お知らせ - 風光舎 | 愛知・名古屋での骨董古美術買取 三重 岐阜 - Page 112

お知らせ

News

FROMKYOTOOSAKA

桜餅が気になりだしました。(愛知県名古屋市姫池通 骨董買取いたします 古美術風光舎名古屋)

2022.04.17

こんにちは、スタッフYでございます。

 

 

 

先日は、お天気も良く絶好の私の大好きなドライブ日和でありました。例のごとく車を走らせ、気持ちのよい風を切りながら、なんてことない周りの景色の移り変わりを好きな音楽をかけて眺めていると、平凡ではありますが風と光があいまった映画のワンシーンと化します。この時間が私の大好きな時間であります。弊店の屋号ではないですが、風が光る季節とはまさにこの時期のことでありましょうか。

 

さてさて話はいきなり別件であります。先日、毎年恒例のこの時期の会話、「桜餅の葉を食べるか食べないか論争」が起こりました。どうでもよい、お好きに食べなさいというのが結論ではありますが。私は食べない派だったのですが、今年は例年しない食べ方にしてみようと、久しぶりに葉と一緒に桜餅を頂きました。

 

ですが、先日食べてみますと意外や意外。塩気もあいまって、「これはいける」と、再発見。何事も固定観念にとらわれると、損をしてしまいますね。

 

そんな桜餅の葉の塩漬けは、葉が大きめのオオシマザクラという種類のものを使用しており、このオオシマザクラの葉は、製菓材料店や商品の種類が豊富な大型のデパートなどで手に入れることができます。

 

また何故葉に巻かれているのかと申しますと、桜の香りづけをしたりお餅の乾燥を防いだりするためだったり、塩漬けにした葉を使うことで雑菌の繁殖を防ぎ、お餅にはほんのり塩味がつく意味などたくさんの意味があるようですが、それよりもなによりも、一番は美味しくなるための工夫でしょうか。

 

私も以前自分で作った際に、作り立ての桜餅がみずみずしく香りもしっかりと残り、いつもより美味しかった記憶が大変残っておりましたので、作り立ての状態はきっと美味しさが絶好調なのだろうでしょうから、やはり桜の葉の効果は絶大なのだなと、今更思い返している次第でございます。

 

そんな桜餅、先日食べました桜餅は「道明寺」。大阪の道明寺というお寺で作られた道明寺粉(もち米を蒸して乾燥したものを粗く挽いたもの)を原料としていることからこの名がついたのですが、これは関西に多い桜餅。餅粉の粒が残って、あんこを完全に包んだタイプ。

 

「道明寺」と、何故申しましたのはお分かりかと思いますが、私も都内に引っ越した際にはじめ知ったのですが、都内で食べた桜餅は「長命寺」でありました。そう、「長明寺」のことを知りませんでした。

桜餅は、「道明寺」と「長命寺」がございます。「長明寺」は、小麦粉の生地を薄く伸ばして焼いているクレープのようなイメージでして、生地を二つ折りにして、中にあんこが入っているのですが、こちらは桜の葉を剥がして、香りを楽しみながら食べるのがオシャレなようです。

 

こちらの名の由来は江戸時代に長命寺というお寺の門前で最初に桜餅が売られたことからによるようですが、歴史的にはこちらの桜餅の方が元祖のようですが、どちらもお寺の名前からの由来なのは、何か意味があるのかどうかはわかりませんでした。

 

先に述べましたように桜餅は関東と関西で分けられていると一般的に思われているようですが、長命寺の分布は主に、関東甲信地方と東北の太平洋側の1部と割と狭い範囲。一方の道明寺は、長命寺以外の全域なのでこちらの方が圧倒的なシェアを占めているようですが、歴史的には長命寺が桜餅の元祖と言われております。道明寺は長命寺のアレンジバージョンのようでして、アレンジした分「おいしい!」と評判になって、後継機種の方が人気になったようですね。

 

そして気になりませんか…。長命寺と道明寺の境界線。気になりますよね。

ご想像がつくかと思いますが、どうやら静岡県沼津市付近のようであります。沼津では、長命寺も道明寺も両方売ってるようでして、ヘルツの境界線ではないですが、桜餅も富士川あたりにどうも長命寺と道明寺の境界線があるのではないかとのことです。

 

ですがそんな境界線がどこだとかそんな細かい話、だんだんどちらでもよくなってまいり…、それよりも桜餅久しぶりに作ってみたくなりまして、桜の葉の塩漬けをどこで調達しようしようかと、意識は完全にそちらへシフトしておりました。

 

お重いっぱいに並べた桜餅のお重の蓋を開ける瞬間を想像し、この連休、昨日のなんちゃってグランピングではないですが、そこでいただこうか…。などと、私の連休の過ごし方の妄想は完全に出来上がりつつあります。

 

連休中お時間ありましたら、みなさまもぜひ桜餅に挑戦してみてくださいませ。

 

それでは、ごきげんよう。

 

 

 

 

Hello, this is Staff Y.

 

The other day, the weather was nice and it was a perfect day for my favorite drive. As usual, driving a car, cutting a pleasant breeze, and watching the transition of the surrounding scenery with your favorite music, it is a scene of a movie where the wind and light are mixed, although it is mediocre. To This time is my favorite time.

It’s not the name of our shop, but is this the time when the wind shines?

Well, the story is suddenly different.

The other day, there was an annual conversation at this time, “the dispute over whether to eat or not eat the leaves of Sakuramochi.” The conclusion is that it doesn’t matter, eat as you like. I didn’t eat it, but this year I had Sakuramochi with leaves for the first time in a while, trying to make it an unusual way of eating.

When I say why I don’t eat it, it seems that I wasn’t good at the strong scent of cherry blossoms in the past, and I had the impression that the leaves of Sakuramochi were pretty solid and hard, and then I wasn’t good at it. However, when I tried it the other day, I was surprised. With the saltiness, I rediscovered, “This is OK.” If you get caught up in stereotypes, you will lose.

The salted leaves of Sakuramochi use a type of Oshima cherry with large leaves, and the leaves of this Oshima cherry can be obtained at confectionery material stores and large department stores with a wide variety of products. increase.

The reason why it is wrapped around the leaves is to add aroma to the cherry blossoms and prevent the mochi from drying out, and by using salted leaves to prevent the growth of germs, the mochi is slightly covered. It seems that there are many meanings such as salting, but above all, is it a device to make it delicious?

When I made it myself before, the freshly made sakuramochi remained fresh and fragrant, and I had a lot of memories that it was tastier than usual, so I’m sure that the freshly made sakuramochi is in excellent condition. I am reminding myself that the effect of cherry blossom leaves is enormous.

The sakuramochi I ate the other day is “Domyoji”. The name comes from the fact that it is made from Domyoji powder (steamed and dried glutinous rice that is roughly ground) made at a temple called Domyoji in Osaka. Is a lot of sakura mochi in Kansai. A type that completely wraps the bean paste with the remaining rice cake powder.

You may understand why I said “Domyoji”, but when I first moved to Tokyo, I first learned that the Sakuramochi I ate in Tokyo was “Chomeiji”. Yes, I didn’t know “Chomei-ji”.

Sakuramochi has “Domyoji” and “Chomeiji”.

“Chomeiji” has the image of a crepe made by thinly stretching and baking wheat flour dough. The dough is folded in half and the bean paste is inside, but here the leaves of the cherry blossoms are peeled off. It seems fashionable to eat while enjoying the aroma. The origin of this name seems to be that Sakuramochi was first sold in front of the temple called Chomeiji in the Edo period, but historically, this Sakuramochi seems to be the originator.

As mentioned earlier, it seems that Sakuramochi is generally thought to be divided into Kanto and Kansai, but the distribution of Chomeiji is mainly divided into the Kanto Koshin region and a part of the Pacific side of Tohoku. And a narrow range. On the other hand, Domyoji is the whole area other than Chomei-ji, so it seems that this one occupies an overwhelming share.

Historically, Chomeiji is said to be the originator of Sakuramochi, but Domyoji is an arranged version of Chomeiji, and the arrangement has become popular as “delicious!”, And the successor model has become more popular. It looks like it was.

 

And don’t you care? The boundary between Chomeiji and Domyoji. I’m curious.

