki” is incorrect.

 

When Yoshisada Nitta attacked the Kamakura shogunate in 1333 (May 3rd year of Genko), it was difficult to pass, but when Yoshisada crossed it, it became a tidal flat and the army could easily advance. It was designated as a national historic site on March 13, 1934 (Showa 9).

 

At the end of the Edo period, Daiba was set up to monitor foreign ships, and the Choshu clan took charge of defense.

 

In 1928 (Showa 3), excavation work was carried out on the Katase-Kamakura Prefectural Road (later National Route 134), and the hills of Inamuragasaki were divided and a cut was opened.

 

In addition, during World War II, there was an underground base for the Furyutai.

 

Since the 1960s, the nearby hilly area has been developed as a large-scale residential area, and in 1969, due to the change in the name of the town accompanying the implementation of residential address indication, it was separated from the former Oaza Gokurakuji and became Inamuragasaki 1-5 chome.

 

Currently, it is maintained as Kamakura Seaside Park, and in the park, there is a memorial monument for the Zushi Kaisei Junior High School rowing club accident off Shichirigahama (1910) (inscribed with the lyrics of “Pure White Fuji no Root”), a monument to Dr. Koch, etc. We also have

 

It is famous as a mecca for surfing and has also been used as a beach.

A hot spring was discovered in 2000 and later became Inamuragasaki Onsen.

 

 

 

At Antique Fukousha, we also purchase Ukiyo-e and paintings of Inamuragasaki.

 

See you soon

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ご実家の整理やお片付けなどをされている方のご相談などが多くございます。朝晩少し涼しい季節となってまりましたが、でくれぐれもご無理のないようになさってくださいませ。風光舎では古美術品や骨董品の他にも絵画や宝石、趣味のお品など様々なジャンルのものを買受しております。

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#稲村ケ崎#古美術風光舎#浮世絵#骨董#買取#古書買取

中秋の名月(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎名古屋店)

2022.09.10

みなさまこんにちは、スタッフNでございます。

 

 

今日は十五夜、中秋の名月でございます。

 

そういえば、久しくマックの月見バーガーを食べておりません。

 

調べてみましたら、月見パイ、月見マックフルーリー、すき焼き月見バーガーもあるみたいです。

 

どれも美味しそうですね。

 

皆様、お月見というとどんなイメージでしょうか?

 

Nはうさぎ、団子、満月、のイメージでございます。

 

昔うさぎカフェに行ったことがあるのですが、もふもふのうさぎに囲まれている空間は本当に幸せでした。

 

アレルギーのためか、そのあとくしゃみが止まらなくなってしまったのですが、うさぎの可愛さには勝てません。

 

 

 

さて、今回は、中秋の名月について調べてみました。

 

2022年の中秋の名月は、天文学上の満月と暦の上での満月が一致します。

 

さらに、満月になる「望」の瞬間が18時59分頃のため、望から数時間しか経っていない名月を観賞することができます。

古より、この日の月は一年でいちばん美しいとされ、信仰の対象でもありました。

 

旧暦(太陰太陽暦)では7・8・9月が秋にあたり、それぞれ初秋・中秋・晩秋と呼ばれていました。

 

「中秋の名月」とは旧暦8月15日夜の月のことで、「十五夜」ともいいます。

 

古来、この日の月は1年のうちで最も美しい月とされてきました。

 

現在、伝統的な年中行事の多くは新暦(太陽暦)か月遅れで行われていますが、月見は旧暦の日付に行われる数少ない行事となっています。

旧暦では新月の日が朔日(1日)で、月の満ち欠けの中間点にあたる15日が満月とされていました。

 

実際には、月の軌道は楕円形のため、新月(朔)から満月(望)までの日数は13.9日から15.6日と変化します。

 

そのため、15日が満月にならないことも多いそうです。

 

中秋の名月を観賞する風習は中国より伝わり、平安時代に貴族の間で定着しました。やがて、月見は民衆の間にも広まり、団子や里芋、栗などを供え、収穫を祝う行事となりました。

 

月に見立てて作られた月見団子には、米の収穫に感謝し、翌年の豊作を祈願する意味合いがあります。

 

当時の暦は月の運行に基づく旧暦で、「月読命(つくよみのみこと)」が農耕の神として信仰されていました。

 

月見の飾りに欠かせないススキは、月読命をお招きする依り代(よりしろ)でした。

 

稲穂の代わりに、穂の出たススキを飾ったといわれています。

 

また、災いや邪気を遠ざける魔除けにもなると信じられていました。

 

ススキには、豊作祈願と無病息災の願いが込められていたのですね。

 

ススキは秋の七草でございます。

 

自宅でのお月見の設えには、ススキに加えて、キキョウ、クズ、オミナエシ、ナデシコ、ハギ、フジバカマといった秋の七草を飾ってみてはいかがでしょうか。

 

なかでも、可憐な花をつけるナデシコ、青紫色や白の釣鐘状の花が美しいキキョウは、観月に彩りを添えてくれそうです。

 

日々かたちを変える月。その姿をあらわす言葉も多彩です。古の人々は、満月だけではなく、欠けた姿や見えない月にも趣を見出していたのです。

 

十五夜の前夜、旧暦8月14日の月は「待宵月(まつよいづき) 」。

 

翌日の満月を楽しみに待つ気持ちが込められています。

 

十五夜の翌日の月は「十六夜(いざよい)」。

 

「いざよう」とは「ためらう」という意味で、十五夜の月よりも遅くためらうようにして出ることをあらわしています。

 

十七夜の月は「立待月(たちまちづき)」、十八夜は「居待月(いまちづき)」、十九夜は「寝待月(ねまちづき)、臥待月(ふしまちづき)」、二十夜は「更待月(ふけまちづき)」と呼びます。

 

立待月は「立って待っていると出てくる月」という意味で、その後「座って」「寝て」待ち、「さらに夜が更けて」と続きます。

 

旧暦9月13日にも名月を鑑賞する日本固有の風習があり、「十三夜に曇りなし」という言葉があります。

 

15日に月が雲などで見えないことを「無月(むげつ)」、雨の場合を「雨月(うげつ)」といい、見えない月にも思いを寄せてきた古の人々。

 

曇りや雨で十五夜に月を観賞できなかった時も、1か月後の十三夜に観月の希望を託していたのかもしれません。

 

2022年の十三夜は10月8日。今年のお月見は、どのような月に出会えるのでしょうか。中秋の名月の十五夜と合わせて、十三夜にも注目してみましょう。

 

月見をするにはそれに見合ったお皿が必要ですね。

 

古美術風光舎では、お月見モチーフの食器なども買取しております。

お団子とうさぎとお月様で、さぞ可愛らしいことでしょう。

 

皆様も、たまには日頃の疲れを忘れて、お団子片手にお月見などいかがでしょうか。

 

ではでは

 

Hello everyone, this is Staff N.