As you can imagine, it seems to be near Numazu City, Shizuoka Prefecture. In Numazu, it seems that both Chomeiji and Domyoji are sold, which is not the borderline of Hertz, but it seems that Sakuramochi also has a borderline between Chomeiji and Domyoji around the Fuji River.

 

However, such a boundary line is getting better and better, and I want to make Sakuramochi for the first time in a long time, so I’m completely conscious of where to procure salted cherry leaves. We have shifted.

Imagine the moment when you open the lid of the sakuramochi, which is lined up with heavy weight, and yesterday’s holiday is not glamping, but let’s go there … And my delusion of how to spend the holidays is completely being completed.

 

If you have time during the holidays, please try Sakuramochi.

 

Well then, good luck.

 

 

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新年度を迎えました。

風光舎では、古美術品や骨董品の他にも絵画や宝石、趣味のお品など様々なジャンルのものを買受しております。

お片付けをされていて、こういうものでもいいのかしらと迷われているものでも、どうぞお気軽にご相談下さいませ。

また風光舎は、出張買取も強化しております。

ご近所はもちろん、愛知県内、岐阜県、三重県その他の県へも出張いたします。

まずは、お電話お待ちしております。

 

愛知県名古屋市千種区・骨董 買取

『古美術 風光舎 名古屋店』

TEL 052(734)8444

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なまはげは鬼じゃなかった(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取いたします 古美術風光舎名古屋店)

2022.04.16

皆さまこんにちは

秋田県に何かと縁のある、スタッフNでございます。

 

皆さま、秋田県というと何を思い浮かべるでしょうか?

きりたんぽ鍋、秋田犬、あきたこまち、佐々木希、いぶりがっこ、稲庭うどん等々ございます。

俳優の柳葉敏郎さんは、地元の祭りやイベントによく参加されているそうです。

知り合いの中で柳葉敏郎さんに会えていないのは私だけなので、いつかお会いしたいものです。

そういえば、幼い頃に大曲の花火大会に参加したことがあるのですが、真下から見る花火の迫力は凄まじいものでした。花火の中にいる錯覚に陥るので、是非皆さまにも体験していただきたいです。

 

 

今回は、秋田の知人からなまはげの写真を送っていただいたので、なまはげについて詳しくご紹介したいと思います。

空港でご対面するこのなまはげを見ると、秋田県に来た感じが致します。

なまはげは、秋田県の男鹿半島周辺で行われてきた年中行事、あるいはその行事において、仮面をつけ藁の衣装をまとった神の使い(来訪神)のことを指します。

 

秋田県の男鹿半島(男鹿市)、および、山本郡三種町・潟上市の一部において見られる伝統的な民俗行事で、200年以上の歴史がございます。。男鹿市などの調査によると、2012~2015年において市内148地区のうち約80地区でナマハゲ(なまはげ)行事があるそうです。「男鹿(おが)のナマハゲ」として、国の重要無形民俗文化財に指定されているほか、「来訪神:仮面・仮装の神々」の一つとしてユネスコの無形文化遺産に登録されております。異形の仮面をつけ、藁などで作った衣装をまとった「なまはげ」が、家々を巡って厄払いをしたり、怠け者を諭したりする光景は有名ですよね。

 

なまはげと同様の行事は日本各地にございますが、その中でも特になまはげは、圧倒的な知名度を得て、秋田県と言えばなまはげと言われるまでに至りました。その知名度の大きさから、秋田県の観光PRに用いられるのは勿論、秋田県に関連する私企業でもモチーフにされたり、秋田県関連の物販・飲食店でのオーナメントや余興の1つとされたりして、頻繁に用いられています。

 

本来、地区の未婚の男性がなまはげを務めるのが習わしですが、高齢化と地区の人口減により担い手の若者が減少、既婚男性や高齢者、さらには帰省中の親族など地区外の者が務める例も見られるようになりました。男鹿市の双六地区では、なまはげ役を県内にある秋田大学や国際教養大学の外国人留学生も務めることがあるそうです。海外の方にとっては貴重な経験でございますね。また、なまはげの主な訪問先である子供がいる世帯が少子化により減少しているため、実施する動機の減退も見られております。その他、年末年始に仕事があったり、旅行などで不在だったりと、住民の生活の変化もなまはげの衰退の要因になっているそうです。

 

 

 

なまはげには角があるため、鬼であると誤解されることがあるが、鬼ではないそうです。今回調べてみて一番驚きました。なまはげは本来、鬼とは無縁の来訪神でありましたが、近代化の過程で鬼と混同され、誤解が解けないまま鬼の一種に組み込まれ、変容してしまったという説があるそうです。

冬に囲炉裏(いろり)にあたっていると手足に「ナモミ」 「アマ」と呼ばれる低温火傷(温熱性紅斑)ができることがあります。“それを剥いで”怠け者を懲らしめ、災いをはらい祝福を与えるという意味での「ナモミ剥ぎ」から「なまはげ」 「アマハゲ」 「アマメハギ」 「ナモミハギ」などと呼ばれるようになったそうです。

なまはげの仮面の形は地域によって様々異なりますが、赤面と青面の1対に定型化もされており、この場合は赤面がジジナマハゲ、青面がババナマハゲと呼ばれています。

赤青それぞれに名前があったのですね。

「なまはげ」は怠惰や不和などの悪事を諌め、災いを祓いにやってくる来訪神でございます。かつては小正月(旧暦から新暦に)の行事でしたが、大晦日の行事となり、年の終わりに、大きな出刃包丁(あるいは鉈)を持ち、鬼の面、ケラやミノのような用具、ハバキをまとって、なまはげに扮した村人が家々を訪れ「泣ぐ子(ゴ)は居ねがー」「悪い子(ゴ)は居ねがー」と奇声を発しながら練り歩き、家に入って怠け者や子供、初嫁を探して暴れます。家人は正装をして丁重にこれを出迎え、主人が今年1年の家族のしでかした日常の悪事を釈明するなどした後に酒などをふるまって、送り帰すとされています。

ニュースでなまはげの怖さに大泣きする子供をよく見ますが、こうやって秋田の子供たちは強くなっていくのですね。

妖怪などと同様に民間伝承であるため、正確な発祥などはわかっておりません。秋田には、「漢の武帝が男鹿を訪れ、5匹の鬼を毎日のように使役していたが、正月15日だけは鬼たちが解き放たれて里を荒らし回った」という伝説があり、これをなまはげの起源とする説があるそうです。

 

知っているようで知らないなまはげ、鬼ではなく神様だとわかれば少しは怖くなくなるかもしれません。

 

ではでは

 

Hello everyone

This is Staff N, who has something to do with Akita Prefecture.

What do you think of when you think of Akita Prefecture?

Kiritanpo hotpot, Akita dog, Akitakomachi, Nozomi Sasaki, Iburi-gakko, Inaniwa udon, etc.

Actor Toshiro Yanagiba often participates in local festivals and events.

I’m the only one I know who hasn’t met Toshiro Yanagiba, so I’d love to see him someday.

By the way, I participated in the Omagari Fireworks Festival when I was little, but the power of the fireworks seen from directly below was tremendous. You will feel like you are in the fireworks, so I would like everyone to experience it.

 

This time, an acquaintance of Akita sent me a picture of Namahage, so I would like to introduce you to Namahage in detail.

When you see this Namahage facing you at the airport, you feel like you are in Akita prefecture.

Namahage refers to a god’s messenger (visiting god) wearing a mask and straw costume at an annual event held around the Oga Peninsula in Akita Prefecture.

It is a traditional folk event found in the Oga Peninsula (Oga City) in Akita Prefecture and part of Mitane Town and Katagami City in Yamamoto District, and has a history of more than 200 years. .. According to a survey by Oga City and others, there are Namahage events in about 80 of the 148 districts in the city from 2012 to 2015. In addition to being designated as an important intangible folk cultural property of the country as “Oga Namahage”, it is also registered as a UNESCO intangible cultural heritage as one of the “visiting gods: gods of masks and costumes”. .. It is famous to see “Namahage” wearing a strange mask and a costume made of straw, etc., going around the houses and reminding the lazy.