 

 

 

Today is the full moon, the mid-autumn moon.

 

Come to think of it, I haven’t eaten Mac’s Tsukimi Burger for a long time.

 

I looked it up and it seems that they also have Tsukimi Pie, Tsukimi McFleurie, and Sukiyaki Tsukimi Burger.

 

They all look delicious.

 

Ladies and gentlemen, what kind of image is moon viewing?

 

N is an image of a rabbit, a dumpling, and a full moon.

 

I once went to a rabbit cafe, and I was really happy to be surrounded by fluffy rabbits.

 

I couldn’t stop sneezing after that, probably because of allergies, but I can’t beat the cuteness of rabbits.

 

Well, this time, I tried to find out about the Mid-Autumn Festival.

 

The 2022 Mid-Autumn Moon coincides with the astronomical full moon and the calendar full moon.

 

In addition, the moment of the full moon “Nozomi” is around 18:59, so you can enjoy the beautiful moon only a few hours after the Nozomi.

Since ancient times, the moon on this day has been considered the most beautiful of the year, and has been an object of faith.

 

In the lunar calendar (lunar solar calendar), July, August, and September were autumn, and they were called early autumn, mid-autumn, and late autumn, respectively.

 

Chushu no Meigetsu is the moon on the night of the 15th day of the 8th month of the lunar calendar, and is also known as the 15th night.

 

Since ancient times, this month has been considered the most beautiful month of the year.

 

Currently, most of the traditional annual events are held a month later than the new calendar (solar calendar), but Tsukimi is one of the few events held on dates according to the old calendar.

In the lunar calendar, the first day of the new moon was the first day of the month, and the full moon was on the 15th, the midpoint between the phases of the moon.

 

In fact, the moon’s orbit is elliptical, so the number of days between new moon (Saku) and full moon (Bob) varies from 13.9 days to 15.6 days.

 

Therefore, it seems that there are many cases where the 15th is not a full moon.

 

The custom of watching the full moon during the mid-autumn season was introduced from China and became established among the nobility during the Heian period. Eventually, moon-viewing spread among the people, and it became an event to celebrate the harvest by offering dumplings, taros, chestnuts, and so on.

 

Tsukimi dumplings, which are made to look like the moon, have the meaning of giving thanks for the rice harvest and praying for a good harvest in the following year.

 

The calendar at that time was based on the lunar calendar, and Tsukuyomi no Mikoto was worshiped as the god of agriculture.

 

Susuki, an essential decoration for moon viewing, was used as a yorishiro to invite Tsukuyomi no Mikoto.

 

It is said that pampas grass with ears of rice was used instead of ears of rice.

 

It was also believed to be an amulet to ward off disasters and evil spirits.

 

Pampas grass was filled with prayers for a good harvest and good health.

 

Japanese pampas grass is one of the seven autumn herbs.

 

In addition to pampas grass, why not decorate your home with the seven autumn herbs such as bellflower, kudzu, ominaeshi, dianthus, clover, and fujibakama?

 

Among them, the dianthus with pretty flowers and the bellflower with beautiful bluish-purple and white bell-shaped flowers are sure to add color to the moon.

 

The moon that changes shape every day. There are many different words to describe it. In ancient times, people found interest not only in the full moon, but also in the waning or invisible moon.

 

The night before the full moon, the moon of August 14th in the lunar calendar is “Matsuyoizuki”.

 

The feeling of waiting for the next day’s full moon is included.

 

The moon on the day after the full moon is “Izayoi”.

 

“Izayo” means “to hesitate,” and it means to hesitate to go out later than the full moon.

 

The moon on the 17th night is ‘Tachimachizuki’, the 18th night is ‘Imachitsuki’, and the 19th night is ‘Nemachitsuki and Fushimachizuki’. Toya is called “Fukemachizuki”.

 

Tachimachitsuki means “the moon that appears when you stand and wait”, then “sit”, “sleep” and wait, and then “it is late at night”.

 

There is a custom unique to Japan to appreciate the full moon on September 13th of the lunar calendar, and there is a saying that “there is no cloudiness on the thirteenth night”.

 

When the moon cannot be seen due to clouds on the 15th, it is called “Mugetsu”, and when it rains, it is called “Ugetsu”. .

 

Even when it was cloudy or rainy and the moon could not be seen on the 15th night, it may have been entrusted with the hope of seeing the moon on the 13th night a month later.

 

The thirteenth night of 2022 is October 8th. What kind of moon will you be able to meet at this year’s moon viewing? Let’s pay attention to the 13th night together with the 15th night of the harvest moon.

 

To see the moon, you need a plate that matches it.

 

At Antique Fukousha, we also purchase tableware with moon-viewing motifs.

A dumpling, a rabbit, and a moon would be so cute.

 

How about forgetting your daily fatigue and watching the moon with dumplings in one hand?

 

See you soon

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ご実家の整理やお片付けなどをされている方のご相談などが多くございます。朝晩少し涼しい季節となってまりましたが、でくれぐれもご無理のないようになさってくださいませ。風光舎では古美術品や骨董品の他にも絵画や宝石、趣味のお品など様々なジャンルのものを買受しております。

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#西尾市#抹茶#岩瀬文庫#骨董#買取#古書買取

抹茶パフェが急に食べたくなり、いきなり西尾市へドライブ。(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎名古屋店)

2022.09.08

みなさまこんにちは、スタッフYでございます。

 

かねてからブログでお伝えしておりますように、趣味は唐突お出かけドライブでありまして。しかも、その動機までもがいつも唐突。

 

先日はどうしたことか抹茶の緑がどうしても恋しくなりまして。どうしてもあの深い緑色の食べ物が食べたいという唐突な理由により発動。大変申し訳ないと思ったのですが、突然友人に「抹茶スイーツが食べたいので出かけない?。」と、無理矢理誘い出し私の突然ドライブにご同行願いました。

突然のご同行ありがとうございます。

 

そんなわけでして先日の行先は抹茶の名産地であります愛知県西尾市西尾市。他府県の皆様はご存知かどうかわかりませんが、ここ西尾市は全国でもトップシェアを誇る抹茶の生産地でございます。

 

街は戦国時代以降から城下町として栄え、その後も残った町並みや神社仏閣は「三河の小京都」として名を馳せ、現在も古くて新しい街として生まれ変わっております。また、抹茶の名産地ということもあり、街には抹茶や和菓子のお店、抹茶ブームということもあり素敵な抹茶スィーツのカフェやお店など諸所にあり、先日の私もそんな抹茶に引き寄せられた一人でございます。

距離的にも名古屋市内からですとちょうどいいプチ旅ドライブコースにもちょうどよく、たまに行きたくなるんですよね。

 

さてさてそんな西尾へのドライブですが、今回は折角ですので抹茶パフェの前にまだ訪れたことのないスポットへ行ってみようということになり、立ち寄って参りました。

 

「西尾市岩瀬文庫」

 

西尾市岩瀬文庫は、明治41年に西尾市須田町の実業家である岩瀬弥助が、本を通した社会貢献を志して創設した私立図書館として誕生。戦後に西尾市の施設となり平成15年4月に日本初の「古書の博物館」としてリニューアルし、平成19年12月7日には登録博物館となり、平成20年5月6日には創立100周年を迎えたようです。小さな図書館であったようですが、実は重要文化財をふくむ古典籍から近代の実用書まで、幅広い分野と時代の蔵書をなんと8万冊余りを保存・公開し、日本の本の長い歴史やゆたかな文化について体験しながら学べるユニークな展示を行なっております。(常設展への入館はなんと無料でした。)

 

 

 

 

当初、図書は奥の煉瓦造りの建屋が書庫でありましたが、現在は写真の右側の新しい図書館兼博物館こ所蔵保管しているようです。こちらの旧書庫は大正時代の建物でありまして大震災や空爆にも耐え、現在は国の有形文化財に登録されております。

 

地上3階、地下1階建の旧書庫は、内部の書架のさまざまな蔵書の大きさや形態にあわせ、幅や奥行き、棚の高さを変えたオーダーメイド品で、湿気がこもらないように書架は板を貼らず、床もすのこ状になっているようです。また、地上3階部分には蔵書、地下1階には新聞・雑誌・岩瀬文庫や岩瀬弥助ゆかりの品々が収められておりまして、どうやら内部が面白そうなのですが、現在は耐震や文化財保護のため見学は一年に一度、にしお本まつりにて内部を特別公開しているようです。

 

そんな岩瀬文庫に収めれておりました8万冊を超える蔵書は、多岐にわたることが特徴でして、また、これだけの蔵書ですので全国から実物の古書を研究閲覧などで来館される方も多いようです。その本の種類は、歴史、国文学、本草、地誌、絵本、絵巻、地図類など様々。本物の蔵書の閲覧には予約が必要のようですが、一部を本物と同じような状態に複製された古書が展示しており、それらのレプリカは我々でも手に取ることができます。

もちろん我々は唐突の訪問ですので(実物などは恐れ多い…。)レプリカの一部を手に取ってみました。

 

 

こちらは、「禽品」と呼ばれるいわば、鳥類の図譜。図鑑と言ったところでしょうか。図は精密な濃淡彩色入りでして、一部に産地等の簡略な注記などが。

奥書等はなし。元の編集者は山本渓山(章夫)でありまして、当時は印刷などありませんから、それらを書写した本であります。よって、「渓山写生」「渓山真写」「嘉永己酉(2年)季冬渓山写」等の書写識語あります。書中最新の年記は巻5の「鸊鷉卵」の「明治廿六年七月鳥飼村上田辰二郎持参」と記載されており、嘉永初年より漸次書き継がれたもののようです。

書写本(こちらはレプリカ)ではありますが、書写の域をこえておりまして、しばらくその美しい鳥の羽一本一本の描写や構図に見とれておりまして、この古書の復刻版は出ないのかと本気で思ったくらい美しく手に取ってみたくなる古書でした。

 

 

 

 

また、蒔絵のレプリカも手に取ることができまして、残念ながらタイトルもわからず、中に書いてる文字も読解できず、絵の内容からですと、どうやらお坊さんと恋仲になった姫君が妖怪?化け物?になるという怪談話なのか、途中で、か弱い姫君が化け物の形相になるという。その形相が現代のアニメや漫画とは違った真の怖さに迫っており、怖い。怪談物は時代を超えてファンがいたのでしょうね。

 

 

 

 

ふらりと立ち寄った岩瀬文庫でしたが、思いのほか興味深く、そしてそれらの研究をされている方にとっては資料の宝庫のようなところでありました。西尾市を訪れることのがございましたら、抹茶パフェと同時にお立ち寄りくださいませ。

 

それでは、当初の旅の目的でした、あの深い緑の沼へハマって参ります…。

抹茶パフェ、いただきまーす。

 

 

Hello everyone, this is Staff Y.

 

As I have been saying in my blog for a while, my hobby is sudden outings and drives. And even the motive is always sudden.

 

The other day, for some reason, I was really missing the green color of green powdered tea. I had a sudden desire to eat that deep green food. I felt very sorry, but I suddenly asked my friend, “Would you like to go out to eat matcha sweets?” I asked my friend to accompany me on my sudden drive.

Thank you very much for your sudden invitation.

 

So the other day we went to Nishio City, Nishio City, Aichi Prefecture, which is famous for its matcha (powdered green tea). I am not sure if those of you from other prefectures are aware of this, but Nishio City boasts the largest share of matcha production in Japan.

 

The city has flourished as a castle town since the Warring States Period, and the townscape, shrines, and temples that have remained since then have made it famous as “Mikawa’s Little Kyoto,” and it is still being reborn as an old and new town today. The town is also famous for its matcha (powdered green tea), and there are many matcha and wagashi (Japanese confectionery) stores in the town, as well as cafes and stores offering wonderful matcha sweets, which has been a big boom for matcha.

I was one of those who were drawn to matcha the other day. The distance from Nagoya City is just right for a short driving course, and I sometimes want to go there.

 

I decided to stop by at a place I had never visited before, before trying the matcha parfait.