There are similar events to Namahage in various parts of Japan, but among them, Namahage has gained overwhelming popularity and has come to be called Namahage in Akita Prefecture. Due to its popularity, it is used not only for tourism promotion in Akita prefecture, but also as a motif for private companies related to Akita prefecture, and it is also regarded as one of the ornaments and entertainment at Akita prefecture related merchandise stores and restaurants. And it is used frequently.

Originally, it is customary for unmarried men in the district to act as namahage, but due to the aging of the population and the declining population of the district, the number of young people who are responsible for it is decreasing, and married men and the elderly, as well as relatives who are returning home, are serving as namahage. You can also see examples. In the Sugoroku district of Oga City, foreign students from Akita University and Akita International University in the prefecture may also play the role of Namahage. It’s a valuable experience for foreigners. In addition, as the number of households with children, which is the main destination for Namahage, is decreasing due to the declining birthrate, the motivation for implementing it is also declining. In addition, changes in the lives of residents, such as having work during the year-end and New Year holidays and being absent due to travel, are also factors in the decline of Namahage.

Namahage has horns, so it is sometimes misunderstood that it is a demon, but it seems that it is not a demon. I was most surprised when I looked it up this time. Namahage was originally a visiting god unrelated to demons, but there is a theory that it was confused with demons in the process of modernization, and was incorporated into a type of demon without being misunderstood and transformed.

If you hit the hearth in winter, you may get low-temperature burns (thermal erythema) called “namomi” or “ama” on your limbs. It is said that it has come to be called “Namahage”, “Amahage”, “Amahage”, “Namomihagi”, etc.

The shape of the namahage mask varies from region to region, but it is also standardized as a pair of blush and blue, in which case the blush is called Jijinamahage and the blue is called Babanamahage.

There was a name for each of red and blue.

“Namahage” is a visiting god who gives up evil things such as laziness and discord and comes to worship disasters. It used to be a New Year’s Eve (from the lunar calendar to the new calendar), but at the end of the year, it has a big deba knife (or hatchet), a demon mask, tools like Kera and Mino, and Habaki. In the meantime, villagers dressed as Namahage visit the houses and parade while making strange voices such as “Crying child (Go) is here” and “Bad child (Go) is here”, and enter the house and be lazy. Looking for a child, the first bride, and rampaging. It is said that the family members dress up and greet them politely, and after the husband explains the daily wrongdoing of his family this year, he drinks alcohol and sends them back.

I often see children crying in the news about the fear of namahage, but this is how Akita’s children get stronger.

Since it is a folklore like youkai, the exact origin is unknown. In Akita, there is a legend that “Han Wudi visited Oga and used five demons on a daily basis, but only on New Year 15th, the demons were unleashed and devastated the village.” There seems to be a theory that this is the origin of Namahage.

Namahage that seems to be known but not known, and if you know that you are a god instead of a demon, you may not be a little scared.

See you soon

 

 

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新年度を迎えました。

風光舎では、古美術品や骨董品の他にも絵画や宝石、趣味のお品など様々なジャンルのものを買受しております。

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守山区のお客様より買受致しました。(愛知県名古屋市千種区姫池通 古美術買取いたします 古美術風光舎名古屋店)

2022.04.15

名古屋市守山区のお客様より、お茶碗、雑品買取致しました。

この度は大切なお品をお譲りくださいまして、誠にありがとうございました。

 

また、ご縁がございましたら古美術風光舎名古屋店をよろしくお願いい申し上げます。

 

 

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皆さまの連休の計画はいかがでしょうか?(愛知県名古屋市千種区姫池通 古い物買取致します 古美術風光舎名古屋店)

2022.04.15

みなさまこんにちは、スタッフYです。

 

まずは、連休中の店舗の営業お知らせを。

 

古美術風光舎は連休中は平常通り営業しております。

5月2日(月)は、お休みをいただいておりますが、お電話での対応はいたしておりますのでお気軽にご連絡くださいませ。

 

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ところで、先日のニュースにて、今年の大型連休期間中の新幹線の予約状況があがっておりましたね。つい先日新年度4月がスタートしまして、早くも連休が気になり始めるという時の早さよ…。

 

新年度新たなスタートを切り、目まぐるしい環境の変化に、緊張や喜びそして戸惑いを実感した皆さんは、ここで一息つきたいところでありましょう。

皆様の連休の計画はいかがでしょうか?

 

さてさて、今年の新幹線の予約状況は軒並み昨年より増加のようで、今年は気を付けながら活動してみようと計画されている方も多いようですね。

 

各新幹線の予約席数は合わせて103万席で去年の1.62倍となりましたが、4年前の同じ時期と比べると、およそ5割にとどまっていまっているようですから、以前の連休はどんな様子だったのか?と、あの頃の混雑が遠い昔のように思えてくるのは私だけでしょうか。

とにもかくにも、気を付けながらの移動にはなりそうですね。

 

といいましても、実は私の連休の計画はまだなにも決まっておりませんで。

 

きっと昨年同様近場でうろうろし、家の片づけや洗濯をし…、といったっところなのですが、ずっと以前から必ず行っていることがございまして。

 

それは自宅の窓をすべて全開にして、外の風を入れてのなんちゃってグランピング。

 

例年のルーティーンですと、お天気のよい爽やかな日は午前中に窓を拭いたり庭のお掃除を致します。そうると調子に乗って気が付けはお昼過ぎ。ちょっと疲れるんですよ…。そのお掃除した窓はそのまま開けておき、遅めのお昼ごはんみたいな午後飲みが始まります。

 

ここまでお伝えすると我が家の田舎様がばれてしまいますが、とはいえ普段はなかなか解放できない窓。連休中はどことなくご近所周りの方々もリラックスしているようですので、えーいと窓全開にさせていただいております。

 

そんななんちゃってグランピング、自宅ですからいつもの食卓での食事ではあるのですが、その日だけは昼間からお酒を用意し、お酒に合うようなメニューを用意し(そんな手の込んだものは用意いたしませよ笑)、お昼から徹底的にだらけるという一年のうちに数回ですが自分を甘やかす日。

 

以前は親戚や友人で集まったりしておりましたが、このところは家族でこじんまりと行っておりますがまあどちらでもよいです。こじんまりと過ごす時間の中、窓から見える萌黄色(笑)の新緑を風景に、外からの風を入れますと、不思議といつもの食卓がグランピングと化します。そんな中、風を感じながら昼間からソファでだらだらとお酒などたしなんでいますと、いつもの食卓もなんだか外食したかのように錯覚し、また開放感を味わえたような錯覚をいたしますので、この季節は大いに錯覚した方が良いなと思いました。

 

連休の過ごし方がどうしようもなくなった皆さま、ご自宅の状況によるかと思いますが、春の爽やかな風が家の中を通り過ぎるだけでこんなにも風景が違ってくるのかときっと気が付くかと思いますので、昼飲みとは言わずも、風を感じながらお茶などもよいかもしれませんね。

 

ではでは、ごきげんよう。

 

 

 

Hello everyone, this is Staff Y.

 

First of all, let us know about the business of stores during consecutive holidays.

 

The antique art Fukosha is open as usual during the holidays. We are closed on May 2nd (Monday), but we are available by phone, so please feel free to contact us.

 

 

 

By the way, in the news the other day, the reservation status of the Shinkansen during the Golden Week holidays this year has risen. Just the other day, April of the new year started, and it’s too early to start worrying about consecutive holidays …

For those of you who have made a fresh start in the new year and have experienced tension, joy and confusion over the rapid changes in the environment, let’s take a break here.

 

By the way, the situation of the Shinkansen this year seems to have increased from last year, and it seems that many people are planning to take care of their activities this year.

The total number of reserved seats on each Shinkansen was 1.03 million, 1.62 times that of last year, but it seems that it is only about 50% compared to the same period four years ago, so what is the previous consecutive holidays? Was it? I’m about to forget it. I’m sure you planned your holiday trips and transportation reservations when it was still cold.

Anyway, it seems that it will be a movement while being careful.

 

However, I haven’t got any plans for consecutive holidays yet.

I’m sure, like last year, I’m just wandering around, cleaning my house, and so on, but I’ve always been doing this for a long time.

It’s glamping with all the windows in my house fully open and the outside wind.