 

Nishio City Iwase Bunko

 

The Nishio City Iwase Bunko was founded in 1908 as a private library by Yasuke Iwase, a businessman from Suda-cho, Nishio, who wanted to contribute to society through books. After the war, it became a Nishio City facility and was renovated as Japan’s first “museum of old books” in April 2003, became a registered museum on December 7, 2007, and seems to have celebrated its 100th anniversary on May 6, 2008. Although it looks like a small library, it actually preserves and exhibits more than 80,000 books from a wide range of fields and eras, from classical books including important cultural properties to modern practical books, and offers unique exhibits that allow visitors to learn about the long history and rich culture of Japanese books through hands-on experience. (Admission to the permanent exhibition was free.)

 

The brick building at the back of the museum was originally used as the book depository, but now it seems to be housed in the new library and museum on the right side of the photo. The old stacks here were built in the Taisho era (1912-1926) and withstood the Great East Japan Earthquake and air raids, and are now registered as a Tangible Cultural Property of Japan.

 

The stacks are custom-made in width, depth, and shelf height according to the size and shape of the various books in the stacks. The three floors above ground house the library, and the basement floor houses newspapers, magazines, the Iwase bunko, and items related to Yasuke Iwase, making the inside of the building interesting.

 

The Iwase Bunko’s collection of over 80,000 volumes is characterized by its wide variety of books, and because of this large collection, many people from all over Japan come to the museum to study and browse the actual old books. The books include history, Japanese literature, books on herbs, geography, picture books, picture scrolls, maps, and many others. Although reservations are required to browse the real books in the collection, some of them are reproduced in the same condition as the real ones, and we can also pick up the replicas.

Of course, we visited the museum on a whim (we are too afraid of the real thing…). We picked up some of the replicas.

 

This is an illustrated book of birds, so to speak. It is a kind of illustrated book. The illustrations are precisely colored in shades of gray, and some of them have simple notes such as the place of origin.

There is no back matter. The original editor was Keizan Yamamoto (Akio), and since there was no such thing as printing at that time, this book is a transcription of the original. Thus, there are some copied words such as “Keizan Shasho,” “Keizan Shinsha,” “Kaei Jiyu (2nd year) Season and Winter Keizan Shasho,” etc. The latest chronology in the book is in vol. 5, which is the first volume of the collection. The most recent chronology in the book is found in Volume 5, “Little grebe egg,” which reads, “Meiji 廿六年7月 Torikai-mura Ueda Tatsujiro dourou,” and it appears that the writing was gradually passed down from year to year from the beginning of the Kaei era.

Although this is a copy (this is a replica), it is more than a copy, and for a while I was gazing at the beautiful depiction and composition of each feather of the bird.

 

I was also able to pick up a replica of the maki-e, but unfortunately I could not understand the title or the words written inside the maki-e. A ghost story about a princess who falls in love with a monk and turns into a specter or a monster? The story is a ghost story about a princess who falls in love with a monk and becomes a monster or a monster. The form of the monster is different from that of modern anime and manga and approaches true horror, which is scary. Ghost stories must have had fans throughout the ages.

 

Although it was just a casual stop at the Iwase Bunko, it was unexpectedly interesting, and for those who are studying them, it must be a treasure trove of materials. If you are ever in Nishio City, please stop by and enjoy the matcha parfait at the same time.

 

Now to my original goal of the trip, the matcha parfait. Bon appétit!

Have a good day.

 

 

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ご実家の整理やお片付けなどをされている方のご相談などが多くございます。朝晩少し涼しい季節となってまりましたが、でくれぐれもご無理のないようになさってくださいませ。風光舎では古美術品や骨董品の他にも絵画や宝石、趣味のお品など様々なジャンルのものを買受しております。

お片付けをされていて、こういうものでもいいのかしらと迷われているものでも、どうぞお気軽にご相談下さいませ。

また風光舎は、出張買取も強化しております。ご近所はもちろん、愛知県内、岐阜県、三重県その他の県へも出張いたします。

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#西尾市#抹茶#岩瀬文庫#骨董#買取#古書買取

PEACE(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2022.09.07

皆さま、こんにちは。スタッフMです。

9月に入っても、夏を思わせるような暑い毎日が続いております。台風11号は温帯低気圧に変わりましたが、この台風の影響で金沢ではなんと120年ぶり、記録的な猛暑だったとか。

衣替えはまだ先かなと思いつつ夜は少し肌寒かったりしますので、皆さま寒暖差にはお気をつけください。

 

さて、先日新しい茶椀が仲間入りいたしました。

 

 

作家「加藤清之」の作品です。

飾っているだけでも楽しめる作品、そして”PEACE”に一目ぼれしてしまいました。

 

ここで少し加藤清之氏についてご紹介させていただきます。

 

1931年、瀬戸ものの街・愛知健瀬戸市品野町で、織部・黄瀬戸などの瓦を焼く瓦師の家に生まれました。

幼い頃から絵を描くことが好きで画家に憧れていましたが、20代になってイサム・ノグチの埴輪から影響を受けた作品を見て焼き物の魅力を知ったそうです。

 

絵を描くことによって目覚めた自分自身の感覚を土に移行させることで、加藤氏の陶芸家としての挑戦が始まり、26歳のとき、素焼きのオブジェが草月流の勅使河原蒼風氏(初代家元)の目にとまり、以後次々と新作がコレクションされ、その作品に花が生けられるようになりました。

 

そして加藤氏の存在が一躍美術界で知られるようになったのは、朝日陶芸展で64年、65年と連続して対象を受賞してから、70年に日本陶磁協会賞、2006年に日本陶磁協会賞金賞など、数多くの賞を受賞していることから、常に国内外から高い評価を得ている作家なのです。

 

 

 

Hello everyone. This is staff M.

Even in September, we continue to have hot days that remind us of summer. Typhoon No. 11 turned into an extratropical cyclone, but due to this typhoon, Kanazawa experienced record-breaking heat for the first time in 120 years. It’s still a little chilly at night, so please be careful of the temperature difference.

 

Well, the other day, a new tea bowl joined us. It is the work of the writer “Kiyoyuki Kato”. I fell in love with “PEACE”, a work that can be enjoyed just by decorating it.

 

I would like to introduce Mr. Kiyoyuki Kato here. In 1931, I was born in Shinano-cho, Takeseto City, Aichi, a town of Seto, into a family of tile makers who made Oribe and Kiseto tiles. From an early age, he liked to draw and dreamed of becoming a painter, but in his twenties, he discovered the charm of pottery after seeing works influenced by Isamu Noguchi’s haniwa.