 

In the usual routine, we will wipe the windows and clean the garden in the morning on a refreshing day when the weather is nice. Then I got sick and noticed after noon. I’m a little tired … Leave the cleaned windows open and only start in the afternoon, like a late lunch.

If you tell me so far, the countryside of my house will be revealed, but it is a window that can not be opened normally. However, during the holidays, it seems that the people around the neighborhood are relaxing, so I am opening the windows fully.

 

Since I’m at home, it’s the usual meal at the table, but only on that day, I prepare sake from daytime, prepare a menu that matches the sake (I will not prepare such elaborate things lol), from noon It’s a day to pamper yourself several times a year when you’re completely lazy.

I used to get together with relatives and friends, but nowadays I’m a small family, but it doesn’t matter which one. During a small time, when the fresh green of Moegi (laughs) seen from the window is put in the scenery and the wind from the outside, the usual dining table becomes glamping, and while feeling the wind, slurping on the sofa from daytime etc. I thought it would be better to make great use of this season because the usual dining table can give you a mysteriously luxurious feeling of openness.

 

For those of you who have no choice but to spend the holidays, I think it depends on the situation at home, but I’m sure you will notice that the scenery will be so different just by passing the refreshing spring breeze through the house, so noon. It may be good to have tea while feeling the breeze, not just drinking.

 

Well then, good luck.

 

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今日は、「緑」ではなく「萌黄色」と言ってみようかと。(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取いたします 古美術風光舎名古屋店)

2022.04.13

みなさま、こんにちは。スタッフYでごさいます。

 

 

 

 

今朝仕事にて外をまわっていますと、ここ一日二日で新緑が待っていましたとばかりの勢いに芽吹いていますね。

そんな美しい新緑を眺めておりますと、新緑の「緑」が様々であり、その様々な様子がなんともいえぬ絵画のように見えてまいり、絵が上手に描けたらどんなにかよかったのになと、思った次第でごさいます。

 

そんな「緑」、新緑の緑をみていましても一派一絡げとはいかず、少し黄色味を帯びていたり、青みを帯びていたり、薄かったり濃かったり様々。

こんなに様々であるにもかかわらず、古代では寒色系統を総括的にアオと呼び、草木の緑系統の色もアオであったようですから、当時はそもそも色を区別する概念がそんなになかったか。こんなに違っているのに。

 

そういっても、後の平安時代以降は 木の芽や若葉の色を「萌黄」と用いることが多かったようであります。「緑」は存在していたようですが、『万葉集』や『延喜式』の中にもみられますように、あまり用いられることは少なかったようですね。

 

そんな万葉集に、現代人の私たちの感覚でも美しいなと思える「緑」の登場する歌がありましてご紹介いたします。

作者不明はでございます。

 

「浅緑染め懸けたりと見るまでに春の柳は萌えにけるか」」

~まるで浅緑に染めた糸を掛けたように、春の柳がが芽吹いています。

 

と、ここでは「緑」が詠われております。ですが、普段「緑」として使われていたのは「萌黄」が主流だたのでようですから、当時の人にとっては馴染みのない文学的な言葉にすぎなかったのでしょうか。

ですが、芽吹き始めた柳の新緑を繊細な緑の糸に例え、そんな柳が風に揺れるほんのり軽やかな春の情景を当時の人も美しいと思い表現したかったのでしょうか、素敵な歌ですね。

 

 

そんな「萌黄」をはじめ伝統色ですが、緑にちなんだ色だけでも現在は82色もあるようです。

 

お分かりのように、宝石・動物・鳥に由来する色名が少なく、植物的な発想に基づいているものが 多く、固有色名というより漠然とした萌黄や若草色などの色名が多く使われております。緑に関しては、植物に由来することは大いに理解できますし、植物からの由来の名前のほうが逆に私たちにはイメージができやすいようにも思えますね。

 

とまあそのネーミングでの植物のイメージの紐づけは大いに理解できますが、昔はさらに一歩先のその色の持つ意味のイメージが存在しましたよね。たとえば、有名な冠位十二階。これは、色によって位をつけていたり、「紫」が高貴な位だったことはみなさん、かつての歴史の教科書で学びましたよね。

 

そんな色の持つイメージが「萌黄色」にも存在しているようですね。それが鎧の縅(おどし)や太刀などの配色に組み込まれているようで、その人物の地位や立場などを語る道具だてにもなりました。

縅には緋色や黒、紫などが好まれたようですが、苅安(カリヤス)で黄色に染めた布を藍(アイ)でさらに染めた萌黄色もございました。

 

そんな萌黄色の縅にちなんだ話が「平家物語」に登場致します。

萌黄色の意味は若く血気盛んな意味であったのでしょうか、平敦盛は、年の頃も16,7歳で、「練貫(ねりぬき)に鶴を縫うたる直垂(ひたたれ)に、萌黄匂(もえぎにほひ)の鎧著(き)て」と若々しく上品な装いで登場致します。また、同じ萌黄の縅でも、老武者・斉藤別当実盛は「若やがう(=若返ろう)」という気持ちで「赤地の錦の直垂に、萌黄縅の鎧」をまとい、白くなった鬢(びん)やひげを黒く染めて戦いにのぞんだとのことですので当時の色の持つ意味は、もはや力強いメッセージとも感じ取れました。

 

物語の戦いで亡くなった二人の武者――敦盛と実盛の凛とした最期は、装束の色のあざやかさを描写しておりましたので、その萌黄色が悲しくもより悲劇をきわだてます。

 

 

そもそも、萌黄色の名付けの由来は “草木が萌え出づる時の色”。

このように名づけた先人と、それに若々しく血気盛んなメッセージを込めた先人たちの美意識のことを思いながら、せっかくだから今日は、「緑」ではなく「萌黄色」と言ってみようかなと、いつもの道を通り過ぎてまいりました。

 

ところで、この珉平焼の緑は伝統色では何色と表現しようか…

 

それでは、ごきげんよう。

 

 

 

Hello everyone. Staff Y will be there.

 

When I was traveling outside for work this morning, the momentum of fresh green was waiting for me in the last day or two, isn’t it?

Looking at such a beautiful fresh green, the “green” of the fresh green is various, and the various appearances look like an indescribable painting, and I wish I could draw the picture well. It depends on what you think.

 

Even if you look at such “green” and fresh green, it is not a group of people, and it is a little yellowish, bluish, light or dark.

Despite the variety, in ancient times the cool colors were collectively called Ao, and the green color of the plants seemed to be Ao, so at that time there wasn’t much of a concept to distinguish colors. Even though it’s so different.

 

Even so, it seems that after the Heian period, the color of tree buds and young leaves was often used as “moegi”. It seems that “green” existed, but as you can see in “Manyoshu” and “Engi-shiki”, it seems that it was rarely used.

 

In such a collection of many leaves, we would like to introduce a song in which “green” appears, which seems to be beautiful even in our sense of modern people.

The author is unknown.

 

“Is spring willow moe by the time I see it dyed in light green?”

-Spring willows are sprouting as if you hung a thread dyed in light green.

 

And here, “green” is sung. However, it seems that “Moe Huang” was the mainstream that was usually used as “green”, so was it just a literary word that was unfamiliar to people at that time?

However, I wonder if people at that time wanted to express the slightly light spring scene where the willow sways in the wind by comparing the fresh green of the willow that has begun to sprout to a delicate green thread, isn’t it? ..

 

 

 

It is a traditional color such as “Moegi”, but it seems that there are currently 82 colors associated with green alone.

 

As you can see, there are few color names derived from gems, animals, and birds, and many are based on plant-like ideas. We are doing it. As for green, it is very understandable that it is derived from plants, and it seems that the names derived from plants are easier for us to imagine.

 

Well, I can understand the linking of the image of the plant in that naming, but in the old days, there was an image of the meaning of the color one step further. For example, the famous 12th floor of the crown. You all learned from the history textbooks that “purple” was a noble place, and that it was ranked according to color.

 

It seems that the image of such a color also exists in “Moegi”. It seems that it is incorporated in the color scheme of the armor’s odoshi and sword, and it has become a tool to talk about the position and position of the person.

It seems that scarlet, black, and purple were preferred for the odoshi, but there was also Moegi, which was made by dyeing a cloth dyed yellow with Karyasu and then dyeing it with indigo.

 

A story related to such Moegi odoshi will appear in “The Heike Story”.

Perhaps the meaning of Moegi was young and bloody, and Taira no Atsumori was 16 or 7 years old when he was 16 or 7 years old. , Moegi Nihohi’s armor work “, will appear in a youthful and elegant outfit. In addition, even with the same Moegi odoshi, the old warrior Saito Betto Morimori wore “Moegi odoshi armor on the red brocade brocade” with the feeling of “Young (= rejuvenate)” and turned white. He said that he dyed (bottles) and beards black and wanted to fight, so the meaning of the colors at that time seemed to be a powerful message.

 

The two warriors who died in the battle of the story-Atsumori and Sanemori’s dignified end portrayed the vividness of the color of the costume, so the moegi is sadly more tragic. ..

 

 

 

In the first place, the origin of the name Moegi is “the color when plants start to sprout”.

Thinking about the aesthetic sense of the ancestors named in this way and the ancestors with a youthful and bloody message, let’s say “moegi” instead of “green” today. I have passed the usual road.

 

Well then, good luck.

 

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新年度を迎えました。

風光舎では、古美術品や骨董品の他にも絵画や宝石、趣味のお品など様々なジャンルのものを買受しております。

お片付けをされていて、こういうものでもいいのかしらと迷われているものでも、どうぞお気軽にご相談下さいませ。

また風光舎は、出張買取も強化しております。

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世界宇宙旅行の日(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取いたします 古美術風光舎名古屋店)

2022.04.12

皆さまこんにちは

 

お寿司大好きスタッフNでございます。

 

 

先日初めて行く回転寿司に行ったところ、嬉しいことがありました。

一人で来ていた隣のおばあ様から「一人で食べきれないから」となんとお裾分けをいただきました。

生簀から取り出したばかりのあじを、握りと唐揚げにしたものなのですが、これがまあ美味でございました。

一匹を余すところなくさばくので、それなりの値段と量になるのですが、前に食べて美味しかったからどうしても食べたかったそうです。

ボックス席が空いてなかったので、仕方なくカウンター席にしたのですが、思わぬ素敵な出会いがございました。

このブログで感謝の気持ちを綴らせていただきます。

写真は、釣りが趣味なのに出会ってから一度も魚を釣ってこない知人と、昔行った和歌山県紀伊勝浦の市場の様子でございます。

近くの八百屋さんには看板にゃんこがおりました。

 

 

 

さて、今日は世界宇宙飛行の日だそうです。

宇宙と言えば名古屋市科学館のプラネタリウムが有名ですね、も昔年間パスポートを購入してよく観に行っておりました。

宇宙の中に吸い込まれるような演出や、サカナクションやレッチリなどのおしゃれな音楽も取り入れたショーは圧巻でございます。

 

1961年4月12日、世界初の人を乗せた人工衛星ヴォストーク1号がソビエト連邦によって打ち上げられたことを記念する記念日でございます。。国際連合総会が2011年4月7日に決議し、4月12日が世界宇宙旅行の日に制定されました。

人類で初めて宇宙に行ったユーリ・ガガーリンの、「地球は青かった」の言葉は、世界に残る名言になっていますよね。

また、NASAのスペースシャトル『コロンビア』の最初のフライトも20年後の1981年4月12日に打ち上げられていますが、これは当初の打ち上げ予定から2日延期された結果、偶然4月12日になったものだそうです。

 

ZOZOTOWNの元社長の前澤さんが日本の民間人として初めて国際宇宙ステーションに滞在したのが最近話題になりましたね。

ZOZOTOWNのランキング上位から服を買っておけば間違いなしと思っているNも、気になっておりました。

訓練やロシア語の勉強などの様子がYOUTUBEにあがっていましたね。

生きているうちにもしかしたら宇宙旅行にも行ける日が来るのかもと少しワクワクしてしまいます。

 

そして同じく、宇宙飛行士の日でもあるそうです。

人類初の軌道飛行を記念して、主にロシアで毎年4月12日に祝われる祝日のようです。この記念日は、1962年4月9日にソビエト連邦によって制定されました。

宇宙飛行士の日は、1961年4月12日に27歳のソビエト人宇宙飛行士ユーリイ・ガガーリンがボストーク1号に搭乗して1時間48分で地球を1周した史上初の有人宇宙飛行を記念したものでございます。。

これはまさにソビエト連邦の宇宙開発の大きな成功であり、世界中で大きな反響がありました。ガガーリンはすぐにソビエト連邦の国民的なヒーローだけではなく、世界的なヒーローになりました。世界中の主要な新聞が彼の伝記や飛行の詳細について掲載しました。モスクワやその他ソビエト連邦の大きな都市ではパレードが開催され、その規模は第二次世界大戦の戦勝記念パレードに次ぐ程であったそうです。

ガガーリンは高位の役人の車列にエスコートされ、モスクワの通りを通ってクレムリンに向かい、そこでは豪華なセレモニーが催され、彼はニキータ・フルシチョフからソビエト連邦で最高の栄誉であるソ連邦英雄の勲章を受けました。

宇宙飛行士の日には、ガガーリンの像があるモスクワ州コロリョフからセレモニーが出発し、人々は警察による警護の下にガガーリンが葬られている赤の広場のKremlin Wall Necropolisを訪れ、さらに宇宙征服者のオベリスク近くの宇宙飛行士通りを通ってノヴォデヴィチ墓地まで続くそうです。

ガガーリンと同じ景色が見られる日が来るといいですね。

ではでは

 

Hello everyone

This is Staff N, who loves sushi.

When I went to the conveyor belt sushi for the first time the other day, I was happy.

The aunt next door, who came alone, said, “I can’t eat alone.”

The horse mackerel that had just been taken out of the cage was fried and fried, and it was delicious.

It’s a reasonable price and quantity because it handles all the animals, but it was delicious before, so he really wanted to eat it.

The box seats weren’t available, so I had no choice but to use the counter seats, but I had a wonderful encounter.

I would like to express my gratitude in this blog.

The photo shows a market in Kii-Katsuura, Wakayama Prefecture, where I went to a long time ago with an acquaintance who has never caught fish since I met him, even though he has a hobby of fishing.

There was a signboard Nyanko at a nearby greengrocer.

By the way, it seems that today is the day of human space flight.

Speaking of space, the planetarium of the Nagoya City Science Museum is famous, but I used to buy a passport and go to see it a long time ago.

The show that incorporates fashionable music such as sakanaction and red hot chili is a masterpiece.

This is the anniversary of the launch of the world’s first artificial satellite, Vostok 1, by the Soviet Union on April 12, 1961. .. The General Assembly of the United Nations resolved on April 7, 2011, and April 12 was enacted on International Day of Human Space Flight.

Yuri Gagarin, who went to space for the first time in humankind, said that “the earth was blue” is a wise saying that remains in the world.

Also, the first flight of NASA’s Space Shuttle Columbia was launched on April 12, 1981, 20 years later, but this happened to be April 12, as a result of being postponed by two days from the original launch schedule. It seems that it became.

It has recently become a hot topic that Mr. Maezawa, the former president of ZOZOTOWN, was the first Japanese civilian to stay at the International Space Station.

I was also worried about N, who thinks that there is no doubt if he buys clothes from the top of the ZOZOTOWN ranking.

The state of training and studying Russian was on YOUTUBE.

I’m a little excited that the day will come when I can go on a space trip while I’m alive.

And it’s also Cosmonautics Day.

It seems to be a holiday celebrated on April 12th every year, mainly in Russia, to commemorate the first orbital flight of mankind. This anniversary was established by the Soviet Union on April 9, 1962.

On April 12, 1961, 27-year-old Soviet astronaut Yuri Gagarin boarded Vostok 1 and made the first manned space flight around the earth in 1 hour and 48 minutes. It is a commemorative one. ..

This was exactly the great success of the Soviet Union’s space exploration and had a great response all over the world. Gagarin soon became a global hero as well as a national hero of the Soviet Union. Major newspapers around the world have published details of his biographies and flights. Parades were held in Moscow and other large cities of the Soviet Union, and the scale was second only to the World War II victory parade.