 

By transferring his sense of self, awakened by painting, to clay, Kato’s challenge as a pottery artist began. It caught the attention of the head of the school), and since then new works have been collected one after another, and flowers have been arranged for those works.

 

The existence of Mr. Kato suddenly became known in the art world after winning the object at the Asahi Ceramic Art Exhibition in 1964 and 1965, followed by the Japan Ceramic Society Award in 1970, and in 2006. He has received numerous awards, including the Japan Ceramic Society Gold Prize, and is constantly receiving high praise both domestically and internationally.

 

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#加藤清之#陶芸#茶碗#瀬戸焼

金閣寺(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2022.09.06

皆さま、こんにちは。スタッフNでございます。

 

今日は9月6日キョロちゃんの日(森永チョコボールの日)だそうです。

 

キョロちゃんと言えば、昔アニメの絵描き歌が大好きでよく歌っておりました。

 

あのまん丸おめめと鼻にかかる声が、なぜかいまだに忘れられません。

 

 

OPは皆様ご存知CMの「クエ、クエ、クエ~♪」でございますね。

 

今朝もテレビ番組で、チョコボールの金と銀が出るか、芸人が生放送でひたすら箱を開けておりました。

 

さて、金と言えば先日留学生ご一考が、京都の金閣寺に行ってきた写真が届きました。

 

 

 

 

留学生の近況ですが、日本の家に来てからもう5回以上ドアに頭をぶつけているようで申し訳ないです。

 

すごい味のリコリスのお菓子をいただいたり、回転寿司に行ったり、花火をしたり、日本文化を教える代わりに、ちゃっかり青春に紛れ込んで楽しんでいるNでございます。

 

ここで金閣寺について調べてみました。

 

正式名称を鹿苑寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つでございます。

舎利殿「金閣」が特に有名なため一般的に金閣寺と呼ばれています。

 

元は鎌倉時代の公卿、西園寺公経の別荘を室町幕府三代将軍の足利義満が譲り受け、山荘北山殿を造ったのが始まりとされています。

 

金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世にあらわしたと言われ、有名な一休禅師の父である後小松天皇を招いたり、中国との貿易を盛んにして文化の発展に貢献した舞台で、この時代の文化を特に北山文化といいます。

 

義満の死後、遺言によりお寺となり、夢窓国師を開山とし、義満の法号鹿苑院殿から二字をとって鹿苑寺と名づけられました。

 

義満は延文三年(1358)足利二代将軍義詮(ヨシアキラ)を父に、石清水八幡宮検校通清の娘良子を母として生まれ、幼名を春王と呼ばれました。

 

 

 

 

南北両朝の抗争が相次ぐ康安元年、義満三歳の時、楠正儀、細川清氏らに大挙して京都を攻められ、将軍義詮は近江へ逃れました。

 

義満は従者に抱かれ建仁寺の蘭洲良芳のもとに逃れましたが、良芳和尚は義満に僧衣をかぶせて五日間かくまい、ひそかに播州白旗城の赤松則祐のもとに送り届けました。そして翌年義満は無事京都に帰還しています。

 

貞治六年(1367)義満は天龍寺において時の住持春屋妙葩より受衣しています。

 

そしてこの春屋妙葩とその弟弟子義堂周信は義満にとって終生の変わらぬ精神的支えとなったのです。

 

この年父義詮は病没し、翌年義満は十一歳で将軍職を継ぎますが、父の遺言により、管領細川頼之が補佐役として幼君を助け、義満を立派な将軍に育て上げるとともに、幕府の権威の向上に努めました。

 

十一才で将軍職を継いだ義満は細川頼之の補佐を受けながら、地方の有力な守護大名を制御して将軍としての地位を確立していきました。

 

そして応安四年(1371)室町北小路に造営中の室町第を完成させ、ここに幕府を移します。

 

そこは大きな池を掘って鴨川の水を引き、庭には四季の花を植え、それらの花が爛漫と咲き乱れたといいます。その様を見て人々は「花の御所」と呼びました。

この時まだ南北両朝の分裂は続いており、細川頼之らの努力でようやく統一の兆しが見え始めていた頃でもありました。

 

北山という地名は平安時代に遡るといわれますが、平安時代の北山には霊厳寺、興隆寺、法音寺等の寺院が建てられていました。

 

また天皇の陵墓をはじめ多くの塚があり、火葬が行われたころでもありました。

 

この土地はやがて鎌倉時代に権勢を誇った西園寺家のものとなり、公経によって「北山第」という豪壮な山荘が営まれました。

 

しかし鎌倉幕府が倒されると共に西園寺家もその権勢の座から遠ざかり、西園寺家の衰退と共に北山第も荒廃していったのです。

 

この北山第を足利義満が譲り受け北山殿を造営したのです。

 

義満は室町に室町第を造営し幕府を移しました。

 

そこは花の御所と呼ばれ、政治の中心地となります。

 

そして夢窓国師の弟子であった春屋妙葩禅師について参禅弁道にはげみ一寺の建立を思い立ち、幕府の隣に相国寺を建てたのです。

 

この相国寺を中心に五山文学が生まれ文化の中心地としても栄えました。

 

しかし義満はこれにも満足せず、当時荒廃していた北山第の大改修をはじめ、北山殿を造営したのです。

 

その中の舎利殿が金閣で、一層に釈迦三尊が安置され、二層目は観音殿、三層に仏舎利がおさめられました。

 

その後それまで室町殿で行われていた行事などは北山殿で行なわれるようになり、その機能が移されました。

 

対明貿易をはじめた義満は明の勅使を北山殿で迎えています。

 

こうして得た中国のさまざまな文化が集められ、北山文化を築いたのです。

 

義満の死後北山殿は将軍の邸としての資格を失いますが、義満の遺言により禅寺となり、義満の法号である鹿苑院殿より鹿苑寺となります。

 

初期の鹿苑寺についてはあまり正確にはわかっていません。

 

足利三代将軍義満は、応永元年(1394年)将軍職を僅か九歳の義持に譲り、翌年自らも三十八歳の若さで出家しました。

 

これは義満自身九歳の年に父義詮の死に遭い、数々の苦難を経験しましたが南北両朝の合一にも成功し、世の中に太平が回復すると同時に、公的生活から離れてもっと自由な行動を望んだものと思われます。

 

荒廃していた西園寺家の西園寺・北山第を譲り受けた義満は、応永四年(1397年)ここに山荘北山殿を造営すべく工事を開始しました。

 