Gagarin was escorted by a convoy of high-ranking officials to the Kremlin through the streets of Moscow, where a spectacular ceremony was held, where he received the highest honor of the Soviet hero from Nikita Khrushchev. received.

On Astronaut’s Day, the ceremony departs from Korolev, Moscow Oblast, where the statue of Gagarin is located, and people visit the Kremlin Wall Necropolis on Red Square, where Gagarin is buried under police guard, and then the Space Conquerors. It is said that it will continue to Novodevic Cemetery through Cosmonauts Street near Oberisk.

I hope the day will come when you can see the same scenery as Gagarin.

See you soon

 

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新年度を迎えました。

風光舎では、古美術品や骨董品の他にも絵画や宝石、趣味のお品など様々なジャンルのものを買受しております。

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スタッフミーティングを行いました。(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取いたします 古美術風光舎名古屋店)

2022.04.11

皆さまこんにちは、スタッフYでございます。

 

 

 

 

先日、古美術風光舎名古屋店スタッフミーティングを行いましたよ。

 

 

 

このミーティング、定期的に行ってはおりますが、今回は新しいスタッフも入り、顔合わせ兼日頃の業務の確認などのミーティングとなりました。

 

例のごとく、店主よりいただきました差し入れを頬張りながらでしたので、店主、ごちそうさまでした。

 

ところで、私共を含めスタッフメンバーは古美術に触れることはこのお仕事が初めてでありまして、これらは一番悩ましいことではあり、ミーティングではそれらのことについても話したり致しました。

 

そんな古い物に触れるための様々な知識や教養を、業務をこなしながら調べたり店主やお客様から教えてただいたりお勉強させていただいている日々でございますが、古美術やアート好きが集まっておりますので、これもまた楽しくもあります。

 

まだまだお勉強途中の未熟者スタッフではございますが、皆様に喜んでいただける古美術商であり続けますよう頑張ってまいりますので、よろしくお願い申し上げます。

 

 

 

Hello everyone, this is Staff Y.

 

The other day, we held a staff meeting at the antique art Fukosha Nagoya store.

 

This meeting is held on a regular basis, but this time it was a meeting with new staff to meet and confirm daily work. As usual, I was cheering on the insert I received from the shop owner, so I was happy with the shop owner.

 

By the way, the staff members including us are new to this work to come into contact with antique art, and these are the most annoying things, and we talked about them at the meeting.

Every day I study various knowledge and culture to touch such old things while doing business, teaching from shop owners and customers, but antique art and art lovers are gathering. So this is also fun.

 

Although we are still an inexperienced staff member who is still studying, we will do our best to continue to be an antique dealer that pleases everyone. Thank you for your cooperation.

 

 

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南区のお客様より買受いたしました(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取いたします 古美術風光舎名古屋店)

2022.04.11

 

 

南区のお客様より、掛軸、お道具など買受いたしました。

この度は大切な御品をお譲りくださいまして、誠にありがとうございました。

 

またご縁がございましたら、古美術風光舎名古屋店をよろしくお願い申し上げます。

 

 

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薄墨色を見に行ってまいりました。(愛知県名古屋市千種区姫池通 古い物買取いたします 古美術風光舎名古屋店)

2022.04.10

皆さまこんにちは、スタッフYでございます。

 

こちら名古屋、桜の花もそろそろ終わりになってまいりました。

その花びらに隠れて準備を始めていた新緑が次の出番を待っていたかのように顔を出しはじめ、気が付くと至る所に薄っすらぼんやりした緑が木々を覆いはじめております。

この何とも言えない季節の変わり目の移ろいが、本当に好き。ことに春の移ろいは、様々な命の息吹を実感でき、毎年少しでも実感したいとこの時期、なんだか落ち着きがありません笑。

 

先日はその落ち着きのなさがいよいよ発動してしまい、その命の息吹をまさしく実感することのできる「桜」を見に行って参ました。

随分前から、生きてるうちに(大げさな…)絶対に行かねばと心にしたためておりました岐阜県本巣市の

「薄墨桜」でございます。

 

 

 

美しい名前ですね。この桜、岐阜県本巣市根尾地区の淡墨公園にある樹齢1500年以上のエドヒガンザクラでありまして、国の特別天然記念物となっています。淡墨桜は蕾のときは薄いピンク、満開に至っては白色、散りぎわには特異の淡い墨色になり、淡墨桜の名はこの散りぎわの花びらの色にちなんでおります。樹高16.3m、幹囲目通り9.91m、枝張りは東西26.90m、南北20.20m。樹齢は1500余年と推定され、継体天皇のお手植えという伝承が。日本三大巨木のひとつではありますが、そんなことよりも枝を大きく張り圧倒的なその生命力と息吹を体感しに行きたいなとかねてからの夢でありました。

 

 

昨今の状況下もあったのですが、それよりも何よりもお隣岐阜県と申しましてもここ名古屋からでもなかなかのアクセスでありまして。「この時期のこのお天気の日にこの桜をみにいこう。」と、心に誓わねばなかなかたどり着けないところであります。いえいえ、ありました…。

 

とにもかくにもカメラマンの腕前ではこのさくらの大きさがうまく伝わららないことに、少々残念ではございますが、周りの人の大きさと比較しながら、まずは「薄墨桜」ご覧になってくださいませ。

 

 

 

 

その巨木の大きさや薄墨の花びらが散る様子などが想像できますでしょうか。うまく伝えるのは難しい…。

 

 

樹齢1500年ともなりますとこれまで幾度となく風雪などによる枯死のピンチにあうことも多々。そのたびに多くの人々による保護再生をうけ、なんとか再生復活。この桜の生命力の他に薄墨桜は人々の保護再生の歴史でもあり、作家の宇野千代さんがその保護を訴えたりとたくさん方々の桜への活動もよく知られておりますよね。

そんな思いをも1500年受け継ぎながら、今年も桜は枝を大きく張りめぐらし、薄墨の花びらを精一杯咲かせ満開。見事ですね。

 

 

先にも述べましたこの桜は、蕾の時は薄いピンク、満開にいたっては白色、散りぎわには独特の淡い墨色にであり、淡墨桜の名はこの散りぎわの花びらにちなんで呼ばれております。

その様子を継体天皇が皇子の頃、隠れて養育されていた岐阜県本巣より都へ帰る際にお世話になった住民に桜の苗木を植えて詠んだ歌がございますよ。

 

 

 

 

身 の 代と 遺す桜は 薄住よ 千代にその名を 栄盛へ 止むる
(みのしろと のこすさくらは うすずみよ ちよにそのなを さかえ とどむる)

 

たぶん、私が昨日見てきました同じ桜の前に立ち同じ薄墨色を見て、継体天皇はこのように詠んでいるのでしょうが、当時より薄墨色が大変印象に残っていたのでしょう。そして、継承天皇の詠まれたように、この「薄墨桜」が、千代にその名を残していることを、なによりもこの桜はきっと驚いていることでしょう。

 

1500年を経て千代にその名を栄盛へととむるべくたくましく生き延びた巨木に、「これまで迎えた1500回の満開の景色はどうだった?」とこれまでの物語を尋ねてみたい思いでありました。

 

みなさま一度は、「薄墨桜見に行くぞ」と、気合を入れて訪れてみてくださいませ。

 

それでは、ごきげんよう。

 

 

 

 

Hello everyone, this is Staff Y.

 

Here in Nagoya, the cherry blossoms are almost over.

The fresh green, which had begun to prepare behind the petals, began to appear as if it was waiting for the next turn, and when I noticed it, the faint green was beginning to cover the trees.

I really like the transition of this indescribable season. Especially in the transition of spring, I can feel the breath of various lives, and at this time when I want to feel it even a little every year, I feel somewhat restless lol.

 

The other day, the restlessness was finally activated, and I went to see “Sakura” where you can really feel the breath of life.

For a long time, I had been thinking that I should definitely go while I was alive (exaggerated …) in Motosu City, Gifu Prefecture.

It is “Usuzumi Sakura”.