庭園、建築共に可能な限りの粋をつくしましたが、中でもとくに趣向をこらしたのが、舎利殿つまり金閣でした。

 

応永十五年(1408年)後小松(ごこまつ)天皇の行幸を仰いで、義満は盛大な宴を開きましたが、これは北山行幸と呼ばれ、今に語りつがれています。義満は五十一歳でこの世を去るまでここに住んでいました。

 

義満の死後義持は夢窓国師を勧請して開祖とし、初めて鹿苑寺と名づけられました。

 

将軍家の庇護のもとにあった多くの禅院は、将軍家の権威の衰退と共に経済的にも困難に陥っていきます。

 

そして応仁の乱の勃発によって、本山相国寺をはじめ多くの禅寺が焼討にあい、鹿苑寺もその被害にあいましたが、金閣、石不動堂、護摩堂などは焼失を免れました。

 

その後足利十五代の歴史は終わりをつげ、安土桃山の激変期を経て、徳川家康によって平安の時代となります。

 

徳川家康の命により鹿苑寺住職となったのが西笑承兌でした。

 

西笑和尚は豊臣秀吉、徳川家康の二人に政治顧問として重用され「黒衣の宰相」といわれた人です。

 

西笑承兌によって鹿苑寺はその経済的基盤を固め、以後、西笑の法系によって受け継がれてきました。

 

日本を代表する金閣寺、さらに知識を深めることができました。

 

金の骨董もお待ちしております。

 

ではでは

 

 

 

Hello everyone. I am Staff N.

 

Today, September 6th, is Kyoro-chan’s Day (Morinaga Chocoball Day).

 

Speaking of Kyoro-chan, I used to love anime drawing songs and often sang them.

 

For some reason, I still can’t forget those round eyes and the voice that hits my nose.

 

 

 

The OP is the CM “Kue, Kue, Kue~♪” that everyone knows.

 

This morning, on a TV program, a comedian was intently opening the box on a live broadcast to see if the gold and silver chocolate balls would come out.

 

By the way, speaking of money, the other day I received a photo of an international student visiting Kinkakuji in Kyoto.

 

 

Regarding the recent situation of international students, I am sorry that I seem to have hit my head against the door more than five times since I came to my home in Japan.

 

Instead of eating amazing licorice sweets, going to conveyor belt sushi restaurants, setting off fireworks, and teaching Japanese culture, I’m N who shrewdly slips into youth and enjoys himself.

 

I researched Kinkakuji here.

 

Its official name is Rokuonji, and it is one of the sub-temples of Shokokuji.

It is generally called Kinkaku-ji because the reliquary hall “Kinkaku” is particularly famous.

 

 

It is said that the villa of the Kamakura period court noble Kintsune Saionji was inherited by Yoshimitsu Ashikaga, the third shogun of the Muromachi Shogunate, and the mountain villa Kitayamadono was built.

 

The garden and architecture centered on the Kinkaku are said to represent the Pure Land of Bliss to the world, and it is a stage that has contributed to the development of culture by inviting Emperor Gokomatsu, the father of the famous Zen master Ikkyu, and by thriving trade with China. The culture of this period is called the Kitayama culture.

 

After Yoshimitsu’s death, it became a temple in accordance with his will, with Muso Kokushi as the founder of the temple.

 

Yoshimitsu was born in the 3rd year of Enbun (1358) to Yoshiakira, the second shogun of Ashikaga, and Yoshiko, the daughter of Kengyo Michikiyo of Iwashimizu Hachimangu Shrine, and his childhood name was Haruo.

 

 

In the first year of the Koan era, when Yoshimitsu was three years old, when the conflicts between the Northern and Southern Courts continued, Kyoto was attacked en masse by Masayoshi Kusunoki, Kiyouji Hosokawa, and others, and Shogun Yoshiakira fled to Omi.

 

Yoshimitsu escaped to Ranshu Ryoho at Kennin-ji Temple with his followers, but Ryoho hid Yoshimitsu in a monk’s robe for five days, and secretly lived with Akamatsu Norisuke at Banshu Shirahata Castle. sent to. The following year, Yoshimitsu returned to Kyoto safely.

 

 

In the 6th year of the Sadaji era (1367), Yoshimitsu was appointed as the chief priest of Tenryu-ji Temple by Myohan, the chief priest of the time.

 

Haruya Myohan and his younger disciple Gido Shunobu became Yoshimitsu’s constant spiritual support throughout his life.

 

 

In this year, his father Yoshiakira died of illness, and the following year Yoshimitsu succeeded to the position of shogun at the age of eleven. I tried to improve the authority of

 

 

Yoshimitsu, who succeeded to the post of shogun at the age of eleven, established his position as shogun by controlling the influential shugo daimyo of the region while receiving the assistance of Yoriyuki Hosokawa.

 

In the 4th year of Oan (1371), the Muromachi Dai, which was under construction in Muromachi Kitakoji, was completed, and the shogunate moved here.

 

It is said that a large pond was dug there to draw water from the Kamogawa River, and flowers of the four seasons were planted in the garden, and these flowers bloomed profusely. When people saw it, they called it “Hana no Gosho”.

At this time, the division between the Northern and Southern Dynasties was still continuing, and signs of unification were finally beginning to appear thanks to the efforts of Yoriyuki HOSOKAWA and others.

 

The name Kitayama is said to date back to the Heian period, when temples such as Reigon-ji, Koryu-ji, and Hoon-ji were built in Kitayama.

 

In addition, there are many mounds, including the tombs of emperors, and it was also the time when cremation was performed.

 

This land eventually came under the control of the Saionji family, who held great power during the Kamakura period, and Kintsune ran a magnificent mountain villa called Kitayamadai.

 

However, when the Kamakura shogunate was overthrown, the Saionji family also lost its position of power.

 

Yoshimitsu Ashikaga took over Kitayamadai and built Kitayamaden.

 

Yoshimitsu built Muromachi Dai in Muromachi and transferred the shogunate.

 

It was called Hana no Gosho and became the center of politics.

 

And he came up with the idea of ​​building Gemi Ichiji Temple in Zen Zen Bendo with Haruya Myohan, a disciple of Muso Kokushi, and built Shokokuji next to the Shogunate.

 

Gozan literature was born around Shokoku-ji Temple, and it flourished as a center of culture.

 

However, Yoshimitsu was not satisfied with this, and began the major renovation of Kitayama Dai, which was in ruins at the time, and built the Kitayama Palace.