 

It’s a beautiful name. This cherry tree is an Edohigan cherry tree over 1500 years old in the Tansumi Park in the Neo district of Motosu City, Gifu Prefecture, and is a national special natural monument. The light pink cherry blossoms are light pink when they are buds, white when they are in full bloom, and have a peculiar light ink color when they are scattered. Tree height 16.3m, trunk enclosure street 9.91m, branching 26.90m east-west, 20.20m north-south. The age of the tree is estimated to be over 1500 years, and it is said that the Emperor Keitai planted it by hand. Although it is one of the three giant trees in Japan, it has been a dream since I wanted to experience its overwhelming vitality and breath with its branches larger than that.

 

 

 

There was a situation these days, but more than anything else, even if I say Gifu prefecture next door, it is quite accessible from here in Nagoya. It’s hard to reach if I have to swear to my heart, “Let’s go see this cherry blossom on this sunny day at this time.” No, there was …

 

Anyway, it’s a little disappointing that the size of this cherry tree is not transmitted well by the skill of the cameraman, but please take a look at “Usuzumi Sakura” first while comparing it with the size of the people around you. No.

 

Can you imagine the size of the giant tree and how the petals of light ink are scattered? It’s difficult to tell well …

 

When the tree is 1500 years old, it often encounters a pinch of death due to wind and snow. Every time, it was protected and regenerated by many people, and somehow it was revived. In addition to the vitality of this cherry blossom, Usuzumi Sakura is also a history of people’s protection and regeneration, and many people’s activities for cherry blossoms are well known, such as the writer Chiyo Uno appealing for its protection.

While inheriting such thoughts for 1500 years, the cherry blossoms have large branches and the petals of thin ink are in full bloom this year as well. It’s wonderful.

 

As mentioned earlier, this cherry blossom is light pink when it is a bud, white when it is in full bloom, and has a unique light ink color when it is scattered. We are here.

There is a song about the situation when Emperor Keitai planted cherry blossom saplings to the residents who were taken care of when he returned to the capital from Motosu, Gifu prefecture, where he was hidden and raised.

 

The body and the cherry blossoms that are left behind are thinly lived, and their name stops in Sakae in Chiyo.
(Minoshiro and her rubbing Sakura she’s thin, she’s back to her, and she’s staying with her)

 

Perhaps the Emperor Keitai wrote in this way when he stood in front of the same cherry blossoms that I saw yesterday and saw the same light ink color, but the light ink color was very impressive from that time. And, as the Emperor of Japan wrote, this “Usuzumi Sakura” has left its name in Chiyo, and above all, this cherry tree will surely be surprised.

 

I would like to ask the story of the giant tree, which survived 1500 years later to make its name prosperous, asking, “How was the view of the 1500 full blooms you have received so far?” was.

 

Everyone, please come visit us someday with a spirit of “I’m going to see the cherry blossoms.”

 

Well then, good luck.

 

 

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美術展の日、黒猫日和(愛知県名古屋市千種区姫池通 骨董買取いたします 古美術風光舎名古屋店)

2022.04.09

皆さまこんにちは

 

最近、キムチ豆腐にはまっております、スタッフNでございます。

 

 

今日は朝から嬉しいことがございました。

先ほど、ポスティング途中で可愛い黒猫にお会いすることができました。

猫を見ると咄嗟に写真を撮ってしまうのですが、今回は残念ながらうまく取れませんでした。

黒猫は縁起が悪いと嫌われがちですが、私の周りの黒猫はそういわれているのがわかっているのか、人懐っこくいい子が多い気が致します。

写真は私の家にある、黒猫の絵でございます。ガンダムなどの絵も描いている有名な方だそうです。

野良猫に会う機会もめっきり減ってきて少し寂しい気も致しますが、皆どこかのおうちの子になって室内で幸せに暮らしていることを願います。

この黒猫、帰り道にもう一度再会することができて幸せな日でございました。

 

 

 

さて、4月9日は、1667年にフランス・パリで世界初の美術展が開催された日だそうです。

 

フランスの王立アカデミーが、パレロワイヤルの一画でこの日から23日まで、アカデミー会員の作品を一般公開いたしました。しかし、当時の人はあまり関心を示さず、その後も1年おきに実施されましたが、反応はいまひとつで、美術は王侯貴族のものであって、大衆にはそんな余裕はなかったようでございます。

 

もともとアカデミーは、徒弟制のもとで工房、職人組合など属していた画家や彫刻家、あるいは音楽家達が、芸術は知的な学問分野であり旧弊な制度は廃されるべきだとして結成した自由な集まりでありました。やがて彼らは国王直属の機関となり、ヨーロッパに冠たる芸術国家を作ろうという国家の芸術政策のもと、芸術家の育成・表彰・展示といった特権を独占致します。フランス革命前に、芸術関係では、絵画彫刻アカデミー(1648年、シャルル・ルブランらにより設立)音楽アカデミー(1669年設立)建築アカデミー(1671年設立)がございました。

フランス革命議会により、1791年王立アカデミーは廃止されましたが、1795年に再興致しました。王政復古期の1816年に「芸術アカデミー」に統合されました。

アカデミー制度の中心になるのは、修業方式でない方法で芸術家を育てる教育機関(エコール・デ・ボザール)、若手の芸術家から優秀な者を選びイタリアなどへの学習旅行を贈るコンクール(ローマ大賞)、自分達の発表の場を自分達で確保する展覧会(サロン)の3つでございます。

エコール・デ・ボザールは、17世紀のフランス王立アカデミーの付属学校が起源でございます。1819年に、絵画・彫刻・建築の部門が統合され、国立の美術学校(エコール・デ・ボザール)となりました。1968年の5月革命後、組織の再編が行われました。

ローマ大賞は、1803年に創設されました。絵画、彫刻、建築、音楽の各分野から毎年1名が選ばれ、ローマ留学の資格を得ることができます。現在は廃止されています。

フランス王立絵画・彫刻アカデミーは、1667年にパレ・ロワイヤル(パリ)で作品展を行い、これが美術展の始まりとされております。ルーヴル宮サロン・カレ(方形の間)で開催される展覧会(官展)をサロンと呼びました。

フランス革命後、絵画・彫刻アカデミーは廃止されますが、王政復古のもとで芸術アカデミーに統合されます。革命後、サロンはアカデミー会員による審査のもと、アカデミーに属しない一般の画家にも開かれました(公募展の始まり)。サロンへの出展が決まることが若手美術家の目標であり、サロンは登竜門になりました。アカデミーの審査員は、新古典主義的な美学を持っており、また旧来の貴族や新興のブルジョワたちの趣味に迎合する傾向があったため、保守化の傾向にありました(アカデミズム)。サロンでは新しい傾向の作品は受け入れられず、次第に若い作家たちの間に不満が高まっていきました。これら新しい傾向は、欧州を覆う自由主義を求める政治運動や科学の急速な発展とも密接につながっていおりました。

 

第二帝政期、皇帝ナポレオン3世は独自の芸術政策を進めてアカデミーと対立いたします。1863年には例年になく厳しい審査に、落選させられた作家たちの不満が高まると、皇帝は美術愛好者や大衆に判断を任せるため、落選作品を集めた展覧会を開くことをアカデミーに命じました。この「落選展」で、マネの「草上の昼食」が日常生活の裸を描いたことでスキャンダルを起こし話題になりました。1881年にフランス芸術家協会が設立され、サロンの運営を行うことになりました(民営化)。

1874年にはのちに印象派と呼ばれるグループが独自の展覧会(第1回印象派展)を開きました。1884年には無審査・出品無制限のアンデパンダン展(Salon des Indépendants)、また、1890年には別に国民美術協会(ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール)主催のサロンも開催されるようになります。1903年のサロン・ドートンヌ展開催以降も多くのサロンが誕生するようになっていきます。

印象派など、後に近代美術の祖となった芸術家たちはそれぞれの美学に立って、アカデミーの美術学校(エコール・デ・ボザール)が教えるような技巧優先の保守的な美術を「アカデミー的(アカデミック)」と呼んで攻撃しました。アカデミーに属さずサロンにも出さない美術家が増え、彼らは独自のグループや結社を組み、個展や独自のグループ展を行うようになりました。20世紀に入り第一次世界大戦以後、これら19世紀半ばの近代美術の画家達が評価されるようになると、逆に彼らを攻撃した芸術アカデミーのアカデミックな作風の大家たちは忘れられるようになっていきます。

官展の流れを汲むサロン(ル・サロン、フランス芸術家協会展)は現在でも毎年行われていますが、近年はこれまで使用していたグラン・パレ(1900年のパリ万博に際し建てられたガラスと鉄骨の大展覧会場)が老朽化し修理のため長い閉鎖に入ったため、他の大規模会場でサロンを行っています。また、第二次世界大戦後は芸術の中心がパリからニューヨークに移動したこともあり、サロンが芸術界(アート・ワールド)に及ぼす影響も、かつてほど大きくなくなっています。2006年以降、グラン・パレでのサロン展再開に伴い、複数のサロンが合同で開催されるSalon EN CAPITALが開催されるようになり、今後のフランス・サロン界の巻き返しが期待されています。また、2008年にはフランス学士院総裁である、Prince Gabriel de BROGLIE (Chancelier de l’institut de France) により、LA SECTION DE GRAVURE DE L’ACADEMIE -DES BEAUX-ARTS EXPOSE ET RECOIT SES INVITESが、グーテンベルクから変容し続ける版画(印刷術、書誌学)をテーマに4人のアカデミシャンへのオマージュ展として、現代活躍する版画家を招き開催されました。

 

フランスの芸術に寄与したことにより、会員(正会員・準会員)に選出された日本人がいます。例えば氏家齊一郎氏は、日本でのフランス美術の展覧会の主催、ルーブル美術館のモナ・リザの間に出資するなどの功績により選出されました。本会員は、毎週木曜日のアカデミーの会議等への出席が義務付けられています。

他にも、丹下健三(建築家、準会員)、小林與三次(読売新聞名誉会長・日本テレビ放送網会長、準会員)、小澤征爾(指揮者)(2001年、準会員。2008年9月24日〜、日本人初の本会員)などが会員に選出されております。

昔の人々のおかげで、私たちが美術を手軽に楽しめるようになったのですね。

もっと美術館に足を運んでみようと感じました。

ではでは

 

 

Hello everyone

My name is Staff N and I’m addicted to kimchi tofu recently.

I was happy from the morning today.

Earlier, I was able to meet a cute black cat during posting.

When I see a cat, I take a picture, but unfortunately I couldn’t take it well this time.

Black cats are often disliked because they are unlucky, but I think there are many friendly children who know that the black cats around me are said to be so.

The picture is a picture of a black cat in my house. He seems to be a famous person who also draws pictures such as Gundam.

I feel a little lonely because the chances of seeing stray cats are decreasing, but I hope that everyone will be a child of somewhere and live happily indoors.

It was a happy day to see this black cat again on the way home.

By the way, April 9th ​​is the day when the world’s first art exhibition was held in Paris, France in 1667.

The Royal Academy of France has released the works of the Academy members to the public from this day to the 23rd in a part of Palais Royal. However, people at that time did not show much interest, and it was carried out every other year after that, but the reaction was not good, the art belonged to the royal aristocrats, and it seems that the public could not afford it. increase.

Originally, the academy was formed by painters, sculptors, and musicians who belonged to workshops, craftsmen’s unions, etc. under the apprenticeship system, saying that art is an intellectual academic field and the old system should be abolished. It was a gathering. Eventually, they will become an institution under the direct control of the King, and will monopolize the privileges of training, commending, and exhibiting artists under the national art policy of creating an art nation that is crowned in Europe. Before the French Revolution, in the arts field, there was the Academy of Painting and Sculpture (established by Charles Le Brun and others in 1648), the Academy of Music (established in 1669), and the Academy of Architecture (established in 1671).

The Royal Academy was abolished by the French Revolutionary Parliament in 1791, but revived in 1795. It was integrated into the “Academy of Arts” in 1816 during the Restoration.

At the center of the academy system is an educational institution (Ecole des Beaux-Arts) that trains artists in a non-training manner, and a competition that selects excellent young artists and gives them a study trip to Italy (Prix de Rome). ), There are three exhibitions (salons) that secure their own place for presentation.

The Ecole des Beaux-Arts originated from the school attached to the Royal Academy of France in the 17th century. In 1819, the painting, sculpture and architecture departments were integrated into the National School of Fine Arts (Ecole des Beaux-Arts). After the May 1968 revolution, the organization was reorganized.

The Prix de Rome was founded in 1803. One person is selected each year from the fields of painting, sculpture, architecture and music to qualify for study abroad in Rome. It is now obsolete.

The Royal Academy of Painting and Sculpture in France held an exhibition at Palais Royal (Paris) in 1667, which is considered to be the beginning of the art exhibition. The exhibition (public exhibition) held at the Louvre Palace Salon Carré (square room) was called a salon.

After the French Revolution, the Academy of Painting and Sculpture will be abolished, but will be integrated into the Academy of Arts under the Restoration. After the revolution, the salon was opened to general painters who did not belong to the academy under the examination of academy members (beginning of the open call for participants exhibition). It was the goal of young artists to decide to exhibit at the salon, and the salon became a gateway to the dragon. Academy judges tended to be conservative because of their neoclassical aesthetics and their tendency to embrace the tastes of old aristocrats and emerging bourgeois (academism). New trends were not accepted at the salon, and dissatisfaction gradually increased among young artists. These new trends were also closely linked to the political movement for liberalism over Europe and the rapid development of science.

During the Second Empire, Emperor Napoleon III pursued his own artistic policy and confronted the Academy. In 1863, when the dissatisfaction of the rejected writers increased due to an unusually rigorous examination, the emperor ordered the academy to hold an exhibition of the rejected works in order to leave the judgment to art lovers and the masses. I did. In this “Salon des Refusés”, Manet’s “Lunch on the grass” caused a scandal and became a hot topic because it portrayed the nakedness of everyday life. The French Artists Association was established in 1881 to operate the salon (privatization).

In 1874, a group later called the Impressionists held their own exhibition (the 1st Impressionist Exhibition). In 1884, an unexamined and unlimited exhibition of Indépendants (Salon des Indépendants) will be held, and in 1890, a separate salon sponsored by the National Art Association (Societe National de Bozar) will be held. Many salons will be born after the Salon d’Automne exhibition in 1903.

Artists who later became the ancestors of modern art, such as the Impressionists, stand in their own aesthetics and “academic (academic)” conservative art that prioritizes craftsmanship as taught by the Academy’s art school (Ecole des Beaux-Arts). ) ”And attacked. The number of artists who do not belong to the academy and do not appear in the salon has increased, and they have formed their own groups and associations, and have started to hold solo exhibitions and their own group exhibitions. After World War I in the 20th century, when these painters of modern art in the middle of the 19th century were evaluated, the academic style masters of the art academy who attacked them were forgotten. I will continue.

The salon (Le Salon, French Artists Association Exhibition) is still held every year, but in recent years it has been used until now at the Grand Palais (glass built at the 1900 Paris Exposition). And the large steel exhibition hall) has been closed for a long time due to aging and repairs, so we are holding salons at other large halls. Also, after World War II, the center of art moved from Paris to New York, and the influence of salons on the art world is less than it used to be. Since 2006, with the resumption of the salon exhibition at the Grand Palais, Salon EN CAPITAL, which is held jointly by multiple salons, has been held, and it is expected that the French salon world will rebound in the future. In 2008, LA SECTION DE GRAVURE DE L’ACADEMIE -DES BEAUX-ARTS EXPOSE ET RECOIT SES INVITES was released by Prince Gabriel de BROGLIE (Chancelier de l’institut de France), the president of the French Academy. The exhibition was held as a tribute to four academicians with the theme of ever-changing prints (printing, biography), inviting contemporary printmakers.

 

There are Japanese people who have been elected as members (regular members / associate members) for their contribution to French art. For example, Seiichiro Ujiie was elected for his achievements such as hosting an exhibition of French art in Japan and investing in the Mona Lisa of the Louvre Museum. Primary members are required to attend academy meetings every Thursday.

In addition, Kenzo Tange (architect, associate member), Yosoji Kobayashi (Yomiuri Shimbun Honorary Chairman, Nippon Television Network Chairman, associate member), Seiji Ozawa (conductor) (2001, associate member, September 2008) From the 24th, the first Japanese main member) has been elected as a member.

Thanks to the people of the past, we can now enjoy art easily.

I felt like going to more museums.

See you soon

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新年度を迎えました。

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