 

Among them, the reliquary hall is the Golden Pavilion, the Shakyamuni Triad is enshrined on the first floor, the Kannonden on the second floor, and the reliquary of Buddha on the third floor.

 

After that, events that had been held at the Muromachi-dono Hall were now held at the Kitayama-dono Hall, and its functions were transferred.

 

Yoshimitsu, who started trading with Ming, welcomed Ming’s imperial envoy at Kitayama-dono.

 

Various Chinese cultures acquired in this way were collected and built the Kitayama culture.

 

 

After Yoshimitsu’s death, Kitayama-dono lost its status as a shogun’s residence, but in accordance with Yoshimitsu’s will, it became a Zen temple, and from Yoshimitsu’s Buddhist name, Rokuon-in-den, it became Rokuon-ji.

 

Not much is known about the early Rokuonji.

 

In 1394, Yoshimitsu, the third shogun of Ashikaga, handed over the position of shogun to Yoshimochi, who was only nine years old.

 

When Yoshimitsu was nine years old, his father Yoshiakira died, and he experienced many hardships. It seems that he wanted to take action.

 

In 1397, Yoshimitsu took over Saionji and Kitayamadai from the Saionji family, which had fallen into disrepair.

 

He tried to be as sophisticated as possible in both the garden and the architecture, but the reliquary hall, or Kinkaku (Golden Pavilion), was of particular interest.

 

In the 15th year of Oei (1408), Yoshimitsu held a grand banquet in anticipation of Emperor Gokomatsu’s visit. Yoshimitsu lived here until he passed away at the age of fifty-one.

 

After Yoshimitsu’s death, Yoshimochi recruited Muso Kokushi to become the founder and named Rokuonji for the first time.

 

Many Zen temples under the patronage of the shogun family fell into financial difficulties as the authority of the shogun family declined.

 

When the Onin War broke out, many Zen temples, including Shokoku-ji Temple, were burned down, and Rokuon-ji Temple was also damaged, but Kinkakuji Temple, Ishifudo-do Hall, and Goma-do Hall escaped destruction.

 

After that, the history of the 15th generation of Ashikaga came to an end, and after a period of upheaval in Azuchi-Momoyama, Tokugawa Ieyasu entered the Heian period.

 

Jota Saisho became the chief priest of Rokuon-ji Temple by order of Ieyasu Tokugawa.

 

Saisho Osho was appointed as a political adviser to Toyotomi Hideyoshi and Tokugawa Ieyasu, and was called the “Black-robed Prime Minister”.

 

Rokuon-ji established its economic foundation under Seisho Jota, and since then it has been inherited by the Seisho legal system.

 

I was able to deepen my knowledge of Kinkakuji, which represents Japan.

 

We are also waiting for gold antiques.

 

See you soon

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9月4日急須の日(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2022.09.04

皆さま、こんにちは。スタッフMです。

 

本日9月4日は「心を注ぐ急須の日」だそうです。急須でお茶を飲む文化の普及と、人と人とのコミュニケーション拡大を目指すこと、また「急(9)須(4)」の語呂合わせから制定されました。

 

 

唐突な質問になりますが、最近の若者は急須でお茶を淹れたりするのでしょうか。

ちなみに我が家は急須を愛用しておりまして、ゆっくり急須でお茶を淹れる時間は唯一心が落ち着く時間なのです。

 

そんな癒しの効果も高い急須、見た目や手にした時のフィット感、サイズなどこだわり  ある方多いのではないでしょうか。

急須を使われる方は、毎日のように使うものだからこそ素材やデザインはとっても重要な部分。

 

今日が「急須の日」ということもありますので、少し調べてみました。

 

急須といえば、常滑焼や萬古焼きなどを思い浮かべる方も多いと思います。高品質なものが多いだけでなく、一定の吸水性と水に含まれる不純物を取り除く性質があり、お茶の味をまろやかにする効果もあるのだとか。

常滑焼を代表とする炻器のほか、益子焼や美濃焼などの陶器も、お茶の旨味や渋みをバランスよく引き出す性質を持っているそうです。

また有田焼などの磁器の急須は、陶器と比べると吸水性は劣りますが、その分茶葉やお湯そのものが持つお茶本来の味と香りを堪能できます。

 

そして、南部鉄器。重厚なデザインと耐久性の高さは、他の素材にはない良さがありますよね。

基本的にお湯を沸かすための道具として使用されてきたので、繊細な味を引き出すのには適していませんが、ほうじ茶や玄米茶などを淹れる分には問題がないそうです。

 

最後に「耐熱ガラス」。

こちらは現代の若者などにも親しみやすい急須だと思います。ガラス製の良いところは、茶葉が開いていく様子や色の変化など見た目も楽しめるということ。そしてお茶の香りや味をストレートに出す特徴があります。

中国茶の一種で工芸茶のような、お湯を注ぐとゆっくりと中から色鮮やかで美しい花が開花する様子を楽しむことできるお茶などはこのガラス製の急須がピッタリです。

 

急須の素材によって、お茶の楽しみ方もさまざまあり、いろんな種類の急須を集めてみたくなってきました。

 

そういえば、大学時代茶道サークルに入ろうか悩みに悩んだ結果、入らなかったのですが、今となってはあの時初めていれば…と考えたりもします。

もちろん今から始めてみても全然ありな感じがします。まずは「日日是好日」という映画をもう一度見て気持ちを高めたいと思います(笑)

(余談ですが、「日日是好日」こちらの映画おすすめです!)

 

それでは。

 

 

Hello everyone. This is staff M.

 

It seems that today, September 4th, is “the day of the teapot that pours your heart”. It was enacted with the aim of popularizing the culture of drinking tea from a teapot and expanding communication between people, as well as the pun of “kyu (9) su (4)”. 

This is a sudden question, but do young people these days brew tea in a teapot? By the way, my family loves teapots, and the time I spend slowly brewing tea in a teapot is the only time I can relax.

 

I’m sure there are many people who are particular about the teapot that has such a healing effect, the appearance, the fit when held in the hand, and the size. For those who use teapots, the material and design are very important because they use it almost every day. Today is also “teapot day”, so I did a little research.

 

Speaking of teapots, many people think of Tokoname-yaki and Banko-yaki. Not only are many of them of high quality, but they also have the property of absorbing a certain amount of water and removing impurities from the water, which also has the effect of making the tea taste milder. In addition to stoneware represented by Tokoname ware, pottery such as Mashiko ware and Mino ware also have the property of drawing out the umami and astringency of tea in a well-balanced manner. In addition, porcelain teapots such as Arita ware are less absorbent than ceramic teapots, but you can enjoy the original taste and aroma of tea leaves and hot water itself.

 

And Nambu ironware. The solid design and high durability have advantages that other materials do not have. Since it was basically used as a tool for boiling water, it is not suitable for bringing out delicate flavors, but it seems that there is no problem when brewing hojicha or genmaicha. Finally, “heat-resistant glass”. I think this is a teapot that is familiar to modern young people. The good thing about glass is that you can enjoy the way the tea leaves open and the color change. And there is a feature that straight out the scent and taste of tea. This glass teapot is perfect for tea that is a kind of Chinese tea, such as craft tea, where you can slowly enjoy the beautiful flowers blooming from inside when hot water is poured.

 

There are various ways to enjoy tea depending on the material of the teapot, and I started to want to collect all kinds of teapots. Come to think of it, when I was in college, I was worried about joining a tea ceremony circle, but I didn’t, but now I think about it. Of course, even if I start now, I feel like there is nothing at all. First of all, I would like to watch the movie “Hichikore Kojitsu” again to lift my spirits (laughs). (As an aside, I recommend this movie, “Days and Days is a Good Day”!)

 

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東区のお客様より買受いたしました。(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2022.09.03

 

東区のお客様より、ご実家のお引越しによる木箱入茶碗、銀杯、食器、洋酒、お人形など買受させていただきました。

 

急なご訪問でありましたが、大切にしておりました御品をお譲りくださいまして、誠にありがとうございました。

 

また、何かございましたら、古美術風光舎名古屋店をよろしくお願い申し上げます。

 

 

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ご実家の整理やお片付けなどをされている方のご相談などが多くございます。朝晩少し涼しい季節となってまりましたが、でくれぐれもご無理のないようになさってくださいませ。風光舎では古美術品や骨董品の他にも絵画や宝石、趣味のお品など様々なジャンルのものを買受しております。

お片付けをされていて、こういうものでもいいのかしらと迷われているものでも、どうぞお気軽にご相談下さいませ。

また風光舎は、出張買取も強化しております。ご近所はもちろん、愛知県内、岐阜県、三重県その他の県へも出張いたします。

まずは、お電話お待ちしております。

愛知県名古屋市千種区

骨董 買取

『古美術 風光舎 名古屋店』

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どうせなら予習をして臨もうかと。(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2022.09.03

みなさま、こんにちはスタッフYでございます。

 

 

 

 

本日はですね、かなり個人的なつぶやきでございます。

 

たしか先月だったでしょうか。こちらのブログにて

東京国立博物館創立150年記念 特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」のお話をいたしました。いよいよといいましても会期は10月19日から。まだちょっと早いなと思ったのですが参戦する日が、なにせ自分のスケジュール的にきまっているものですから、チケットの購入サイトだけはマメにチェックしている今日この頃ではあります。こういうことだけは、何故かマメに動けます…。

 

 

 

 

ですが10月からの会期にむけて、それらに関するイベントや展示などは少しずつ開催されておりますので、情報は今後さらにマメにチェックしなければなりませんね。

 

先日は、Twitterのほうのチェックをそろそろしておこうとひらいておりますと、なんと更新のたびに「一日一国宝」があがっているではないですか!。写真とそれに関する説明を少しつけてくれておりまして、本日は、太刀 銘 定利  (綾小路派の定利の最高傑作)について、あげられておりました。

 

これはありがたい…。当日、ひとつひとつ頑張って丁寧鑑賞してはいきますが、89点もの国宝(会期はわかれますが)一つ一つをはたして落ち着いて鑑賞できるかどうかはわからないですし、せっかく行くのでしたら、まだ時間がありますのでこの「一日一国宝」で、こまめな予習をして臨むことにいたしました。

 

そしてなによりも楽しみにしているこの気持ちを徐々に上げていくありがたいツールになりましたので、しばらくは「一日一国宝」を眺める日々を過ごすと致します。

 

それでは、ごきげんよう。

 

 

Hello everyone, this is Staff Y.

 

Today, I would like to share with you a very personal tweet.

I think it was last month. I wrote about it on this blog.

I talked about the special exhibition “National Treasures: All About the Tokyo National Museum” in commemoration of the 150th anniversary of the Tokyo National Museum. And, I’m not sure if it was last month or not. The exhibition will open on October 19. I thought it was still a little early, but since the date of my participation in the exhibition is already fixed in my schedule, I have been checking the ticket purchase site frequently these days. I don’t know why I can be so fast in these matters….

 

 

However, events and exhibitions related to the exhibition that will start in October are being held little by little, so I will have to check the information more frequently in the future.

 

The other day, I opened up my Twitter account to check on them, and to my surprise, “One National Treasure a Day” appeared every time I updated my Twitter account. Today’s article is about the Tachi sword “Sadatoshi” (the masterpiece of Sadatoshi of the Ayashikoji school).

 

I appreciated this. I will try my best to appreciate each of the 89 national treasures (although there are different exhibition periods) one by one on the day of the exhibition, but I am not sure if I will be able to appreciate each of them in a calm manner.

I will spend a day looking at “One National Treasure a Day” every day for a while, as it has become a great tool to gradually raise my excitement.

 

So, have a good day.

 

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ご実家の整理やお片付けなどをされている方のご相談などが多くございます。朝晩少し涼しい季節となってまりましたが、でくれぐれもご無理のないようになさってくださいませ。風光舎では古美術品や骨董品の他にも絵画や宝石、趣味のお品など様々なジャンルのものを買受しております。

お片付けをされていて、こういうものでもいいのかしらと迷われているものでも、どうぞお気軽にご相談下さいませ。

また風光舎は、出張買取も強化しております。ご近所はもちろん、愛知県内、岐阜県、三重県その他の県へも出張いたします。

まずは、お電話お待ちしております。

愛知県名古屋市千種区・骨董 買取

『古美術 風光舎 名古屋店』

TEL052(734)8444

10:00-17:00 OPEN

千種区のお客様より買受させていただきました。(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取 古美術風光舎)

2022.09.02

千種区のお客様より、木箱入茶碗、香炉、アクセサリーなど買受させていただきました。

大切な御品をお譲りくださいまして、誠にありがとうございました。

また何かございましたら、古美術風光舎をよろしくお願いいたします。

 

 

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